知って欲しい! 旧日吉村初代村長 井谷正命氏のこと①
Erikoさん、今日は旧日吉村初代村長 井谷正命〔いたに まさみち〕氏の功績についてお話しします。
先生、日吉村はどの辺りにあったのですか?
平成17〔2005〕年に北宇和郡広見町と合併し、現在は鬼北町になっています。地図で位置を確認しましょう。
高速道路を利用すれば、松山から1時間28分かかるのですか。山間部にあった村なのですね。
今度は鬼北町の町域を航空写真で確認しましょう。武左衛門一揆記念館とあるところが、旧日吉村の中心地であった下鍵山というところです。
地図中の黄色い線は国道ですね。下鍵山から国道が3方向に延びているようにも見えます。
それでは、下鍵山の町並みを拡大した写真に切り換えますね。
国道197号が下鍵山で北東へ向きを変え、高知県の方へ延びていますね。そして下鍵山から南へ国道320号が続いています。ここは交通の要衝ですね。
その通りです。実は、これらの国道につながる道路の敷設に尽力したのが井谷正命氏なのです。
そうなのですか?
はい。井谷正命氏は、この他にもたくさんの功績を残しています。これから一つ一つ確認していきましょう。
はい。よろしくお願いします。
① 日吉村の成立
井谷正命氏が村長に就任した日吉村は、明治22〔1889〕年の市制・町村制施行を受け、明治23〔1890〕年に5つの村が合併して成立しました。彼がわずか23歳の時です。
井谷正命氏が日吉村の環境について記した文章が、『日吉村誌』に掲載されています。引用しましょう。
日吉村の環境
本村は、古来世間からは大山奥と呼ばれていた。四面、山をもって囲まれ桃源の別天地として幾千年を経過してきたので他郷との交通も少なく、もちろん当時村内の道路は、わずかに人馬の通行がやっとできる程度であった。
『日吉村誌』 ※ 太字及び下線は引用者による
当時はもちろん自動車なんてありませんから、人々は歩いて山を越えたんですよね。
そうですね。切り出した材木などの物資をオイコに乗せ、背中に担いで運搬したということを地域の方から伺いました。
先生、オイコとは何ですか?
写真がありますよ。これです。
これがオイコですか。
そうです。大きさも色々あり、地域によっては”ショイコ”と呼んでいるところもあります。
【参考】ふるさと愛媛学調査報告書『宇和海と生活文化』オイコと背負いカゴ
話を井谷正命氏に戻しましょう。明治23〔1890〕年に初代村長に就任した井谷正命氏は、村の発展について次のような考えを持っていました。
奥地山村の日吉村の発展は、交通の発達をおいてはない!
将来、下鍵山は大洲・野村方面への分岐点になる!
なるほど。山間部にあるからこそ交通の便を良くしようという考えなのですね。
Erikoさん、井谷正命氏の考えはそれだけではありません。下鍵山を拠点とした町づくりにまで及んでいたのです。
町づくり!規模が大きいですね。
それを実現してしまったのが井谷正命氏の凄いところです。彼の業績を3つに分けて説明しますね。
- 道路網・交通網の整備と市街地の形成
- 国鉄の誘致
- その他の業績
② 道路網・交通網の整備と市街地の形成
『日吉村ふるさと写真集』に、市街地が形成される前の下鍵山の写真が掲載されています。ちょっと見てみましょう。
建物がほとんどありませんね。下鍵山のどの辺りを撮影したものなんだろう?
写真右に写っている建物が、井谷正命氏の住居です。これは現在も同じ場所にありますよ。
玄関の屋根の形が同じですね!すぐ分かりました。
では次に、井谷家住居付近の下鍵山の町並みを地図で見てみましょう。
道路が十字に走っていて、道路沿いに住居が並んでいますね。上の写真とは全く風景が違います。これも全て井谷正命氏の功績なのですか?
そうです。明治35(1902)年に、須崎〔高知県〕-宇和島間の里道日吉線が、日吉村と宇和島町(現宇和島市)の両方から着工することが決定されると、井谷氏は下鍵山に日吉村の中心集落を形成することを決意し、自己の所有地に道路に沿って家屋を建設していったのです。
えっ、下鍵山は井谷正命氏の所有地だったのですか?
