遍路道標探索の旅Part.6 道後温泉から太山寺までのルートを巡る


「遍路道標探索の旅」の第6弾。今回は、道後温泉から第52番札所 太山寺までの遍路道と道沿いに建立されている遍路道標をご紹介。明治27(1894)年に建築された道後温泉本館の写真をご覧ください。

【参考】公式サイト 道後温泉

現在の本館は西側から入場しますが、以前は北側、上の写真の場所が入り口でした。お遍路さんたちは道後で一泊し、次の札所である太山寺〔逆打ちならば石手寺〕を目指したのです。今回のスタート地点を道後商店街東側入口とし、太山寺までの遍路道を巡りましょう。


東側入口から西へ商店街を約100mほど進むと椿湯があり、そこに大きな遍路道標が建てられています。
1 椿湯前に建つ遍路道標〔松山市道後湯之町〕
【椿湯前に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市道後湯之町 |
主な碑文 |
(手印)太山寺道 小林家先祖代々為菩提 (手印)松山道 施主 岡山市山長事 小林嘉四郎/明治四十一年十月建之 |
寸法 |
29×31×152 |
備考 |
もとは、椿湯の南向かいにある商店の北東角の路上にあった。 |

現在は道が整備され、この道標から西へ真っ直ぐ進むと護国神社参道の鳥居前に至りますが、かつては別の道を辿っていたようです。『伊予の遍路道』の記述を確認しましょう。
道後温泉から太山寺へ
道後温泉から、久松松平氏15万石の名残を示す松山城を左方向に見ながら、松山市山越に至る城北の遍路道をたどる。
温泉を後にした遍路道は、西へ向かい土産物屋街を約100m行って、椿湯横の四つ辻(つじ)を左折、60mほど進んで右折し、清水川沿いの小道を西に向かう。このほかに、椿湯前に従って直進することもできたようである。ただし、この道について『伊予道後温泉略案内』には、「へんろ道西町 うてんにはよろしからず」とある裏道で、県道松山北条線(20号)に当たる道が開通する前にはあぜ道程度の狭い曲折道であったようである。
※ 太字は引用者による

「あぜ道程度の狭い屈折道」と記されているように、本道につながる脇道だったのでしょう。現在の道幅とは全く異なりますね。


遍路道の本道は椿湯横の四つ辻(つじ)を左折、60mほど進んで右折し、清水川沿いの小道を西に向かっていました。遍路道のルートを地図で確認しましょう。

さて、『伊予の遍路道』の記述にある「清水川沿いの小道」に戻りましょう。この道は現在、「熟田津の道」として整備されています。


「熟田津の道」を西進し、三界地蔵堂前を右折して北に向きを変え、真っ直ぐ進んで大川沿いに至るのが遍路道の本道であるようです。


三界地蔵堂の脇に文字が記された石がありますね。これは遍路道標の一つですが、もともとは別の場所にあったものだそうです。『伊予の遍路道』の記述を確認しましょう。
道後温泉から太山寺へ
小道は西へ約800m進んで道後樋又(ひまた)の三界地蔵堂に至る。堂の脇に自然石の道標が転がっている。これはもともとこの付近にあったもので、明治28年(1895年)ころ道後駅から、城北に向かい走っていた軌道車の線路沿いの遍路道に建立されていたようで、同じ樋又の護国神社鳥居前に立つ茂兵衛道標につながり、そのあと南海放送会館前〔注:現在は松山大学の敷地になっている〕から大川沿いの本道に出る、いわゆる脇道にあった道標だと地元では解釈されているという。道後温泉に立ち寄らない遍路が利用していたといい、『松山の道しるべ』ではこの線路沿いの道を主な遍路道の一つに位置付けている。
※ 太字及び注釈は引用者による

文中にある「城北に向かい走っていた軌道車の線路」は、道後温泉への集客のために伊佐庭如矢が整備した道後鉄道の線路のことですね。その軌道を現在の地図に当てはめると下の図のようになります。

