「松山札辻より◯里」里塚石を探索せよ!Part.2-今治街道・波止浜街道編③-
皆さんは下の写真の場所を訪れたことはありますか?「札之辻」と刻まれた石碑が2種類建てられている場所です。
左側写真に写っている「里程」碑の裏面に、札之辻の由来が刻まれています。
札之辻の由来
松山札之辻は、松山城と大林寺(城主代々の墓所)を結ぶ紙屋町の通りと、江戸時代松山随一の繁華街であった本町通りとの交差点にあたり、当時松山藩の制札所(高札場とも言う)のあった所で、伊予国の交通の起点となっていた。「松山叢談」によれば、ここから五大街道の里程が始まる。
「松山札之辻より何里」の石の里程標は、寛保元年(1741年)松山藩主第六代松平定喬公の時に、祐筆の水谷半蔵に書かせたものと伝えられている。
いま里程標は、各街道に合計三十数本が残存している。
昭和60年10月 建設省 松山工事事務所
(社) 四国建設弘済会
上の写真にも写っていますが、松山札之辻を出発点とする各街道の名称と各地点までの距離を以下に記します。
金毘羅街道 小松まで十一里 金毘羅まで三十一里
土 佐 街 道 久万まで六里 土佐まで二十五里
大 洲 街 道 中山まで七里 大洲まで十三里
今 治 街 道 北条まで四里 今治まで十一里
高 浜 街 道 三津まで一里 高浜まで二里
「札之辻の由来」にもある通り、ここを起点に延びた街道沿いには、道路の方向や距離などを示すため、一里〔約4km〕ごとに「里塚石〔りつかいし〕」が建てられました。この石が昭和60年当時、30数本残存しているというのです。
これは、その里塚石を求めて探索した記録です。当時の各街道が現在のどの道にあたるのかも含めてまとめていきます。第2回は松山市から今治市に向かう今治街道を巡ります。この街道は今治市大西町で今治市市街地方面と波止浜方面とに分岐し、後者は波止浜街道とも呼ばれています。それでは始めましょう。
【参考資料】ブログ「四国の古道・里山を歩く」今治街道を歩く
Part.2 今治街道及び波止浜街道沿いに建てられた里塚石③
前回は「三里」里塚石までのルートとその途上にある史蹟を紹介しました。本稿では、「三里」里塚石から「五里」里塚石までのルートと史跡を紹介していきます。この区間は、日本の教育・文化の発展に大きく寄与した人物ゆかりの地です。どの人物でしょうか?一緒に確認しましょうね。
「松山札辻より四里」里塚石
「四里」里塚石は、松山市北条辻町の伊予銀行北条支店向かいにあります。「三里」里塚石からここまでのルートを地図で確認しましょう。
「三里」里塚石から北へ向かい、高山川を渡って少し進むと今治街道と旧国道との分岐があります。左側の道が今治街道です。今治街道が再び旧国道と合流する地点から少し北へ進んだところに柳原のバス停があり、その側に石碑が建てられています。
この石碑には何と刻まれているのでしょうか?正面から撮影した写真をご覧ください。
よく見てみると「柳原館趾」と刻まれているようです。これについて、「こたろう博物学研究所」ホームページに次のような記載がありました。
柳原館の由来
「大職冠藤原鎌足を祖とする権納言正二位柳原資衡の後裔権中納言尚光公は伊予水軍村上氏との縁故あるを以て全国掌握の陰謀ありとの讒にあい、1489年3月勅勘を蒙りこの地に来る。世人ためにこの館を柳原殿と呼びこの地を柳原と称す。当所は即ちその館跡と伝う。のち尚光公勅免を得て京へ帰るべきを1513年5月3日当館に病没すという。今ここに碑文を乞はるるままに筆をとりこれを記す
昭和61年4月吉日 原田改三書」(説明書き)
『こたろう博物学研究所」ホームページ 伊予の隅々 松山市(旧・北条市) ※ 文字の色はホームページと同じ
「柳原」という地名の語源となった柳原尚光公の館跡なのですね。菅原道真もそうですが、讒言にあって地方へ追放されるというのはよくありました。柳原尚光公がこの地に来た1489年は、山城の国一揆や加賀の一向一揆などの大規模な一揆が起きるなど、政情不安定な時期です。近くにある三穂神社の境内に、「柳原地名誕生之碑」と刻まれた碑が建てられていました。
三穂神社には、もう一つ触れておかなければならないものがあります。「柳原地名誕生之碑」の隣にあるお堂と二つの石碑です。
近江聖人と呼ばれ、日本陽明学の祖とされる江戸時代前期の儒者中江藤樹の名が刻まれています。彼と柳原の地にはどのような関係があるのでしょうか?
