高山石灰業の発展と衰退②
Erikoさん、前回は明治時代における高山石灰業の発展と石灰の製造方法についてまとめました。今回は大正時代から昭和時代にかけての高山石灰業の歴史を紹介します。
【参考】高山石灰業の発展と衰退①
はい。よろしくお願いします。
① 大正時代の混迷と対策
下のグラフは、明治末期から昭和初期までの日本の貿易額の推移を表したものです。Erikoさん、このグラフを見て気付いたことを教えてください。
はい。1914年から1919年までは輸出が輸入を上まっていますが、それ以外は輸入超過の状態が続いていますね。
1914年から1919年まで輸出が輸入を上回っている背景には何があったと思いますか?
1914年といえば、第一次世界大戦が始まった年でしたよね。ということは、戦争による日本製品の需要が高まったからですか?
その通りです。第一次世界大戦勃発の需要増により、日本は空前の好景気を迎えました。これを大戦景気といいます。しかし、戦争が終わると状況が一変し、日本は恐慌状態に陥ります。上のグラフ中に書き入れてみましょう。
なるほど。大戦景気は日本にどんな影響を与えたのでしょうか?
はい。次の通りです。
- 世界的な船舶不足により、海運業・造船業、鉄鋼業が発展
- 敵国ドイツからの輸入が途絶え、薬品・染料・肥料などの化学工業が勃興
- 重化学工業が発展
- 工業生産額が農業生産額を追い越す
- 電力事業、特に水力発電が発展〔工業原動力では電力が蒸気力をしのぐ〕
- 成金が生まれる一方で、物価高騰に苦しむ多数の民衆が存在
- 期成地主制が進展〔工業と比較し、農業の発展は停滞〕
日本はこの頃に工業国へと転換したのか。だとすると、高山の石灰業もさらに発展したのでしょうね。
そうとも言い切れません。大戦景気における7つの影響のうち、石灰業を苦境に立たせてしまうものも存在したのです。
えっ、どれだろう?
この時期の高山石灰業の状況について、角田清美氏は論文「愛媛県・旧明浜町の石灰工業史」のなかで次のように述べています。
大正時代における石灰業の混迷
20世紀に入ると、化学の各分野で応用化が進んだ。農業に関する分野では、チッソ肥料・リン肥料・カリ肥料などといった、化学肥料の大量生産が始まり、広く使われるようになった。このため、石灰の消費の一部であった農業分野での消費量が減少し始めた。明浜では、大正6(1917)年の窯主17名を最高とし、以降、窯主は減少していった。また、生産量についてみると、大正10(1921)年には約337.7万俵(約22,700t)、大正11(1922)年には約324.3万俵(約21,800t)と、急激に減少し、昭和6(1931)年には約136.9万俵(約9,200t)にまで減少した。
『愛媛県・旧明浜町の石灰工業史』 ※ 下線、太字及びマーカーは引用者による
【参考】『愛媛県・旧明浜町の石灰工業史』※ 図3明浜町における消石灰製造者の変遷、図4明浜町における消石灰の生産高の変遷を参照。
確かに農業用肥料として石灰は需要がありましたからね。第一次世界大戦終結以降続いた恐慌も重なって、大打撃だったのでしょうね。従業員数も昭和初期には激減しています。
そのようですね。では、高山の人々はこの苦境をどのように乗り越えたのでしょうか?角田清美氏の論文から引用します。
苦境への対策
対策として、各窯主は販路をセメント工場や化学工場に求め、また、石灰石を原石のまま出荷して経営の安定化を図ったため、昭和14(1939)年の石灰の生産高は約2.56万tにまで回復した。終戦直前の昭和19(1944)年には、窯主が14名、生産高は約1.96万tであった。
『愛媛県・旧明浜町の石灰工業史』 ※ 太字は引用者による
なるほど。時代に合わせた対策を立てたということなんですね。
そうです。では、昭和初期の石灰工場の分布について見ていきましょうか。
はい。
② 昭和初期の石灰工場の分布
下の地図は、昭和10〔1935〕年の石灰工場の所在地を表したものです。高山で石灰業に従事しておられた方によれば、この時には19の石灰工場が高山にあったそうです。
当時は本当に海岸沿いに石灰工場があったのですね。
時代は異なりますが、高山で石灰業が行われていた昭和39〔1964〕年の航空写真と比較してみましょう。
29年後の高山だけど、石灰工場がある場所は白くなっていますね。先生、それぞれの工場のことについて何か情報はありますか?