【参考】正岡子規『散策集』吟行の道をたどろう!道後湯之町へ① ☜道後鉄道についてまとめています。

青色で記した線が『伊予の遍路道』の記述に見られる軌道跡です。自然石の道標がどの場所にあったのかは分かりませんが、三界地蔵堂の脇に今も存在しています。この道標に記された文字を確認しましょう。
2 三界地蔵堂脇に建つ遍路道標〔松山市道後樋又〕
【三界地蔵堂脇に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市道後樋又 |
主な碑文 |
左へんろ(以下不明) |
寸法 |
30〜36×10〜16×37 |
備考 |
三界地蔵堂脇。もとは、道後駅から城北に向かう鉄道軌道に沿った遍路道に立っていたという。下部折損紛失 |

また、護国神社鳥居前に建つ茂兵衛道標も現存しています。
3 護国神社鳥居前に建つ遍路道標〔松山市道後樋又〕
【護国神社鳥居前に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市道後樋又 |
主な碑文 |
(手印)施主 豊後國姫島村信者中 世話人 真戒寺住 嶋本観心 柳幸吉(他10名) 明治二拾六稔十貳月吉日 四國壹百三拾三度目拝禮為供養建之 尾崎重兵 周防大島郡椋野村住 願主 中務茂兵衛義教 |
寸法 |
30×30×134 |
備考 |
護国神社参道入り口の鳥居前。道後駅から道標2を経て、大川沿いの遍路道の本道に合流する脇道の道標だという。 |

これら2つの遍路道標のほか、別の場所にも道標が建てられていることを『伊予の遍路道』は記しています。
道後温泉から太山寺へ
清水川に沿った遍路道の北側に並行する県道20号沿いの道後北代で、松山市立湯築小学校南入口に道標4・5が並んで立っている。道標4は文化13年(1816年)の記年銘があるもので、先述の裏道で湯築小学校の校庭の中を通っていた遍路道沿いにあったが、道路拡張のため現在地に移したという。もう一つの道標5は道後湯之町の遍路道沿いに立っていたものを移したという。
※ 「道標4・5」及び太字は引用者による

道標4・5が建てられている場所に行ってみましたが、県道沿いの建物が取り壊されて更地になっていて、遍路道標も撤去されていました。


う〜ん、残念。Google mapのストリートビューで、在りし日の遍路道標を見ることができるので、リンクさせておきますね。「他の日付を見る」をクリックし、2019年6月以前で確認してください。
4 県道20号沿いに建つ遍路道標〔松山市道後北代〕
【県道20号沿いに建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市道後北代 |
主な碑文 |
(大師像)此方遍路道 太山寺迄六十七丁 文化十三丙子年二月吉祥日 世話人 井筒屋源治(他2名) |
寸法 |
26×18×111 |
備考 |
県道に面した書店南西角に道標5と並ぶ(現在は撤去)。もとは、湯築小学校校庭を通っていた遍路道沿いに立っていたという。 |
5 県道20号沿いに建つ遍路道標〔松山市道後北代〕
【県道20号沿いに建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市道後北代 |
主な碑文 |
左へんろ道 小田屋岩蔵 佐渡屋庄蔵 (手印)茶屋金三郎 鮒屋市蔵/大川屋伊作(他3名) |
寸法 |
26×18×111 |
備考 |
県道に面した書店南西角に道標5と並ぶ(現在は撤去)。もとは、道後湯之町の遍路道沿いに立っていたという。 |

さあ、三界地蔵堂の所に戻り、遍路道標探索の旅を続けます。遍路道標探索ルートの地図を再確認しましょう。

三界地蔵堂から北進し、県道187号を越えて真っ直ぐ進むと大川沿いの道に至ります。そこに次の遍路道標が建てられていました。
6 大川沿いの道路に建つ遍路道標〔松山市祝谷3丁目〕
【大川沿いの道路に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市祝谷3丁目 |
主な碑文 |
(手印)(手印)上蔵院 茶屋幸八(他4名) すぐへんろ道 祝谷村 源助(他5名) すぐへんろミち 濱屋吉藏(他5名)/世話人 小田屋岩蔵 |
寸法 |
30×30×102 |
備考 |
天神橋の西10m余の大川沿い |

