西予市明浜町高山の集落の密集状態はどのように形成されたか?②
Erikoさん、前回は江戸時代における高山の人口増加についてお話ししました。今日は、明治時代の人口増加について解説していきます。
【参考】西予市明浜町高山の集落の密集状態はどのように形成されたか?①
前回確認したグラフでは、明治時代の方が急激に人口が増加していましたよね。
その通りです。もう一度高山の人口推移のグラフを確認しましょう。
1875〔明治8〕年には約3,000人であった人口が、1890〔明治23〕年には4,000人近くまで増加し、さらに1912〔大正元〕年には約4,500人まで増加しています。この人口増加の背景には何があったのでしょうか?
宇和島藩は明治4〔1871〕年の廃藩置県によりなくなっていますから、この時の人口増加は藩の政策とは関係ないですよね。
その通りですね。この時の人口増加は、高山の主産業の発展によるものなのです。
高山の主産業?漁業において人口が集中する何かがあったのでしょうか?
いいえ、明治時代にある産業が高山で大発展し、多くの人々がその仕事に従事するために高山に集まってきたのです。その遺構が残されていますよ。この写真を見てください。
石垣がすごいですね!これは何ですか?
これは石灰窯です。ちなみに、地域の方々は城の天守閣になぞらえて、「御天主〔おてんす〕」と呼んでいます。
石灰窯!石灰といえば、学校のグラウンドに線を引く時に使用していますよね。
そうです。それ以外にも石灰の用途はたくさんあるんですよ。列挙してみましょう。
- 上下水道の浄化に使用
- 食品添加物として使用
- 農業用肥料として使用
- グラウンドの整備に使用
- 道路の舗装材として使用
- 木造建築の漆喰として使用 など
全く知りませんでした。本当にたくさんの用途があるのですね。
明治時代、高山では石灰業が一大発展を遂げ、「西の新居浜」や「白い村」と呼ばれるほどの活況を呈していました。今日は、石灰業の発展による高山の人口増加についてお話しします。
高山の人口増加とその背景〜明治時代〜
まず最初に、昭和39〔1964〕年に撮影された航空写真を見てください。
海岸沿いが真っ白になっていますね。
それが石灰業が行われていた証です。なぜ高山で石灰業が発展したのかを考えるには、愛媛県の地質について知らなければなりません。
① なぜ高山で石灰業が繁栄したか?
明浜町付近の地質は秩父・三宝山層群に属し、中生代三畳紀〔2億5,000万〜2億年前〕の石灰岩が多く分布しています。
【参考】一般社団法人斜面防災対策技術協会ホームページ 愛媛県地質図
2億5,000万年前!気が遠くなりそうです。
『愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)』に秩父帯に関する記述がありますので引用しますね。
秩父帯の特徴
秩父帯の古生層は古生代(5億7,000万年前〜2億3,000万年前)の新しい時期に堆積した堆積岩で、頁岩〔けつがん〕、砂岩、石灰岩、チャートなどのほか玄武岩や千枚岩も分布する。石灰岩の分布は東部の野村町大野ヶ原から同白髭にかけてと、日吉村上鍵山から明浜町宮之串にかけての仏像構造線に沿う地域に認められ、後者では城川町田穂上組や明浜町宮之串などで石灰の採掘場が存在する。
『愛媛県史 地誌Ⅰ(総論)』 ※ 注釈及び太字は引用者による
大野ヶ原!四国カルストといって、確か石灰岩が露出している場所でしたね。
その通りです。大野ヶ原も高山と同じ秩父・三宝山層群に属しています。そして、高山周辺には石灰岩層が帯状に分布しているのです。
【参考】「愛媛県・旧明浜町の石灰工業史」〔角田清美、専修人文論集、2017〕※ 図1愛媛県明浜町と周辺の地質概略を参照のこと。
なるほど。だからこそ石灰業が高山で栄えたのですね。
高山で石灰業に従事しておられた方は、高山で石灰業が発展した理由は3つあると話してくださいました。
- 海岸近くに石灰山があること。
- 高山が海に面していること。
- 船で大量輸送ができたこと。
そうか。リアス海岸が形成されているから、山と海が近いのでしたね。でもいつ頃から石灰業が始まったのですか?
