遍路道標探索の旅 Part.2 松山市上野町から松山市鷹子町を巡る

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 「遍路道標探索の旅」の第2弾です。今回は、愛媛県生涯学習センター〔松山市上野町〕をスタートして四国八十八箇所霊場第四十九番札所 浄土寺〔松山市鷹子町〕までの区間にある遍路道標を探索しました。探索ルートを図にまとめましたのでご覧ください。

遍路道標探索ルート〔国土地理院電子国土基本図から作成〕
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 この区間は遍路道、金毘羅街道、松山藩が整備した土佐街道・讃岐街道が交差する面白いところで、遍路道標以外にも金毘羅道標や大師堂、さらに自然災害伝承碑まであります。探索順に紹介していきますので、よろしくお願いします。それでは、始めましょう!

1 松山市小村町に建つ遍路道標

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 一番最初に撮影した遍路道標は、県道23号、県道40号および県道207号が交わる交差点傍に建てられていました。ここです。

松山市小村町の交差点を南向きに撮影。左右を走る道路が県道23号
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 遍路道標は、上の写真左下にある白いガードレール傍に立てられていました。

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 愛媛県教育委員会が平成13年に刊行した「ふるさと愛媛学」調査研究報告書『伊予の遍路道』では、この遍路道標について次のように記述されています。

『伊予の遍路道』の記述

 道は道標〔注:県道207号沿いに立つ〕に従い、県道207号を300mほど北に進むと、松山平野を東西に貫流する重信川南岸の堤防に達する。橋〔注:久谷大橋〕を渡る手前の県道伊予川内線(23号)との交差点北東の**邸には、昭和36年(1961年)ころに建てたという土塀に埋め込まれた道標がある。この道標は八坂寺と西林寺を案内している。

※ 注釈及び太字は筆者による。

【参考】『伊予の遍路道』八坂寺から重信川へ

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 別の面では森松〔松山市〕と上林〔東温市〕も案内していますね。

2 松山自動車道下に建つ遍路道標と金毘羅道標〔松山市南高井町〕

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 久谷大橋を渡ってすぐの所で左折し、短い坂を下りたところに遍路道標と金毘羅道標が並んで立っていました。

松山自動車道下に建つ遍路道標と金毘羅道標
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 松山自動車道をくぐる形で北に伸びている道路がかつての遍路道です。まず最初に左の遍路道標を紹介します。

【南高井町に建つ遍路道標データ】

所在地
松山市南高井町
主な碑文
(手印)壱百二十壱度目為供養建之 周防國大嶋郡椋野村住 施主 中務茂兵衛義教
 明治廿四年七月吉辰 豊後國南海部郡大島村 施主 養神崎◻︎造
 是レヨリ金刃比羅ヘ二十九里余 備前國坂井郡 施主 三國港町 島津清平 新保村 上野喜平
寸法
31×31×145
備考
九谷大橋北岸(重信川右岸)西堤防下。
碑文には行き先が刻まれてないが、手印は西林寺の方向を示していると思われるので金毘羅道標を兼ねた遍路道標である。

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 なんと中務茂兵衛が建立した道標でした。それでは次に、右側の金毘羅道標を見て見ましょう。

【南高井町に建つ遍路道標データ】

所在地
松山市南高井町
主な碑文
へんろ道 西林寺 三丁/金毘羅大門江廿九里
再建續久米郡南土居上下/明治廿七年甲午三月 世話人 好光善内(他1名)
寸法
18×22×155
備考
九谷大橋北岸(重信川右岸)西堤防下。

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 この後、二つの道標の間を進んで松山自動車道の下を通過し、かつての遍路道を通って県道40号を横切りました。目の前に現れたのは大師堂と遍路道標でした。

3 八ヶ所大師堂傍に建つ遍路道標〔松山市南高井町〕

八ヶ所大師堂と遍路道標〔間の道路は西林寺へ続く遍路道〕
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 八ヶ所大師堂の右側に建つ遍路道標に刻まれた文字を確認しましょう。

【八ヶ所大師堂傍に建つ遍路道標データ】

所在地
松山市南高井町
主な碑文
(手印)淡路津名郡常磐村 施主 富田喜代蔵
 四國百三十三度目為供養 周防國大嶋郡椋野村 中務茂兵衛義教
寸法
28×27×130
備考
八ヶ所大師堂傍

【参考】『伊予の遍路道重信川から西林寺へ

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 なんとこの遍路道標も中務茂兵衛が建立したものでした!この後、大師堂と道標の間の遍路道を真っ直ぐ進み、西林寺へと向かいました。

