「からつ」行商のまち松前② -陶磁器行商の歴史と変化-

Teacher

 Takashi君、今日は松前町における陶磁器行商の歴史とその変化について取り上げます。

Takashi

 明治10年代には砥部焼の窯元たちと新立地区で暮らす人々との間に密接な関係がすでに形成されていたのでしたね。

【参考】「からつ」行商のまち松前① -浜地区発展の歴史-

Teacher

 そうでしたね。松前は「おたたさん」による魚等の行商で有名ですが、明治時代に入ると、遠隔地行商として砥部焼を主とした「からつ船」による陶磁器行商が始まったのです。砥部と松前が密接に結びついた背景について、もう一度確認しておきましょう。

砥部と松前が密接に結びついた背景

 松前に古くより行商の伝統があり、また、伊予水軍の伝統を引く操船技術が、砥部焼の販路拡大には是非とも必要なものであった。また、道路や鉄道が未発達の時代においては、船が物資を大量かつ遠方まで運べる運搬手段であった。

『松前史談 第10号』
Takashi

 明治初期はまだ船での運搬が一般的だったのですよね。

Teacher

 陶磁器を積み、販路を遠隔地に求めて行商する帆船のことを松前地区では「からつ船」や「五十集(いさば)船」「わいた船」と呼んでいました。「五十集船」とは五十集物(干魚や塩物などのこと)を運送する船のことをいい、「わいた船」とは行商中に寄港した場所で陶磁器の大安売りをして賑わった様子から付けられた呼称です。砥部の窯元から直接買い込んだ陶磁器を大量に積み込み、大体年3回、定期的に航海に出たそうです。「からつ船」の構造について、地域の方が次のように話してくださいました。

「からつ船」の構造

 からつ船は風の力で動く帆船で、船の中は機関室と『からつ』を入れるための荷室がいくつかあるだけでした。荷室の天井部分は蓋になっていて、神輿の館の屋根の形をしていたので、からつを搬入したり搬出したりする際には、その蓋を取り外した状態で行っていたことを憶えています。

 私はからつ船に乗って行商をしたことはありませんが、船の上から海に飛び込むという遊びを子どものころ(昭和10年代)はよくしていました。二つある帆のうち、後ろの帆の辺りに登って立ち、そこから何回でも海に飛び込んだものです。

『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町-』 ※ 下線は引用者による
Takashi

 簡単な構造だったようですね。写真はありませんか?

Teacher

 松前のものではないのですが、福岡県福津市が発行したパンフレット「国登録有形文化財 津屋崎千軒民俗館 藍の家」に五十集船の写真が掲載されています。船の構造を理解するための参考にしてください。

【参考】パンフレット「国登録有形文化財 津屋崎千軒民俗館 藍の家

Takashi

 神輿の館の形をした屋根はないようですが、このような船に陶磁器などを積んで運搬したのですね。

Teacher

 そうです。それでは陶磁器行商の歴史についての話を始めましょう。

Contents

  • 「からつ」行商の歴史
  • 住吉通り沿いの陶磁器問屋
  • 「からつ」から「かんづめ」へ

① 「からつ」行商の歴史

Teacher

 まず最初に砥部焼の歴史を確認しましょう。

砥部焼の歴史 ※ 砥部町ホームページ「砥部焼の歴史」をもとに作成
Takashi

 明治18〔1885〕年に砥部焼を清国へ輸出していますが、これは松前港からですよね。

Teacher

 その通りです。次に、『松前町誌』の記述を参考に、松前の「からつ」行商の歴史をまとめてみましょう。

松前の「からつ」行商史 ※ 『松前町誌』の記述をもとに作成
Takashi

 明治13〔1880〕年には砥部で生産された全ての陶磁器が松前から搬出されている!すごいですね。

Teacher

 明治時代後期には砥部以外の地で生産された陶磁器も運搬するようになっていますね。明治末期には、松前に陶器問屋が40軒からつ船が50隻あったそうです。

Takashi

 この頃が松前の「からつ」行商の全盛期ですね!