それでは、高山の石灰業の歴史についてお話ししましょう。
② 高山石灰業の始まり
あけはまシーサイドサンパークから西へしばらく進んだところに、高山石灰業の祖と称される人物の頌徳碑が建てられています。まずは、この人物の業績からお話ししますね。
宇都宮角治さん。また宇都宮姓が出てきましたね。
実は、若宮神社に祀られている高山城主、宇都宮正綱公の子孫でもあるそうです。碑文を確認しましょう。
宇都宮角治翁頌徳碑 碑文
石灰業の開祖を讃える。
「嘉永三年、高山浦宇都宮角治、土佐に行き石灰製造法を習い、小僧都に窯を築き製造を開始す。これを高山石灰の濫觴とす。いらい製造の改善をなし、製産を高め今日の盛大に至る。」-東宇和郡沿革史より-
宇都宮長右衛門角治は苦心の末に石灰業を興し、一大産業の基を開いた。また村役人として重責を果すなどその行績は大きい。なお製造が軌道に乗るや同志の指導に専念し、村人より親しみと尊敬を受けた。また組合作りを提唱し販路の拡大に努め「伊予高山石灰」の名声を高めた。翁は寛政十一年の生れ、明治十一年二月に八十才の長寿を全うした。
爾後百年、ここに頌徳碑を建立しその遺徳をしのび顕彰するに至った。
昭和五十二年十月十日 宇都宮角治翁顕彰会 明浜郷土史研究会
嘉永3年といえば、アメリカのペリーが浦賀に来航して開国を迫る3年前のことですね。
その通り。1850年のことです。
碑文を読むと、宇都宮角治さんが石灰業を始めてから多くの人が集まってきたことや石灰業が大発展したことがよく分かりますね。
そうですね。彼が土佐で学んだ石灰製造法は、土中式縦窯を作り、木炭を燃料として窯の中で石灰石を焼くという方法でした。ただし、それ以前には別の石灰製造法が行われていたようです。石灰業に従事しておられた方は、石灰の製造段階が四つの時期に分けられると教えてくださいました。
石灰の製造段階
- 第一期 木材燃料の時代〔古墳時代〜江戸時代中期:野焼き式〕
- 第二期 木炭燃料の時代〔江戸時代後期〜明治時代初期:土中式立窯での焼成〕
- 第三期 石炭燃料の時代〔明治時代初期〜昭和30年代:土中式立窯での焼成〕
- 第四期 重油燃料の時代〔昭和40年代〜〕
そうすると、宇都宮角治さんが土佐から学んだ石灰製造法は第二期に当たりますね。
そうです。高山の石灰業は第二期から第三期にかけて発展し、第四期に入る前に衰退したといえます。
なるほど。第二期の木炭燃料の時代の遺構は残されていますか?
はい。岩井というところに、木炭燃料時代の石灰窯が一基だけ残されていますよ。
最初に見た石灰窯と大きさが全然違いますね。
この石灰窯は明治4〔1871〕年に築造されたものだとされています。
この石灰窯はどのように使用したのですか?
石灰窯の下方に四つの四角い穴がありますね。これらは石灰の取り出し口です。つまり、取り出し口の上に徳利型の窯がそれぞれ作られていて、上から石灰石と木炭を入れて火をつけて焼成し、石灰を製造したのです。
これは貴重ですね。でもなぜたった一基しか残されていないのですか?
はい。木炭燃料から石炭燃料へと変わる頃に壊されたそうですし、現代の道路開発等が行われた際にも壊されたと地域の方々から教えていただきました。
それは残念です。この一基は絶対に残さなければいけませんね。
その通りです。さて、高山の石灰業がどのように発展していったのか、その道筋をたどりましょう。
はい。
③ 高山石灰業の発展
宇都宮角治が高山で木炭を燃料とした石灰の製造を始めたのが嘉永3〔1850〕年ですが、それ以降高山で石灰業に従事する者が増えていきます。石灰業に従事していた方のお話を紹介します。
二宮忠兵衛石灰工場について
宇都宮角治は、石灰製造を始めてから製法を歌にして詠み、皆に薦めています。文久元年(1861年)に喜十郎が角治の手ほどきを受け、高山で2人目の石灰焼きを始めました。慶応3年(1867年)、藩直営の石灰事業を興したいとの意向から、宇和島藩が田中庄屋に命じて小浦へ工場を造った時、土地が狭い小浦を埋め立てて拡張するとともに、経験者として藩営工場の職人に選んだのが喜十郎でした。明治3年(1870年)、廃藩置県により宇和島藩が石灰事業を中止したため、この工場は喜十郎が引き継ぐことになりました。明治5年(1872年)、壬申戸籍を作成したときに彼は二宮忠兵衛と改名します。彼は非常に商才があり、各工場の製品を集めて販売するだけでなく、北前船を呼び込んで販路を拡げ、明治45年(1912年)の記録では小浦に石灰窯4基が操業していたとあります。彼はこの年に74歳で亡くなりました。高山石灰販売の功労者だと私は思います。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-』 ※ 太字及び下線は引用者による。