4 當郷餓死萬霊塔〔松山市南高井町〕

當郷餓死萬霊塔
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 西林寺橋を渡る手前に長善寺と大師堂があり、その傍にあるのが「當郷餓死萬霊塔」で、享保の飢饉で亡くなられた方の霊を弔うために建てられました。解説板には次のように記されています。

當郷餓死萬霊塔

 享保十七(1732)年、西日本一帯が大凶作で、大飢饉となった。特に被害が大きかったのは南海道で、中でも松山藩は餓死者が最も多かった。

 春から長雨が続き、五月には麦の腐敗や河川の氾濫で、収穫は皆無となった。さらに、六月、七月と続く降雨で、病虫害が発生、特にウンカの異常発生により、稲はほとんどが枯死した。この年の松山領内の餓死者は5,705人に及び、牛馬も約三千頭が餓死したと伝えられる。高井村の約半数の人々が餓死とも伝えられている。

 松山藩でもいろいろな対策をしたが及ばなかった。筒井村の義農作兵衛が麦種俵を枕にして餓死を遂げたのは、この年の九月のことである。

 この餓死者の慰霊として、当郷の者が建立したものであるが、既に破損していて建立の日は不明である。   松山市教育委員会

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 享保の飢饉の際に亡くなった方を慰霊するために建立された供養塔は各地にあります。当ブログでは、松山市と東温市に建てられている萬霊塔について記事にしていますので、合わせてご一読ください。

【参考】自然災害伝承碑を訪ねて…13 享保の飢饉の犠牲者を祀る供養塔を巡る〔松山市編〕

【参考】自然災害伝承碑を訪ねて…14 享保の飢饉の犠牲者を祀る供養塔を巡る〔東温市編〕

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 この後、西林寺橋を渡って西林寺を訪れました。この橋の袂にも遍路道標が建てられています。

5 西林寺橋傍に建つ遍路道標〔松山市南高井町〕

西林寺橋と遍路道標
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 この遍路道標にはどのような文字が刻まれているでしょうか。確認してみましょう。

【西林寺橋傍に建つ遍路道標データ】

所在地
松山市南高井町
主な碑文
(梵字)(大師像)これより浄土寺迄廿五丁
 施主 當松山城下 海老や乙右ヱ門(他1名)
 世話人 越智郡朝くら 徳右衛門
寸法
24×21×118
備考
西林寺門前

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 この遍路道標は四十九番霊場 浄土寺までの里程を示す徳右衛門道標でした。

西林寺橋と西林寺山門
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 この後西林寺を出発し、かつての遍路道を通って四国八十八箇所霊場第四十九番札所 浄土寺へ向かいました。かつての遍路道は、現在の県道40号(松山東部環状線)を左折し、南江戸町に続くバイパス道路よりも南側にありました。遍路道標探索ルートに緑色の線で示した道がかつての遍路道です。

遍路道標探索ルート〔国土地理院電子国土基本図から作成〕

【参考】今昔マップ on the web

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 自転車でかつての遍路道を走って見ました。松山自動車道下の遍路道標・金毘羅道標から西林寺を経て南江戸町まで〔緑色線の終わりの地点〕の風景を動画でお楽しみください。【約4分】

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 かつての遍路道を進むと、目前に御堂が現れました。

6 南土居町にある大日如来堂〔松山市南土居町〕

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 さて、この大日如来堂ですが、石碑の文字も読めなくなっていますし、探索時にはなぜこの場所に建てられているのかも分からなかったのですが、帰宅後に調べてみると、石碑に刻まれた文字を記しているブログを発見しました。これによると、この石碑には次の文字が刻まれているそうです。

「(梵字)奉納 大乗妙典六十六部所願成就供養塔」
「元文六辛酉(1741)二月吉良辰」

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 元文という元号は「享保」の後、「寛保」の前にあたり、西暦では1736年から1741年までの期間を指します。江戸幕府将軍は徳川吉宗の治世です。もしかしたらこの大日如来堂も享保の飢饉の死者を慰霊するために建立されたのかもしれませんね。

【参考】ブログ「間口は広いが奥行き無し」松山市南土居町 鷹巣泉など

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 浄土寺へ向かうために北へ進むと、三叉路の所に遍路道標が2基並んで建っていました。

7 三叉路にある遍路道標〔松山市南土居町〕

南土居町の三叉路に建つ遍路道標
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 最近建て替えられた遍路道標であるようで、「右 へんろ道」としか刻まれていません。当ブログでは、かつて建てられていた道標のデータをまとめておきます。