Teacher

 ところが、ちょうどその頃日本社会が大きく変化し、次第に松前の行商は時代に合わなくなっていきました。

Takashi

 どういうことですか?

Teacher

 次の画像を見てください。

※『松前町誌』の記述をもとに作成
Takashi

 そうか、次第に大型の船が中心になっていったのですね。

Teacher

 はい。それに昔の松前港は遠浅で、干満の差が激しかったそうです。昭和初期の松前港の様子について、地域の方は次のように話してくださいました。

東レ誘致前の松前港

 昭和12年(1937年)に東レが誘致されるまでの松前港は、国近川と長尾谷川から流れて来る土砂が堆積して大きな中州が形成されていて港の入り口が狭く、本当に小さな港だったことを私はよく憶えています。また、干満時それぞれの風景が全く異なっていたのも昔の松前港の特徴です。干潮時には潮が200mくらい沖の方へ引いて遠浅の状態(海や川の岸から遠方まで水の浅いこと)になり、新立から本村まで歩いて渡ることができるほどでした。当然船は沖の方の波打ち際に停泊させなければならず、漁から戻って来た人々は遠浅になった所を歩いて帰って来ていました。満潮時には、潮が満ちて新立から対岸の本村までの幅が25mくらいになったので、そのときには何度か泳いで渡ったことをよく憶えています。しかし、港の改修工事が繰り返し行われた結果、そのような風景を見ることはなくなってしまいました。

『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町-』 ※ 太字及び下線は引用者による
Takashi

 なるほど。それでは大型船は停泊できませんよね。

Teacher

 そうなのです。こうして松前による陶磁器行商は次第に衰退していき、大型船も停泊できる郡中港〔現伊予港〕松前港に代わる搬出港として重用されるようになったのです。

Takashi

 時代の変化に対応することは、いつも時代でも難しいものですね。

Teacher

 そうかもしれません。前回紹介した「砥部焼窯元寄附者芳名記念碑」は、松前の「からつ」行商全盛期の様子を現在の私たちに伝えてくれる貴重な石碑なのです。

砥部焼窯元寄附者芳名記念碑 ※ 新立地区の住吉神社境内にある

② 住吉通り沿いの陶磁器問屋

Teacher

 では次に、「からつ」行商で栄えた新立地区の陶磁器問屋について、地域の方からお伺いしたお話を紹介します。

Takashi

 先生、住吉通りとは、住吉神社付近の通りのことですか?

Teacher

 そうです。地域の方は、住吉通りについて次のように話してくださいました。

陶器問屋が並んでいた住吉通り

 私たちは、住吉神社に続く道ということで、陶器問屋が多く並んでいた通りのことを『住吉通り』と呼んでいました。陶磁器は砥部街道(現県道214号)を通って馬車で運ばれ、陶器問屋に到着したらまず倉庫に一旦搬入し、からつ船が港に停泊したときに陶器店の方が陶磁器を担いで積み込んでいました。

『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町-』 ※ 太字及び下線は引用者による
Teacher

 今回お伺いしたのは、昭和20年代の住吉通りの様子です。再現図を作成しましたので見てください。

昭和20年代の住吉通り ※ 地域の方からの聞き取りをもとに作成
Takashi

 住吉神社の鳥居前から北に走る道路を住吉通りと呼んでいたのですね。

住吉通りの現況〔金井陶器店付近〕
Teacher

 そうです。では、それぞれのお店のことについて確認しましょう。

ア 金井陶器店〔図のア〕

金井陶器店

 卸専門のお店で、砥部焼の窯元と提携して兄弟で商売を行っていました。新立地区にある店舗の中では販売せず、出店で販売していました。いつのことだったか私の所に来て、『田んぼを貸してほしい。』と頼むので貸してあげたところ、そこに家を建て、陶磁器の販売を行うようになったことをよく憶えています。