遍路道はこの道標から大川沿いを真っ直ぐ西へ進みます。道標付近の現況を写真で確認しましょう。


次の遍路道標は千秋寺前にありますが、そこに至るまでに見所がたくさんあります。『伊予の遍路道』の記述を見てみましょう。
道後温泉から太山寺へ
遍路道は護国神社の前を通り抜ける。神社の西には山頭火ゆかりの一草庵が復元され、道端に「俳人種田山頭火の一草庵みち」の碑が立つ。この地で昭和15年(1940年)に放浪の俳人山頭火は生涯を閉じた。道は龍泰寺前に至るが、大川に架かる太鼓橋を渡った所に「此方五百らかんあり」の標石が立つ。続いて千秋寺前に至る。往時をしのぼせる中国風の立派な山門に通じる御和橋東のたもとに、太山寺への道を示す道標がある。
※ 太字は引用者による
一草庵〔松山市御幸1丁目〕


一草庵は種田山頭火の終の住処となった場所です。現地にある解説板を見てみましょう。


敷地には、山頭火の句碑がいくつか建てられています。
龍泰寺前の標石〔松山市御幸1丁目〕
千秋寺の句碑と山門〔松山市御幸1丁目〕

山門から大川沿いの道に戻る時、企業が設置した二宮金次郎像が私たちを見送ってくれます。
【参考】二宮金次郎蔵探索の旅 松山市①

大川に架かる橋を渡って右折し、少し進んだ所に2つの遍路道標が向かい合って建てられています。

7 千秋寺前に建つ遍路道標①〔松山市清水町4丁目〕
【千秋寺前に建つ遍路道標①データ】
所在地 |
松山市清水町4丁目 |
主な碑文 |
(手印)太山寺/壹百度目為供養 周防國大島郡椋野村 施主 中務茂兵ヱ立之 明治廿一年五月/大阪天神橋壱丁目 願主 中野嘉七 |
寸法 |
21×20×81 |
備考 |
御和橋東の三叉路に建つ。道標8の向かい側 |
8 千秋寺前に建つ遍路道標②〔松山市清水町4丁目〕
【千秋寺前に建つ遍路道標②データ】
所在地 |
松山市清水町4丁目 |
主な碑文 |
(手印)太山寺ちかみち/施主 松山市花園町二丁目 高橋志ん 弘法大師御自作 古れより北二丁 やくよけゑんめいぢざうそん 不退寺/大正九年三月吉日 善皆謹書 |
寸法 |
20×18×117 |
備考 |
御和橋東の三叉路に建つ。道標7の向かい側 |

太山寺ちかみちという指示は遠回りに対する近道という意味ではなく、近いのですという意味だそうです。次の道標は、遍路道と松山藩が整備した今治街道沿いの交差点に建てられています。『伊予の遍路道』の記述を確認しましょう。
道後温泉から太山寺へ
大川南岸を西進してきた遍路道は、松山城下北の出入口として栄えてきた(松山市)木屋町の北詰めで、松山「札の辻」を起点に松山城堀の北西角から北進してきた今治街道(以下「旧街道」と記す)に合流する。左折する旧街道の角は商店で、向かいには御幸橋があるが、その商店の前脇に松山市内最大の遍路道標が立っている。40cm角の石柱の上に笠を乗せ、地上部でも2mに達する大型のもので、西面には「へんろみち」、南面には「南城下道」と深彫りしている。
※ 太字は引用者による

遍路道標探索ルートの地図に今治街道を緑色で示してみました。どうぞご覧ください。

図中の「道標9」に当たるものがそれですが、「松山市内最大」の表現通り本当に大きい遍路道標でした。
9 遍路道と今治街道との交差点に建つ遍路道標〔松山市木屋町4丁目〕
【遍路道と今治街道との交差点に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市木屋町4丁目 |
主な碑文 |
(手印)(手印)へんろみち/南御城下道 |
寸法 |
40×40×196 |
備考 |
今治街道と遍路道の岐路、木屋町北口の商店の北東角。半ばで折れたものを修復。笠付き、笠の大きさは高さ20cm、67cm四方。 |
【参考】「松山札辻より○里」里塚石を探索せよ!Part.2 今治街道・波止浜街道編①