【大洲市内各所に建つ中江藤樹像】
『伊予細見』ホームページにその詳細が記されていましたので引用します。
中江藤樹と柳原との関係
2001年の11月に、今は松山市になった旧河野村柳原の雪雀酒造を訪ねた時のことである。道路の向側の猪野啓文堂という文具店の脇に「中江藤樹先生立志之地」という石碑が建っているのに気が付いた。文具店のご主人に碑の由来を伺うと、その店舗から背後の三穂神社の辺りにかけて、少年時代の藤樹が祖父とともに暮らした約600坪ほどの広さの邸があったということを親切に教えていただいた。〔中略〕
とにかく、祖父の養嗣子となって米子に行った冬樹は、10歳になった、元和3(1617)年に祖父の主家加藤家が伊予大洲に転封(てんぽう)になったため、祖父母とともに大洲に移った。そして、その年の冬に祖父が風早郡の郡奉行(郡内農村の民政を司る役人)となったので、風早に来たのである。
『伊予細見』ホームページ 第109回 風早の中江藤樹 ※ 太字及び下線は引用者による
【参考】『伊予細見』ホームページ 第109回 風早の中江藤樹
この場所は、戦国時代には柳原尚光公の、江戸時代初期には中江藤樹の館だったのですね。そして、中江藤樹の祖父の主家が大洲藩主加藤家だからこそ、「大洲藩士中江家 大洲藩主加藤家の小祠」碑も建てられているのですね。『伊予細見』ホームページによれば、中江藤樹はこの地で4年暮らしたとのことです。ここで、陽明学について触れておきましょう。
陽明学とは?
陽明学
江戸時代、朱子学を批判して、明の王陽明が説いた思想を信奉する儒学の一派。江戸前期の中江藤樹を始祖とし、門下に熊沢蕃山・淵岡山が出た。中期には、三輪執斎・中根東里らがあり、後期には佐藤一斎・大塩平八郎・山田方谷らが輩出。幕末期には梁川星巌・真木和泉・吉田松陰・西郷隆盛らがその影響をうけた。ほかの学派のような系統的連続性をもたず、思想的にも日本的な解釈や片寄りがみられたが、明治以後、「知行合一」をとなえたその実践思想が幕末維新の思想的原動力の一つとみなされ、注目されるようになった。
『角川日本史辞典』 ※ 太字は引用者による。
『角川日本史辞典』に記載されている「知行合一」は、大成小学校跡に建つ石碑にも刻まれていますね。また、喜多小学校には「知良致」の文字があります。それらの教えの意味を確認しておきましょう。
【陽明学の思想① 知行合一】
「知行合一(ちこう ごういつ)の意味
知識と実践は一体であるということ。また、知識があっても実践をしなければそれは本当の「知」とはいえず、知識に実践が伴ったものが本当の「知」であるという考え方。
『四字熟語辞典 ONLINE』 ※ 下線は引用者による
【陽明学の思想② 知良致】
「知良致(ちりょうち)の意味
(「良知」は、人間の心情の正しいはたらき、是非・善悪を知る心のはたらき)正しい心のはたらきを究極にまで発現させること。良知という概念は「孟子一尽心上」に始まるが、王陽明がこれを発展させ、陽明学のもっとも根源的な指針とした。
『精選版 日本国語大辞典』 ※ 下線は引用者による
なるほど、本当の「知」=知識に実践が伴う、か。私もその教えに従い自分を高め続けたいものです。
それでは、「四里」里塚石までの旅を続けましょう。旧街道に戻ってさらに北進すると、河野川を渡った左側に高浜虚子の胸像が道路に向かって建っています。
ここは「西の下(にしのげ)」といい、高浜虚子が幼少期を過ごした場所です。同地には西ノ下大師堂と虚子の句碑が建てられています。
【西ノ下にある高浜虚子の句碑】
・ここにまた 住まばやと思ふ 春の暮〔昭和15年、父の50回忌で帰省した時に詠んだ句〕
・この松の 下にたたずめば 露のわれ〔「ホトトギス」大正6年12月号に発表した句〕
・道の辺に 阿波のへんろの 墓あはれ〔昭和10年4月25日にこの地で詠んだ句〕
河野川からさらに北進すると、北条石油前で道が二股に分かれています。左の道が今治街道で、入ってすぐ左側に赤大師〔赤地蔵さん〕と呼ばれる地蔵堂が建っていました。
このお地蔵さんは目や口が手書きで書かれ化粧も施されていて、一種独特な表情をしています。近くで撮影しましたのでご覧ください。
赤大師の由来について、地蔵堂の側に建てられた解説板を読んでみましょう。
再び旧国道に出て北進し、辻町の商店街に入ると、伊予銀行北条支店の所で道が鉤形になっています。
道が右にカーブしている所にある石は、遍路道標でした。
この遍路道標の正面、明星川に架かる橋上に「松山札辻より四里」里塚石と「花へんろの町」碑が並んで建てられています。
樹木が背後にあるため撮影できませんでしたが、「花へんろの町」碑の裏には「金毘羅へ三十二里」と刻まれているそうです。ちなみに、「四里」里塚石に向かう途中、北条駅前交差点を左折して鹿島神社大鳥居まで行くと、その側に自然災害伝承碑が一基建てられています。
この碑の詳細については、当方のブログで紹介しています。リンクを添付しますので、宜しければご覧ください。
【参考】自然災害伝承碑を訪ねて…⑥ 昭和21年12月21日発生、昭和南海地震等からの復旧の記憶Ⅱ・松山市北条
「松山札辻より五里」里塚石
「四里」里塚石から「五里」里塚石までのルートは県道から大きく離れ、鴻の坂峠を越えて浅海原に抜けます。このルートを地図上で確認しましょう。
「四里」里塚石から北に進むと、右手に三穂神社が見えてきます。自然石の大きな常夜燈が物凄く目立っています。
今治街道はここで左折して旧国道から離れます。道を真っ直ぐ進むと、目前に大きなお地蔵様が見えてきます。
今治街道はここまで進むと行き過ぎです。お地蔵さまから手前右の電柱の足元にある遍路道標の所を右折します。
真っ直ぐ進むとすぐに突き当たりになるので、右折してすぐ左折し、立岩川の方へ向かいます。右折した右手には杖大師がありました。
下の写真は杖大師の前から北方向を撮影したものです。
写真中央のフェンスはクラボウ北条工場があった辺りですが、平成25〔2013〕年の閉鎖後は全ての敷地が太陽電池に置き換えられていました。フェンスの前を真っ直ぐ進むと立岩川に到達します。
立岩橋が架けられる前はここに渡し場があり、人々は舟で川を渡っていたそうです。さて、渡河した後の街道のルートを再確認しましょう。
下の写真は、立岩川を渡ったところから辻町方面を撮影したものです。渡し場跡だと分かるでしょうか?