【南土居町の三叉路に建つ遍路道標データ(左)】

所在地
松山市南土居町
主な碑文
(大師像)(手印)右へんろみち/天保十三年/壬寅
寸法
20×15×127
備考
南土居口バス停南

【南土居町の三叉路に建つ遍路道標データ(右)】

所在地
松山市南土居町
主な碑文
(手印)右へんろ道/好永安輝建/天下泰平祈
寸法
18×15×119
備考
南土居口バス停南

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 ここからさらに北進し、国道11号を渡ってしばらく進むと久米小学校の北西角に小さな御堂があり、その中に遍路道標が2つ納められていました。

8 久米小学校北西角にある御堂に納められている遍路道標〔松山市鷹子町〕

久米小学校北西角にある御堂
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 御堂の中に大師像と文字が刻まれている石がありますよね。これ、どちらも遍路道標なんです。ズームアップしましょう。

御堂の中に納められている遍路道標
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 これらの遍路道標には次の文字が刻まれています。

【久米小学校北西角にある御堂に納められている遍路道標データ(右)】

所在地
松山市鷹子町
主な碑文
(大師像)右/よし阿志をかづ江て我がよき事(以下不明)
寸法
20×14×47
備考
個人邸南西角。下部は破損している。

【久米小学校北西角にある御堂に納められている遍路道標データ(左)】

所在地
松山市鷹子町
主な碑文
(大師像)是より浄土寺へ五丁 為妙空信女菩提 願主 市右エ門
寸法
26〜30×10〜18×65
備考
個人邸南西角

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 この道標のすぐ北側の金毘羅街道と交わる三叉路に大きな遍路道標が建てられていました。

金毘羅街道と交わる三叉路に建つ遍路道標

9 金毘羅街道の三叉路にある遍路道標〔松山市鷹子町〕

【金毘羅街道の三叉路にある遍路道標データ】

所在地
松山市鷹子町
主な碑文
(手印)みき へんろ道/(手印)きゃく へんろ道
 道法 松山札之辻 二里 三津浜 三里 道後湯之町 一里 久萬町 六里 来見 六里 郡中 三里 施主 乃万与三衛門(他4名)
 文久二壬戌三月 為村中安全冥加 世話人 景浦幸兵衛
寸法
35×34×151
備考
個人邸北西角

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 「みき へんろ道」「きゃく へんろ道」の文字が素晴らしい。こんな彫りの深い文字が刻まれている道標は珍しいですね。調べてみると、日尾八幡神社の神官を務めた三輪田米山が揮毫したものだそうです。

【参考】ブログ「EEKの紀行 春夏秋冬」久米地区に現存する四国88ヶ所霊場遍路道標石 その3 鷹子町の遍路石1

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 この後、この道標の所を右折して金毘羅街道を進んだのですが、近くに金毘羅道標が建てられているので紹介します。

10 鷹子町にある金毘羅道標

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 この場所をGoogle Mapで検索してみると、「金毘羅宮」と表示されていました。

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 それでは、この道標に刻まれている文字を確認しましょう。

【鷹子町にある金毘羅道標データ】

所在地
松山市鷹子町
主な碑文
従金毘羅大門二十九里/久米郡古川村/文化十酉十月吉日
寸法
備考
金毘羅宮内

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 この金毘羅道標は、文化10〔1813〕年10月に久米郡古川村〔現松山市古川町〕の住民が建立したものでした。それでは三叉路の遍路道標の所に戻りましょう。

金毘羅街道と交わる三叉路に建つ遍路道標

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 この遍路道標がある所を右折して少し進むと、別の遍路道標が建てられていました。

11 金毘羅街道沿いにある遍路道標〔松山市鷹子町〕

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 遍路道標に刻まれた文字を確認しましょう。

【金毘羅街道沿いにある遍路道標データ】

所在地
松山市鷹子町
主な碑文
(手印)左 へんろミち/すぐ古んひらみ(ち)
 維嘉永二酉年 世話人 助力當村中(他1名)/國中 家内安全 湊 久米屋
寸法
30×30×128
備考
個人邸南西角

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 この遍路道標は嘉永2〔1849〕年に鷹子村の人々が建立したもの、ペリー来航が嘉永6〔1853〕年ですから、その4年前のことですね。なお、当ブログの別記事で金毘羅街道について紹介していますので、お時間があります時にご一読ください。

【参考】「松山札辻より○里」里塚石を探索せよ!Part.1ー讃岐街道編ー

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 この道標から浄土寺方向を見ると、こんな風景が目前に現れます。

浄土寺へ続く道

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 この道を北へ真っ直ぐ進むと、伊予鉄道横河原線の踏切があります。そこからは浄土寺の仁王門がはっきりと見えました。お遍路さんたちもこの風景を見ながら浄土寺を目指したのですね。