ここから西へしばらく進むと国道196号に出ますが、そこに次の遍路道標が建てられています。
10 遍路道と国道196号との交差点に建つ遍路道標〔松山市御幸2丁目〕

風化が進んでいて記された文字が読み取れなくなっていますね。『伊予の遍路道』はどのように記述しているでしょうか。
道後温泉から太山寺へ
「元禄十二年」とある記年銘は松山市内では二番目に古い。破損した当初の標石を逆さまにして利用し、裏側に従来の文言を彫り加え再建したものと考えられている。
※ 太字は引用者による
【遍路道と国道196号との交差点に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市御幸2丁目 |
主な碑文 |
右遍んろみち 元禄十二(巳)一月十一日/道路(以下不明) |
寸法 |
30〜60×15〜20×70 |
備考 |
国道196号山越交差点の北東角。裏側に刻字がある。標石が折損したため逆さまに据え、裏側に文字を新しく彫り加えて建て直したと思われる。 |

元禄12年は西暦1699年、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の治世ですね。本当に古い!遍路道は大川に沿って北へと向きを変え、松山市立潮見小学校付近まで真っ直ぐ続きます。『伊予の遍路道』の記述を確認しましょう。
道後温泉から太山寺へ
遍路道であり、旧街道でもあった道は、後世拡幅改良されて国道196号となっている。この道は大川沿いに、(松山市)山越・姫原・東長戸と進む。途中、姫原に入って角田池のあたりは度々の改修で旧街道としての昔の面影はない。このあたりは「七曲り」と呼ばれていた所で、道路を隔てて「七曲り跡」の碑が立っている。松山城を築いた加藤嘉明が北方からの敵の侵攻を遅らせ、高所から敵の兵力を数えるために設けたという。
※ 太字は引用者による
七曲り跡の碑〔松山市吉藤3丁目〕


門屋組の本社が建て替えられた際に碑も解説板も新しくしたようです。ちなみにかつての「七曲り跡の碑」はこんな感じでした。

現在の解説板の記述を見てみましょう。


遍路道標探索の旅を続けます。『伊予の遍路道』の記述を確認しましょう。
道後温泉から太山寺へ
姫原から北西に進んだ大川は、鴨川1丁目で再び川沿いに出てきた旧街道を行く遍路道とともに北に転じて直進する。一方、国道196号は旧街道と分かれ、大きく西に迂回している。
※ 太字は引用者による

遍路道と国道196号とが分岐するのは「つり天国鴨川店」付近です。


「つり天国鴨川店」の右側の道を北進すると、松山市立潮見小学校と大きな常夜燈が建つ四辻に至ります。


遍路道は今治街道と分かれ、西へ続きます。四辻を左折してすぐのところに次の遍路道標がありました。
11 遍路道と今治街道との分岐点に建つ遍路道標〔松山市鴨川1丁目〕

遍路道標に記された文字が読みやすいように、文字が黒く塗られていました。確認しましょう。
【遍路道と今治街道との分岐点に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市鴨川1丁目 |
主な碑文 |
(手印)壹百度目為供養建之 周防國大島郡椋野村 施主 中務茂兵衛義教 右堀江村 世の中尓神も佛茂奈き毛の越まれ尓志ん春る人尓こそ阿連 右石手寺 為先祖代々菩提 大阪淡路町一丁目 願主 國分庄兵衛/明治二十壱年五月吉辰 |
寸法 |
30×30×156 |
備考 |
潮見小学校前の陸橋の下。歌は釈陶庵俊因の作。 |

『伊予の遍路道』によれば、この歌は「世の中に神も仏もなきものをまれにしんずる人にこそあれ」と詠むそうです。道標の脇に建てられている解説板にも詳細が記されています。


なお、遍路道標に記されている歌を詠んだ釈陶庵俊因は中務茂兵衛と親交があった人物で、42番札所仏木寺の門前に建つ茂兵衛道標にも彼の歌が記されているそうです。このことを記載している四国遍路情報サイトの記事をリンクさせておきますので、ご一読ください。
【参考】四国遍路情報サイト「四国遍路」【42番札所仏木寺門前】歌を詠んだ「臼杵陶庵」の名前が刻まれている中務茂兵衛標石