 出店での販売以外ではからつ船での遠方への販売が中心で、瀬戸内海の島々を廻って販売する方法と県外へ販売しに行く方法との二通りがありました。からつ船は金井陶器店が独自に所有しているものではなく、網元が所有する船を契約して使わせてもらっていました。新立地区の人々の生活は昔から漁業が中心です。個人営業で、自分が所有する小型の機帆船を活用して主にエビこぎ漁を行っていたので、かなり多くの船が港に停泊していました。新立地区に陶器問屋が数多く集まって来たのも、網元と提携すれば船が活用できたからですこれはどの陶器問屋も同じで、からつ船を自分で所有しているという所はありませんでした

 また、建物は東西に長く、東側(住吉通り側)が事務所、西側(港側)が倉庫になっていて、倉庫の入り口から船の停泊場所までの距離は現在の道幅と同じで、全く変わっていません。その距離を、陶磁器を担いだ人たちが歩いて往復していた光景を私はよく憶えています。また、船が出航する前日には、商売繁盛と家族の無事を願うために祝宴が開かれていました。八幡浜の方でもトロール船が出港する前日に祝宴を開きますが、それと同じです。私は金井陶器店の方とは親戚で、私の父親が祝宴によく呼ばれていたので、私もついて行って御馳走をいただいたものです。

『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町-』 ※ 太字及び下線は引用者による
Takashi

 網元と提携!松前は漁業も盛んですから、理にかなっていますね。

Teacher

 そうですね。現在、金井陶器店は国道56号沿いにも店舗があり、そちらでも陶磁器の販売を行っています。また、ガラス食器の製造・販売もしています。

イ 阪井陶器店〔図のウ〕

阪井陶器店

 住吉通りの一番北にあった阪井陶器店も金井陶器店の親戚で、戦前にはすでに洋品店に変わっていました。その理由は分かりませんが、おそらく洋服が普及していく中でその販売に専念することを決め、陶磁器の販売については金井陶器店に任せるようにしたのではないかと思います。

『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町-』 ※ 下線は引用者による
Takashi

 戦前といえば「からつ」行商を行う問屋の数が減少していた時期ですね。阪井陶器店のように他のものを販売するようになった陶器問屋もあったのかもしれませんね。

Teacher

 この洋品店は現在も営業を続けておられます。県道326号沿いにある「さかい衣料品店」がそれです。

ウ 兵頭福松商店〔図のエ〕

兵頭福松商店

 このお店は、金井陶器店と同様に兄弟で陶磁器の卸販売を専門に商売をしていました。戦前はからつ船での陶磁器販売が中心で、店舗が海に面していないので、陶磁器をからつ船に搬入するときには、いつも金井陶器店の北側にある細い道を通って陶磁器を運んでいたことをよく憶えています。この道幅も昔と全く変わっていません。戦後には、美術の授業で使用するための陶器のお皿の販売を専門とするようになり、各学校を訪問して契約をしていました。

『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町-』 ※ 下線及び太字は引用者による
Teacher

 兵頭福松商店が陶磁器を運んでいた道は、現在もそのまま残されていますよ。

陶磁器を運搬した道 ※ 左の建物は金井陶器店
Takashi

 結構細い道ですね。

Teacher

 そうですね。兵頭福松商店は廃業され、店舗があった場所は現在更地になっています。

エ その他

Teacher

 陶器問屋の紹介の最後に、住吉通りにあったその他の店舗についてふれておきましょう。

  • 沢井陶器店〔図のオ〕 … 住吉通りに面した所が店舗で、そこから東に2軒離れた所が自宅。営業は戦前まで。
  • 個人で行商〔図のカ〕 … 北海道や九州のような遠方へ行商をしに行くのではなく、瀬戸内海の島々を船で廻っていた。
  • 儀助煮の製造・販売〔図のキ〕… 昭和初期にはすでに製造・販売を行っていた。
Takashi

 先生、儀助煮とは何ですか?