はい。『伊予高山石灰産業史』を著した方からお話を伺っていますよ。いくつか紹介しましょう。
宇都宮髙治郎石灰工場〔所在地図8〕
嘉永3年(1850年)に宇都宮角治が土佐から帰って初めて小僧津に造った工場は山の中腹で石灰石の出る下辺りと思われ、現在も中腹に石灰窯と思われる石垣が所々に見られます。製品はモッコを担って海岸まで下ろし、船積みをしていました。石炭燃料を導入した角治の長男、長三郎は、荷揚げ等を勘案して明治20年(1887年)に工場を小僧津の海岸傍へ建設しています。以後、中腹にあった他の工場も昭和の初めころまでには全て海岸沿いに移転していました。同29年(1896年)には83もの工場があったと伝えられていますが家内工業的なものが多く、宇都宮石灰工場ではそれらの製品を集めて販売したり、若宮丸によって煽石や縄、菰等の包装材を仕入れたりして各工場への分配を手伝っていたと私は聞いています。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-』 ※ 下線及び太字は引用者による
二宮忠兵衛石灰工場〔所在地図6、10〕
二宮石灰工場では、小浦の工場が原石山から遠いため、大正13年(1924年)に小僧津へ工場を移転しています。昭和20年(1945年)9月の枕崎台風の被害を免れた二宮石灰工場は同年12月にいち早く生産を開始し、順調な生産を続けていましたが、同21年(1946年)12月の南海大地震で石灰窯と工場が崩れてしまい、岩井に近い瀬の脇(せのわき)の石灰山の下へ工場を移築して操業を続けましたが、昭和41年(1966年)に原石山が崩れて工場が崩壊し、営業を停止しました。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-』 ※ 太字及びマーカーは引用者による
南海大地震は高山にも被害を与えていたのですね。
宇都宮吉六石灰工場〔所在地図1〕
宇都宮吉六石灰工場がいつごろ操業を開始したのかは分かりませんが、明治45年(1912年)には小僧津に工場があったことが記録されています。昭和の初めころには大早津の東端に工場を構えて操業し、都屋商店として高山の中心部(伊予銀行高山支店の西隣)に広い屋敷を構え、東川の海岸へ敷地を造って2階建ての住居をつくるなど繁華な営業をされているので、明治から大正期には成功していたと思います。昭和9年(1934年)に津田商会が大早津の石灰鉱山の開発に乗り出し、石灰石の船積地として宇都宮吉六石灰工場がある地を選びました。このため、長浦の海岸傍を造成して工場を移転し、長浦鉱山から索道で窯場へ直接原石を下ろしていたことを憶えています。同10年(1935年)の営業名簿には宇都宮吉六石灰工場が記載されていないので、長浦工場の造成中であったのでしょう。それ以後、敗戦までのことは私には分かりませんが、戦後は一族で協力して営業を続けていました。昭和40年代に入り高山石灰の不況がますます強くなる中、昭和44年(1969年)に石灰業に見切りをつけて廃業しました。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-』 ※ 太字及び下線は引用者による
津田商会KK〔所在地図3〕
津田商会は昭和9年から大早津の石灰鉱山の採掘を開始した会社で、セメント用の石灰石を徳山(山口県周南市)へ出荷していました。宇都宮吉六石灰工場を移転させ、その地へ大きなタンクを造り、鉱山からタンクまで石灰石をトロッコで運んで貯鉱し、さらに桟橋を造ってタンクから船積みをしていたことを私はよく憶えています。大早津の真ん中へ2棟の社員住宅を、小僧津には2階建ての事務所をそれぞれ建て、事務所前の海へモーターボートをつなぎ、来客を宇和島まで送迎していました。
大勢の従業員が就業していましたが、戦争のために昭和18年(1943年)ころには休山となり、営業を長く続けることはできませんでした。工員は軍隊に徴兵され、機械類やトロッコのレールは鉄材として供出させられ、鉱山は自然休山という形になっていました。また、同年7月の大水害によって社員住宅や事務所の裏山が抜けて倒壊してしまいました。専務取締役であった長谷川唯男さんは、宇都宮吉六商店が建てた東の浜にある家屋を借りて事務所を移し、戦後までそこで生活をされていました。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-』 ※ 太字及び下線は引用者による