遍路道は国道196号を横切り、さらに西へと続きます。『伊予の遍路道』の記述を確認しましょう。
道後温泉から太山寺へ
西進する大川沿いの遍路道は県道松山東部環状線(40号)を行く。道は国道を横切り、松山市立鴨川中学校前に至る。このあたりで大川は緩やかに流れを西から北へと変える。遍路道は県道から離れて川堤の上へ出て、西(左)岸の土手道となり、流れに沿って北進する(今は右岸も通行できるようになっている)。
※ 太字は引用者による

遍路道は北へと流れを変えた大川の堤防上を進むということですが、松山東部環状線と土手道との分岐点がここです。


右手に志津川池という大きな溜池を見ながら北進すると、土手から降りる下り坂に至り、その先に御堂がありました。


御堂は馬頭観音を祀るためのもので、その脇及び堂内に遍路道標がありました。

12 馬頭観音を祀る御堂の傍に建つ遍路道標〔松山市志津川町〕
【馬頭観音を祀る御堂の傍に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市志津川町 |
主な碑文 |
(手印)へんろミち/(手印) |
寸法 |
32〜42×25〜40×95 |
備考 |
志津川池の西、大川左岸の堤防下。脇にある馬頭観音の小堂の中に道標13がある。もと、安祥寺近くの田道の三差路にあったという。 |
13 馬頭観音を祀る御堂の中に建つ遍路道標〔松山市志津川町〕
【馬頭観音を祀る御堂の中に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市志津川町 |
主な碑文 |
是より太山寺 二十七丁(地蔵像)◻︎主 安城寺 平蔵 |
寸法 |
29×20×54 |
備考 |
道標12に並ぶ馬頭観音の小堂の中。この付近にあったものを小堂の中に入れたと思われる。 |

ここからの遍路道は複数のルートに分かれるようです。『伊予の遍路道』の記述を確認しましょう。
道後温泉から太山寺へ
志津川町の大川土手下からの遍路道は、馬頭観音小堂で右折、墓地横の細道を北西に進み、志津川町中心部から西進し志津川橋を渡ってきた道と合流する。その地点から高木町バス停留所に至るまでに遍路道は数本あるようである。第1が西進して、若宮神社前の辻を直進し、次の交差点で県道和気衣山線(184号)に出て右折、北進する。第2が、西進して、若宮神社前の辻で右折、集落の中の細道を北進して庚申(こうしん)堂前を過ぎ、さらに北へ進み、やがて緩やかに西北へ曲がって県道へ合流する。第3は、北進して田地の中の道を通り、途中で左折西進して安祥寺参道に出る。参道脇に道標が立っている。すぐ近くには地蔵堂があり、脇には享保大飢饉供養のための供養塔が林立している。道は西へ進み、角に庚申堂がある辻を右折すると、あとは上記第2のルートと同じとなる。(中略)
以上述べてきた大川土手下からのルートのほかに、もう一つ遍路道があったようである。それは前記のように県道をそれて大川沿いに行かず、県道40号自体を西進し、安城寺町を南北に走る県道184号との交差点で右折、県道184号を北進して高木町に至る遍路道である。交差点の北西角に3基の石造物が並び立ち、その中央に茂兵衛道標がある。
※ 太字は引用者による

この4つのルートを地図で確認しましょう。

若宮神社は規模の小さい神社ですが、境内には非常に大きな常夜燈がありました。また庚申堂の写真も合わせてご覧ください。

それでは、安祥寺参道脇に建つ遍路道標を確認しましょう。
14 安祥寺参道脇に建つ遍路道標〔松山市安城寺町〕
【安祥寺参道脇に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市安城寺町 |
主な碑文 |
是より太山寺へ二十二丁(地蔵像)施主 安城寺村 覚介 |
寸法 |
30×16×58 |
備考 |
安祥寺門前約50mの参道 |

『伊予の遍路道』の記述にあった林立する享保大飢饉供養のための供養塔がこれです。


享保の大飢饉の犠牲者を祀る供養塔は松山市内にたくさんあります。当ブログでも記事にしているので、お時間がある時にご一読ください。
【参考】自然災害伝承碑を訪ねて…13 享保の飢饉の犠牲者を祀る供養塔を巡る〔松山市編〕