Teacher

 儀助煮という名称は、もともと福岡県の宮野儀助氏がつくだ煮の腐敗を防ぐ研究の過程で考案されたことから名付けられたものです。新立地区のお店について、地域の方は次のように話してくださいました。

儀助煮の製造・販売

 私が子どものころにはすでに製造・販売をされていたので、旧松前町でのお店の元祖だと思います。儀助煮というのは、芋けんぴくらいの大きさの小魚を煮て、青のりなどをかけて炉の中で炙って乾かしたものです。子どものころ、このお店に行って儀助煮を食べさせてもらったことを今でも憶えています。

 儀助煮の販売は、おたたさんが行っていました。おたたさんは近所の家々や松山市など近距離で商品を売り歩いていましたが、自分が販売を担当するエリアが決まっていましたし、お得意さんもそれぞれで獲得していました。代金については、販売した商品の名前と金額を『通い帳』におたたさんが書き留め、それを基にしてお盆と節句の時期にまとめて支払うという形でした。新立地区は、かつては本当に松前の中心地で、お金持ちもたくさんいたことをよく憶えています。

『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町-』 ※ 下線及び太字は引用者による

【参考】「ふるさと愛媛学」調査報告書『臨海都市圏の生活文化』-儀助煮の旅路-

Takashi

 「おたたさん」とは魚等を売り歩く女性のことですね。

【参考】株式会社いよぎん地域経済研究センターホームページ 日本一の珍味産地を作った「おたたさん」ゆかりのスポットを行く

Teacher

 そうです。松前町で儀助煮の製造が始まったのは明治末期ころのことで、3社で製造を開始しました。戦時中は3社とも製造をやめ、戦後復活しましたが、新立地区の製造業者の方は間もなく廃業されたそうですよ。

③ 「からつ」から「かんづめ」へ

Teacher

 それでは最後に、「からつ」行商衰退後の変化について見ていきましょう。

Takashi

 「かんづめ」とはあの缶詰のことですか?

Teacher

 正確には、「1斗缶の容器に珍味を詰めて運んだ」ことに由来しています。戦前には日本全国、さらに朝鮮、台湾、満州まで広く活動し、昭和5〔1930〕年には1,508名が行商に出ていたそうです。

【参考】『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』松前の行商

Takashi

 なるほど。「かんづめ」行商へと転換していったということですね。

Teacher

 その通り。しかし、昭和14〔1939〕年には戦争の影響を受け403名に激減し、戦後はさらに減少して現在は姿を消しました。しかし、「かんづめ」行商は松前に大きな功績を残したのです。『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』の記述を引用しましょう。

「かんづめ」行商の功績

 これら「かんづめ行商」は、やがて後の松前町特産加工魚介品「珍味」となって発展してゆくのである。かんづめ行商のはじまりは、泉州の人、和田甚四郎が大正二年(一九一三)に松前に来住し、三津浜の近藤商店にて小えびの味付を求め、奈良県で販売して成功し、以後自宅において儀助煮をつくり、各地に販路を求めたことによるといわれている。かんづめ行商者は、松前地区の経済的発展に貢献したばかりではない。全国各地や海外を行商するうち、各地の状況をつぶさに知り、産業文化の実態を見聞して松前に帰り、松前に新しい文化向上の気運を促した功績は大である。松前婦人が早くから経済的に自立し、見聞が広く、進歩的な知識や見識をもつようになったのは、こうした遠隔地行商によるところが大きいといわれている。

『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』 ※ 太字は引用者による
Takashi

 なるほど。行商を通して各地の産業文化の実態を見聞できたというのは、地域の発展にとって重要ですよね。

Teacher

 こうした歴史を経て、松前町特産加工魚介品「珍味」として発展していったのです。松前港の天保山には、「珍味発祥之地」碑が建てられていますよ。

「珍味発祥之地」碑
Takashi

 今回は、「からつ」行商の話から松前町の伝統産業である珍味の話まで教えていただいてありがとうございました。よく分かりました。

Teacher

 どういたしまして。それでは、行商や漁から戻ってきた人々が「松前に戻ってきた」といつも感じた風景を写した写真を見て講座を終わりましょう。

松前港天保山 ※「珍味発祥之地」碑もここにある

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