長谷川唯男石灰工場〔所在地図3〕
長谷川唯男さんは、昭和9年に津田商会の専務として高山へ来られ、戦争のために鉱山の仕事がなくなっても高山で生活され、昭和22年(1947年)に大早津へ石灰窯を造り、長谷川石灰工場として操業されたことを私はよく憶えています。昭和35年(1960年)の夏、津田商会が鈴木商会として大早津鉱山の再開発を計画(従業員128名)し、金剛寺で発表会を開きました。このとき、長谷川唯男さんは元の専務に戻り、昭和41年(1966年)に石灰工場を閉鎖しました。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-』
それぞれの工場に歴史がありますね。
そうですね。明浜歴史民俗資料館にあるアルバムには、石灰業に関する写真がたくさん保存されています。上に掲載したもの以外の写真も見てみましょう。
これは貴重な写真ですね。
明浜歴史民俗資料館には他にも貴重な写真がたくさんあります。ぜひ訪れてみてください。
分かりました。
次に、『伊予高山石灰産業史』を著した方の体験を紹介しましょう。終戦後のお話ですが、昭和20年代の高山石灰業の様子がよく分かります。
昭和20年代!戦争を経て、高山の石灰業はどうなったのだろう?
家業に携わる
私の最初の仕事は台風で倒壊した工場の再建でした。高山にある15の石灰工場のうち、台風被害を免れたのは大早津の藤井藤之丞石灰工場と小僧津の二宮忠兵衛石灰工場の2か所のみという惨憺たる状態だったことを今でもよく憶えています。戦争のために日本中が焼け野原、高山の石灰工場も文字通りゼロからの出発です。資材はなく、山へ行ってスギやヒノキを伐り出して柱を作り、古釘を伸ばして使うという再建でした。10月に二宮忠兵衛石灰工場が操業し、続いて藤井藤之丞石灰工場が、私の工場も12月にはやっと1棟を建設して操業を開始することができました。昭和21年(1946年)の暮れころには高山の全ての工場の再建が完了し、翌22年(1947年)には建設中の長谷川唯男石灰工場も完成して、高山の全工場が生産を再開しました。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-』 ※ 太字及び下線は引用者による
昭和20〔1945〕年の台風といえば9月に襲来した枕崎台風ですね。高山でも相当な被害があったのですね。
昭和21〔1946〕年12月、南海大地震が発生したときには海岸が約1m程沈降し、二宮忠兵衛石灰工場のように火災等で倒壊してしまったものもあったと伺いました。
そうか。連続して自然災害に見舞われたのですね。
はい。自然災害はありましたが、高山の石灰業は再び全盛期を迎えます。さらに引用しましょう。
再び全盛期へ
徴兵されていた若者も復員して仕事に従事し、これから14、15年の間が戦後高山の全盛期です。敗戦直後には食料増産のための肥料用石灰の需要が多く、昭和25年(1950年)ころからは住宅建設のために建築用石灰が、また練炭原料としての石灰も大量に大阪へ積み出されました。昭和3年(1928年)ころに鹿村宮吉さんの考案でセメントの空袋を利用した紙包装は戦後には定着して全てが紙袋仕立てとなり、袋工場も5か所ほどでき、女性工員の方も大勢いて忙しい毎日だったことが思い出されます。現在、西の川の側に「ヤマト」の記号が書かれている蔵がありますが、そこは藤井藤之丞石灰工場の石灰袋を作っていた工場です。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-』 ※ 太字は引用者による
復員や引揚げなどで人々が高山へ戻って来て、再び全盛期を迎えることができてよかったですね。
本当ですね。上に引用した「ヤマト」の記号が書かれている蔵を撮影していますので、見てください。
ヤマトの「ヤマ」は、以前紹介していただいた宇都宮石灰の家号である「ヤマチョウ」の「ヤマ」と同じですね。
そうです。こうして全盛期を迎えた高山の石灰業ですが、残念ながら衰退していきます。これにはどのような事情があったのでしょうか?