立岩川を渡った所に北条浄化センターがあります。この右側にある道が今治街道で、真っ直ぐ進むと国道196号に合流します。
国道の方へは進まず、JRの踏切を渡って腰折山の方へ進む道が今治街道です。街道の詳細を示すため、国道を渡った所から鎌大師まで拡大した地図を表示します。
それでは、今治街道のルートを確認しましょう。JRの踏切を渡ってすぐ右手に下難波石風呂集会所、左手に地蔵堂と遍路道標があります。
地蔵堂には「馬頭観音」が祀られていました。近くで撮影しましたのでご覧ください。
【参考】Wikipedia 馬頭観音
ここから北東方向に進むと小さな四辻があり、続いて道が二股に分かれている箇所に到達します。ここに遍路道標が立てられています。
左の山の方へ登っていく道は「新道」と刻まれていますね。今治街道及び遍路道は右側の小川沿いの細い道です。しばらくすると鴻の坂峠に向かう新しい高架道路に出ます。この下を潜って突き当たりを北進すれば、鎌大師に到着です。なお、道が細すぎるため、自動車での通行はお勧めしません。別ルートで鎌大師を訪れてくださいね。
鎌大師とは何でしょうか?
鎌大師の由来
平安時代、弘法大師四国巡業のみぎり、草を刈りつつ泣く童子を見てわけを聞くと、「疫病が流行し姉が死に弟も患っており、一族死滅するのではないかと心配で」と言う。大師はこれを憐み童子の持っていた鎌で木片に自分の像を刻み、これに祈願するようにと言い残し立ち去った。童子がその言葉どおりにすると、病人は快癒し、地方の悪病も消滅した。その仏像を本尊として堂を建て、「御自作鎌大師」と称したと言うのがその伝説であり、由来である。
『松山市公式ホームページPCサイト 鎌大師境内 』
鎌大師とは弘法大師の伝説を今に伝えてくれる場所でした。境内にはお遍路さんの休憩所があり、日本文化の発展に貢献した人物の碑がいくつか建てられていましたので紹介します。
芭蕉塚は、寛政5〔1793〕年、芭蕉100回忌にあたり、翁の遺徳を偲ぶ人々によって建てられたとのことです。そういえば、他の場所にも芭蕉塚がありますね。
さらに、小林一茶がこの地を訪れていたようで、解説板が建てられていました。
ちなみに、「風早活性化協議会」が『四国・愛媛 風早一茶のみち』と題して散策ルートを記したパンフレットを作成しています。リンクを添付しますので、どうぞご覧ください。お時間がありましたら、「一茶の道」を辿ってみてくださいね。
【参考】『四国・愛媛 風早一茶のみち 俳人・小林一茶の足跡をたどる』
鎌大師から北進し、鴻の坂峠に向かいます。下の写真はその出発点です。「へんろ道」の案内標識がありますね。
この細道を北進すると、先ほどの高架道路から続く道と合流します。北条育成園手前の道端に遍路道標が建てられていました。
2枚目の写真に写っている軽トラックが進む道が今治街道です。令和4年3月現在、鴻の坂付近では道路工事が行われていて、6月下旬までは通行止めの状態が続くそうです〔土日は除く〕。訪れる際には御注意ください。そして、いよいよ鴻の坂峠です。
ここからは風早長浜海岸付近が眺望できます。なかなか風光明媚な風景が眼前に広がりました。
休憩所前には遍路道標が建てられていました。
遍路道標右側の小道を下っていくと、「松山札辻より五里」里塚石が設置されている味栗集会所に到着します。
本稿は以上で終わります。次回は「五里」里塚石から「七里」里塚石までのルートと史跡を紹介します。いよいよ松山市を過ぎて今治市に入ります。ご期待ください。