そして、第4の遍路道沿いに建てられている遍路道標がこれです。

15 県道東部環状線と県道和気衣山線との交差点に建つ遍路道標〔松山市安城寺町〕
【県道東部環状線と県道和気衣山線との交差点に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市安城寺町 |
主な碑文 |
(手印)壱百度目為供養 周防國大島郡椋野村 願主 中務茂兵衛建之 左石手寺 明治二十一年五月/施主 兵庫 西柳原町 高智山谷五郎 北宮内町 丹波元三郎 |
寸法 |
24×24×127 |
備考 |
県道東部環状線と県道和気衣山線の交差点の北西角、新川橋の北たもと。付近からの移動 |

これら4つの遍路道は順次県道184号に合流し、やがて高木町バス停留所前に至ります。そのすぐ近くの三叉路に次の遍路道標が建てられています。
16 高木町バス停留所付近の三叉路に建つ遍路道標〔松山市安城寺町〕
【高木町バス停留所付近の三叉路に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市安城寺町 |
主な碑文 |
(手印)大阪市西区阿波座下通壱丁目 施主 小谷嘉兵 妻以く 娘小なみ/明治二拾七年四月吉日建之 壱百十四度目為供養 周防國大島郡椋野村 中務茂兵ヱ義教 |
寸法 |
26×25×98 |
備考 |
高木町バス停留所脇。幾つかに分かれてきた遍路道がここに集まり太山寺へ向かう |

いよいよ太山寺が近くなってきました。遍路道標16が建つ三叉路を左折し、大渕集落を抜ければ太山寺に到着です。『伊予の遍路道』の記述を見てみましょう。
道後温泉から太山寺へ
遍路道はここで左折、少し行くと久万川に架かる井関橋があり、その東たもとに「太山寺へ十七丁」の道標がコンクリート囲いの中に立つ。十数年前の記録『へんろ道』には、近くの草むらに半ば埋まった状態であったと記されている。おそらく、河川等の工事で仮置きの状態であったのであろう。それ以前の二十数年前の記録である『おへんろさん』には、井関橋のたもとに在ると明記している。道は橋を渡り、JR予讃線の線路を越えてさらに西進し、太山寺町大淵地区に至る。
※ 太字は引用者による

記述にある「太山寺へ十七丁」の道標はこれです。
17 井関橋の東たもとに建つ遍路道標〔松山市安城寺町〕

【井関橋の東たもとに建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市安城寺町 |
主な碑文 |
これより太山寺へ 十七丁(地蔵像)施主 太山寺村覚介 |
寸法 |
28〜33×10〜13×52 |
備考 |
久万川に架かる井関橋の北東たもと |

この道標を西進すると松山市立北中学校に至り、大渕集落はその北側にあります。集落を通る遍路道について、『伊予の遍路道』は次のように記しています。
道後温泉から太山寺へ
大淵を通る遍路道は二通りある。一つは松山市立北中学校の東北角で右折して大淵集落に向かい、集落の東側の三差路で左折して西進する。この三差路に立っていたという道標が和気公民館大淵分館内庭に保管されている。大淵集落が建立した、太山寺へ十五丁とある丁石で折れ損じている。また、集落の西はずれの水路沿いには、字形・字配り・彫りの深さ・浮き彫りの造りなど優品の道標が立つ。嘉永5年(1852年)の建立、尾道の石工川崎友八作とある。道標の指示通りに田道を約500m西進すると、**邸(太山寺町1187)の前を通る。邸の入口付近の植え込みに自然石の道標20があり、さらに同邸の生け垣の南西角で太山寺道と円明寺道との岐路には、道標21と22が並んで立っている。道標20は手差しが逆打ちで現状に合わない、もと片廻地区の三差路にあったという。道標21は太山寺へ十二丁になっているが、これも反対の方向を指差し、もとは数十メートル太山寺に寄った三差路にあったという。また、道標22は円明寺への道標で、指示に従い左折すると円明寺に向かう。この道標22は、道標20や21のように付近から移されてきたものではなく、設置当初から現在地にあったものであるという。
※ 太字及び道標20、21、22は引用者による