伊予鉄道横河原線の踏切から浄土寺を臨む

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 いよいよ目的地である浄土寺に到着です。

浄土寺仁王門〔石段左側に遍路道標!〕

12 浄土寺仁王門前に建つ遍路道標〔松山市鷹子町〕

【浄土寺仁王門前に建つ遍路道標データ】

所在地
松山市鷹子町
主な碑文
(手印)五十番 へんろ道/(手印)四十八番 へんろみち
 施主 重松傳蔵(他5名)/明治四十五年 世話人 安永儀太郎
寸法
31×31×125
備考
浄土寺境内南西角

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 仁王門から南方に目を向けると、道路沿いに別の遍路道標が建てられていました。

13 浄土寺前に建つ遍路道標〔松山市鷹子町〕

【浄土寺前に建つ遍路道標データ】

所在地
松山市鷹子町
主な碑文
(梵字)(大師像)是より者んた寺迄十八丁
 施主 當松山城下 廉屋金兵衛(他1名)/世話人 越智郡朝倉村 徳右衛門
寸法
25×22×114
備考
浄土寺門前民家の塀沿い

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 なんと、この道標は徳右衛門道標の一つでした。「者んた寺」とは繁多寺のことで、四国八十八か所霊場五十番札所繁多寺までの距離を案内しています。さて、いよいよ最後の遍路道標の紹介です。

14 日尾八幡神社前に建つ遍路道標〔松山市鷹子町〕

日尾八幡神社
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 石段の左側、道路傍に遍路道標が建てられています。どんなことが刻まれているのでしょうか。

【日尾八幡神社前に建つ遍路道標データ】

所在地
松山市鷹子町
主な碑文
(手印)右 遍ん路道/(手印)左 逆邊路道
嘉永七申寅歳三月吉日 村中安全/施主 浅井鐡五郎
寸法
30×30×137
備考
日尾神社前の南西角


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 いかがでしたか?今回の探索ルートを再確認しましょう。

遍路道標探索ルート〔国土地理院電子国土基本図から作成〕
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 今回の探索ルートは往復約15キロメートル。たったこれだけの区間に本当にたくさんの遍路道標等がありますでしょう。ぜひ現地を訪れてみてくださいね。

One more thing … 帰路にみつけた遍路道標

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 おまけです。遍路道標探索の旅から戻る途中、2つの遍路道標をみつけましたので紹介します。

① 松山市小村町に建つ遍路道標〔2基目〕

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 この遍路道標は一番最初に紹介した遍路道標から南へ150mほど進んだ所にあります。県道207号沿いに建てられているのですぐに見つけることができました。この場所をGoogle Mapで確認しましょう。

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 この遍路道標は次の文字が刻まれています。

【松山市小村町に建つ遍路道標2データ】

所在地
松山市小村町
主な碑文
八坂寺(手印)施主 安藝佐伯郡玖波村 長谷川菊◻︎ 久保田庄◻︎ 長谷川庄◻︎ 尾上常◻︎ 大師講二十五 ◻︎
願主 四國百三十三度巡拝為供養 周防國大嶋郡椋野村 中務茂兵衛義教 建
(矢印)明治貮十六年 四十八番西林寺 第十二月吉日建之
寸法
24×24×121
備考
個人邸北東角

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 この遍路道標も中務茂兵衛が建立したものでした。しかも33度目巡拝の時ですから、かなり早い時期ですね。この道標から西を見ると、自動車1台分の細い道が続いていました。

中務茂兵衛道標から西方を臨む〔八坂寺へ〕

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 西林寺方向〔北方〕の風景をご覧ください。

中務茂兵衛道標から北方を臨む〔西林寺へ〕

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 この道は県道207号です。拡幅されて道幅が広いですね。八坂寺へ続く西方の遍路道の道幅は昔のままなのでしょうか?興味は尽きません。

② 宮の北交差点〔松山市上野町〕に建つ遍路道標

宮の北交差点に建つ遍路道標
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 この遍路道標の手印が示す方向に進むと、先程紹介した県道207号沿いに建つ遍路道標に至ります。この場所をGoogle Mapで確認しましょう。

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 『伊予の遍路道』によれば、この道標は八坂寺から文殊院・八つ塚経由の遍路道に建てられたもので、「大宮八幡神社の参道付近から現地に移設された」ものだそうです。この道標に刻まれた文字を確認しましょう。

【宮の北交差点に建つ遍路道標データ】

所在地
松山市上野町
主な碑文
(手印)へんろ道/大正十五年三月
 施主 荏原村大字上野 池田勇次郎
寸法
26×24×117
備考
宮の北バス停三叉路北


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当記事は以上になります。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。Part.3は調査終了後に投稿いたします。それまでお待ちください。

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