③ 高山石灰業の衰退
先生、石炭の製造は4つの段階に分けられるというお話を以前伺いました。石炭燃料から重油燃料への切り替えが難しかったからではないですか?
そのことも衰退の一因です。それ以前にも衰退の兆しがありました。高山で石灰業に従事しておられた方のお話を確認しましょう。
衰退の要因-昭和30年代-
昭和30年代に入って漆喰を塗る湿式工法からボード板を貼り付ける乾式工法へと住宅の建築様式が変わり、石灰の需要が大幅に減少したことが非常に大きいと思います。昭和34、35年(1959、60年)ころから次第に経営が難しくなっていき、昭和30年代の後半には高山石灰の衰退が明確に感じられるようになりました。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-』 ※ 太字は引用者による
なるほど。住宅の建築方法の違いが大きな影響を与えたのですね。
そして、重油燃料の切り替えの時期が高山にもやって来たのですが、高山はそれに対応できませんでした。その事情について、次のように話してくださいました。
重油燃料への切り替えを断念-昭和40年代-
さらに昭和40年(1965年)に石炭窯から重油窯へと焼成の燃料が変わると、状況はより深刻になりました。そのころ、四国の石灰業者が高知県へ呼ばれ、『今から3、4年先には全ての石炭窯を重油窯に切り替える。1日50tの石灰を生産する重油窯なら2基必要で、(当時の価格で)1基8,000万円かかる。』と言われたことをよく憶えています。私はその時、全ての設備を整えるのに2億円以上かかるうえに、高山の石灰鉱山は手掘り中心(宇都宮石灰工場の削岩機導入は昭和34年〔1959年〕のこと)だったので、1日50tもの生産量を維持することができないと感じました。こうした理由で、私たちは重油窯への転換を諦めたのです。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-』 ※ 太字は引用者による
1基8,000万円!ものすごい金額ですね。
実際に重油燃料による石灰の製造が始まると、大量生産によって石灰の価格が下落し、生産しても儲からないという状態に陥ってしまったそうです。
そうか。昭和40年代に石灰工場を閉鎖したところが多かったけれど、こうした事情があったのですね。
そうです。高山ではさまざまな振興策が講じられましたが、石灰業者の足並みが揃わず、立ち消えになってしまったそうです。
本当に残念ですね。
こうして、高山の石灰業は衰退してしまったのです。その終焉について、高山で石灰業に従事しておられた方は次のように話してくださいました。
高山石灰業の終焉
昭和51年(1976年)に鈴木産業株式会社が閉山し、高山の石灰業者は公受忠七石灰、一宮芳十郎石灰、宇都宮産業株式会社の3社となりました。町長宇都宮竹夫氏は鈴木産業の閉山による大勢の失業対策に追われましたが、従業員30人を雇用して地元資本による高山鉱山株式会社を設立し、その営業利益を当てて日鉄鉱業の持つ大早津の6万坪(約20万m²)の土地を払い下げるという計画を実施しました。〔中略〕
こうして、町有地となった大早津にて高山鉱山株式会社が石灰の製造を継続しましたが、同54年(1979年)7月に使命を終えて閉山しました。また、同年には公受忠七石灰工場が、同57年(1982年)暮れには一宮芳十郎石灰工場と宇都宮産業の石灰部門も製造を停止して、消石灰の生産が終了しました。創業者宇都宮角治の石灰製造から143年目に高山の石灰類の生産は終わりを告げることとなったのです。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-』 ※ 太字及び下線は引用者による
高山では石灰の製造は行われなくなってしまったのですね。残念です。
高山鉱山株式会社の跡地は、「あけはまシーサイドサンパーク」として整備され、海水浴場やキャンプ場等、観光交流拠点として人々が活用しています。それでは最後に、明浜町に残る石灰業の遺産を紹介します。
これはどの場所を撮影したものですか?
大早津海水浴場前の魚釣り場になっている辺りです。この写真に写っているものの一部が現在残されていますよ。
古写真の真ん中辺りに同じものが写っていますね!
その他、国道378号沿いに点在しています。一つ一つ見ていきましょう。
これらの写真はほんの一部に過ぎません。高山の国道沿いにはもっとありますから、ぜひ現地を訪れてくださいね。
はい。もしフィールドワークを行う機会があれば、参加します。ありがとうございました。