このルートを地図で確認しましょう。

道標18から22が建てられているルートがそれです。『伊予の遍路道』に記されている「集落の東側の三差路」の現況をご覧ください。


この場所に建てられていた道標が和気公民館大淵分館の内庭に保管されているということですが、大淵分館は建て替えられており、遍路道標は敷地内にそのまま置かれていました。
18 和気公民館大淵分館にある遍路道標〔松山市太山寺町大淵〕

【和気公民館大渕分館にある遍路道標データ】
所在地 |
松山市太山寺町大淵 |
主な碑文 |
(手印)左へんろみち 太山寺へ十五(以下不明)/大ふち中 |
寸法 |
20〜22×16×99 |
備考 |
三つに折れ損じ、下部は紛失。もと近くの三叉路に建っていたという |

次は、集落の西はずれの水路沿いに建つ遍路道標です。
19 大淵集落の西はずれの水路沿いに建つ遍路道標〔松山市太山寺町大淵〕
【大淵集落の西はずれの水路沿いに建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市太山寺町大淵 |
主な碑文 |
(手印)遍路道/施主 油屋善四郎(他4名) 嘉永五壬子歳正月吉日建立/尾道石工 川崎友八作 |
寸法 |
29×29×122 |
備考 |
水路に沿った遍路道に建つ |

道標19から約500m西進したところにある民家の入口付近の植え込みと同邸の生け垣の南西角に道標が合わせて3つあるということですが、道路拡幅工事が行われた際に撤去され、現地には遍路道標自体がありませんでした。

【参考】データベース『えひめの記憶』道後温泉から太山寺へ ←生け垣があった頃の写真が掲載されています。

調べてみると、この場所から南方にある「入山田池」という溜池付近に移転されていることが分かりました。


道標に記された文字を読んでみると、これらは道標20と道標21であることが分かりました。道標20に記された文字も含め、内容を確認していきましょう。
20 入山田池付近に移された遍路道標(左)〔松山市太山寺町片廻〕

【入山田池付近に移された遍路道標(左)データ】
所在地 |
松山市太山寺町片廻 |
主な碑文 |
(手印)右へんろ道 |
寸法 |
35〜40×36×65 |
備考 |
個人邸の庭先にあった。 |
21 入山田池付近に移された遍路道標(右)〔松山市太山寺町片廻〕
【入山田池付近に移された遍路道標(右)データ】
所在地 |
松山市太山寺町片廻 |
主な碑文 |
(手印)へんろ道/寄進/太山寺へ 十二丁 |
寸法 |
21×19×98 |
備考 |
個人邸の南西角にあった。 |

残念ながら、遍路道標22を見つけることはできませんでした。刻まれている文字のデータのみ紹介します。
22 民家の生け垣の南西角にあったとされる遍路道標〔松山市太山寺町片廻〕

【民家の生け垣の南西角にあったとされる遍路道標データ】
所在地 |
松山市太山寺町片廻 |
主な碑文 |
左へんろ道 |
寸法 |
30〜36×15×50 |
備考 |
個人邸の生け垣の南西角に道標21と並んで建てられていた。 |

では、道標20〜22が建てられていた民家に戻り、次の道標23を目指しましょう。『伊予の遍路道』は次のように記述しています。
道後温泉から太山寺へ
遍路道は西進し、県道辰巳和気停車場線(183号)を越え、60mほどで太山寺山塊の縁を南から北へ流れる太山寺川の川岸に出る。そこで左折、川に沿って南進すると50mで県道の片廻橋東たもとに出るが、橋を渡らずに県道を越えて川沿いに150mほど行く。左にある片廻公民館の南側に出てきた道で三差路となる。後述する大淵の山の手の遍路道が出てきた合流地点である。この北西角の個人邸の脇に、順打ちと逆打ちの両方の遍路道を示す嘉永6年(1853年)建立の彫り深い立派な道標が立っている。「逆遍路道」とは、山の手を通り石手寺に向かう逆打ちの遍路道のことである。右面と裏面はコンクリート壁に接しているため銘文の一部を読むことができない。
※ 太字は引用者による