製法を歌にして詠んだというのは面白いですね。また、二宮忠兵衛さんも販路を拡大するなど活躍をされたのですね。
こうして、高山で石灰業に従事する者がどんどん増えていったのです。専修大学文学部専任講師を務めておられる角田清美氏は、論文「愛媛県・旧明浜町の石灰工業史」のなかで、この頃の高山の石灰業の状況について、次のように述べています。
創業期の高山石灰
次いで、文久元(1861)年には、二宮喜十郎も同地で石灰の焼成を行い、文久3(1863)年には石灰焼株〔注)明浜町では、窯主を1名=1株と称している。〕を所有するものは4名になり、元治元(1864)年には6株に増加した。その後も石灰焼きを行う業者は増え、明治2(1869)年には12名が石灰株を持つまでになった。この頃は、主として土壌の中和剤として消石灰が利用され始めた時代で、付近では少ない消石灰の産地として、興隆が始まった頃であった。
『愛媛県・旧明浜町の石灰工業史』 ※ 太字及び下線は引用者による。
【参考】「愛媛県・旧明浜町の石灰工業史」〔角田清美、専修人文論集、2017〕※ 図3明浜町における消石灰製造者の変遷を参照のこと。
先生、角田清美氏の論文に記載されている図3を見ると、明治13〔1880〕年から従業員数のグラフが始まっています。これには何か理由があるのですか?
実は、この時期が石炭燃料へと切り替わり、石灰の製造量が増加したのです。この時期の変化を見てみましょう。
- 明治5〔1872〕年 宇都宮長三郎が福岡県若松から煽石〔せんせき〕を購入して石灰の焼成を開始。
- 明治8〔1875〕年 採石に火薬を導入。
なるほど。使用するものが変わっていったのですね。先生、煽石を用いた場合、それ以前の燃料と比べてどう違ったのですか?
石灰業に従事しておられた方が、次のように話してくださいました。
煽石を用いた焼成
その後、明治5年(1872年)に私の曽祖父〔宇都宮長三郎氏のこと。〕が筑前若松より煽石を購入して石灰焼成に用いたところ、火力の違いから大きな石が焼けるようになり、石灰窯の構造を石炭用に改善して大型化すると生産量が飛躍的に伸び、販路の拡張に努めたために利益が大幅に向上しました。土佐は石灰製造の先進地ですが、石炭を導入したのは明治18年(1885年)のことで高山よりも13年遅いので、この年の石炭燃料による石灰焼成は、日本で初めての快挙ではなかったかと思います。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-』 ※ 注釈及び太字は引用者による。
なるほど。こうした理由から大型の石灰窯が築かれるようになったのか。生産量が飛躍的に伸びたということは、従業員数も増加し、高山の人口がどんどん増加したわけですね。
その通りです、Erikoさん。以降の高山石灰業の発展について、石灰業に従事しておられた方は次のように話してくださいました。
煽石を用いた焼成
嘉永3年から明治5年までの22年間に16軒の石灰業者が開業しましたが、石灰製造組合が設立された明治29年(1896年)には83軒へと増加しています。また、同30年(1897年)には伊予高山銀行が、同34年(1901年)11月には石灰を運搬するための高山船舶同盟会が設立され、29軒の船主が営業名簿に名を連ねています。この時代はまさに石灰産業による高山の躍進期でした。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-』 ※ 太字は引用者による。
さらに角田清美氏は、先述の論文の中で、高山石灰の隆盛を次のように述べています。
高山石灰の隆盛期
明治13(1880)年の、旧・高山村における石灰工業に従業する人口は95人で、村内の就業総人口の約13%を占め、明治14(1881)年の生産量は約30万俵(約2,500t)であった。明治16(1883)年には、当時、日本セメント業界の風雲児と称されていた浅野総一郎が当地を訪れ、明浜の消石灰はセメント用石灰としても取引されることになった。このこともあって、工場数は増え、生産量はさらに増加し、明治35(1902)年には約241万俵(約16,200t)に達した。
『愛媛県・旧明浜町の石灰工業史』 ※ 太字及び下線は引用者による。
【参考】Wikipedia 浅野総一郎
こうして、高山の人口が急激に増加していったのですね。
その通りです。ちなみに、昭和時代の人口増加は学童疎開や終戦後の復員・引揚者による人口増加です。
よく分かりました。
次回は、高山石灰業の繁栄と衰退について確認しましょう。
はい。ありがとうございました。
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