このルートを地図で確認しましょう。

それでは、山手を通る遍路道と集落の中を通る遍路道の合流点にある道標23を見てみましょう。なかなか立派な道標ですよ。
23 二つの遍路道の合流点に建つ遍路道標〔松山市太山寺町片廻〕
【二つの遍路道の合流点に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市太山寺町片廻 |
主な碑文 |
(手印)へんろ道/施主 松山(以下不明) (手印)逆遍路道/嘉永六年五月(以下不明) |
寸法 |
30×30×125 |
備考 |
個人邸の北西角。山の手を通る遍路道と集落の中を通る遍路道の合流点。 |

以上が大淵集落を通る遍路道の第一のルートです。次に、第二のルートを確認しましょう。『伊予の遍路道』は次のように記しています。
道後温泉から太山寺へ
一方、大淵のもう一つの遍路道は、中途右折し集落を通過した前述の道と違って、井関橋から西へ直進して山の麓を巡る道に突き当たる。その三差路左手に自然石の道標がある。もとは三差路の突き当たりに東向きに立っていたが、道路拡張に伴い、現在地に移されたという。ここで右折した遍路道は、大淵の山の手を行く遍路道となる。大将軍神社境内や小公園の縁を行き、北側の山麓の一段高い所を曲がりくねって上下する山道を行く。
※ 太字は引用者による

道標24を見てみましょう。
24 松山市立北中学校西方に建つ遍路道標〔松山市太山寺町大淵〕

【松山市立北中学校西方に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市太山寺町大淵 |
主な碑文 |
右へんろ道/大ふち中 |
寸法 |
25〜48×12〜15×80 |
備考 |
市立北中学校西約70mの三差路南。もと三差路の突き当たりに建っていたという。 |

大淵集落を通る二つの遍路道を地図で再確認しましょう。

二つの遍路道が合流する場所がここです。


道標23の手印に従って真っ直ぐ進むと太山寺に到着です。『伊予の遍路道』の記述を確認しましょう。
道後温泉から太山寺へ
太山寺川の上流に向かい、右岸に沿う遍路道は緩やかに右に曲がり、西へ向かう。道は太山寺橋西詰めで県道183号に合流し、さらに西進する。正面に見えてくるのが太山寺一の門である。この一の門の左脇に道標25・26が立っている。道標25は自然石の道標で、指示に従い右に進めば、門をくぐって「八丁」で二の門を経て太山寺本堂に至り、左に進めば地蔵坂を越えて「十八丁」で三津浜へ出る。もう一つの道標26は、「第五十二番霊場」と太山寺の札所番号を示した道標で、巡拝100度目の茂兵衛の建立したものである。右面には次の札所である円明寺を案内している。
※ 太字及び道標25・道標26は引用者による


それでは、二つの道標に記された文字を確認しましょう。
25 太山寺一の門傍に建つ遍路道標(左)〔松山市太山寺町〕

【太山寺一の門傍に建つ遍路道標(左)データ】
所在地 |
松山市太山寺町 |
主な碑文 |
右太山寺 八丁 左三津濱 十八丁 講中 |
寸法 |
40〜60×20〜25×80 |
備考 |
太山寺一の門左脇に道標26と並ぶ |
26 太山寺一の門傍に建つ遍路道標(右)〔松山市太山寺町〕
【太山寺一の門傍に建つ遍路道標(右)データ】
所在地 |
松山市太山寺町 |
主な碑文 |
第五十二番霊場/左円明寺 阿ハ禮可し今世に迷ふひとひと越堂須具流石尓道志る遍けり 釈陶庵俊◻︎ 明治二十一年五月吉良日 讃岐國三野郡高野村住人 施主 忽那金作 壹百度目 為供養建之 周防國大島郡椋野村 願主 中務茂兵衛義教 |
寸法 |
27×30×132 |
備考 |
太山寺一の門左脇に道標25と並ぶ |

本稿は以上です。26基の遍路道標のうち、3基が失われてしまっていることが本当に残念でなりません。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。