そうなのです。ちなみに里道日吉線は、現在の国道320号の原形となった道です。この頃の町づくりについて、下鍵山で暮らしている方は次のように話してくださいました。
周辺地域からの集住
井谷先生は、下鍵山の町づくりの趣旨と将来の展望について、さまざまな地域の人々に何度も説明をなさいました。現在下鍵山でくらしている人々の中で、昭和のころから商売を続けている方の多くは、その呼びかけに応じて下鍵山に集まって来られた方々です。松山市や城川町、面河村から来られた方がいらっしゃいますし、現在の鬼北町内でいえば、三島や日向谷〔ひゅうがい〕の方から来られた方もいらっしゃいます。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11 -鬼北町-』 ※ 下線は引用者による
なるほど。この呼びかけに応じた方々が下鍵山の町を形成していったのですね。
井谷氏は道路の建設から町づくりを始めます。周辺の土を掘り集め、盛り土をして道路を建設していきました。建設途中の写真が『日吉村ふるさと写真集』に掲載されています。
これは貴重な写真ですね。奥に建物がありますから、そこが下鍵山の集落にあたるのですね。
そうです。明治39〔1906〕年には鍵山川に日吉橋が架橋されます。この頃は下鍵山に52戸あったそうですよ。
徐々に町が形成されていく様子が分かりますね。
この頃の町づくりの名残りが今も下鍵山に見られます。地域の方は次のように話してくださいました。
川沿いに建てられた住居の特徴
日向谷川の方から下鍵山の町の方を見ると、高く積まれた石垣の上に家が建っていたり、道路よりも低い位置に住居があったりする風景が見られます。これは、井谷先生が町づくりをしたときの名残です。もともとは土地の高さはもっと低く、段差もなだらかでした。周辺の土を掘り集め、盛り土をして道路を建設していきましたが、下鍵山の道路の高さは造られた当時と全く変わっていません。つまり、家を建てるときに、道路の高さに合わせる必要があったので、地階(『地倉(じぐら)』と呼んでいる人もいる)をつくったり石垣を組んだりして、高さを揃(そろ)えたのです。日向谷川だけでなく、鍵山川沿いに建つ住居も同じです。地階は、多くの人が倉庫として現在も使用しています。
このようにして下鍵山の町並みができたので、川沿いを歩いてみると、家よりもかなり低い位置にある畑などをよく見かけます。これは、町づくりをする前の下鍵山の様子を今に伝えるものだと言えます。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11 -鬼北町-』 ※ 太字及び下線は引用者による
なるほど。
日向谷川から下鍵山方向を撮影した写真がありますので見てください。
本当だ!左の建物は3階建てのように見えますね。
その後、大正2年(1913年)に宇和島-日吉間の道路が開設され、大正3年(1914年)から大洲・城川方面へ、大正4年(1915年)から父野川および高知方面へそれぞれ道路建設が始まると、交通の要衝となった下鍵山は新興市街地としての賑わいを見せはじめたのです。
こうして、下鍵山を中心とした町が形成されたのですね。
道路建設だけではありません。高知県への交通の利便性を図るため、隧道〔ずいどう〕も建設したのです。
隧道?トンネルのことですか?
そうです。高研隧道〔たかとぎずいどう〕といいます。
凄い!どの辺りにあるのですか?
地図で高研隧道の位置を確認しましょう。
高研隧道は、大正15〔1926〕年に着工し、昭和3〔1928〕年に開通しました。延長254m、幅員4.8m、高さ4.6mの隧道です。昭和7〔1932〕年に改修が行われ、延長258m、幅員5.45m、高さ4.6mに修正されました。
【参考】隧道探訪ホームページ「高研隧道」
そうか、井谷正命氏は自動車の時代が到来することを予期していたのですね。
その通りです。その証拠に、昭和4〔1929〕年には四国自動車バスが開通しています。
日吉村に自動車の時代が本当にやってきたのですね。
自動車時代の到来について、地域の方が次のように話してくださいました。
建設当時と変わらない道幅
現在の下鍵山の道幅は、車2台が十分に通ることができるほど広いのですが、これはこの町がつくられた明治のころと全く変わっていません。しかし、地域の人々や宇和島以南の各町村の人々との交渉など、その実現にはかなりのご苦労があったことが、『日吉村誌』に書かれてあります。『こんなに広い道幅がいるのか。』と多くの人々から言われたそうですが、井谷先生は、『それだけの幅が必要だ。』と主張され、それを通されました。井谷先生は大阪で生活をされたことがありましたが、その時の大阪の街の様子が印象深かったのだと思います。やはり、井谷先生の町づくりの構想の中に、下鍵山がこの地域の中心であるという意図が、当初からあったのでしょう。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11 -鬼北町-』 ※ 太字及び下線は引用者による
なるほど。大阪で生活をした経験が井谷正命氏の町づくり構想に活かされたのですね。
Erikoさん、下鍵山の道路を撮影してきました。道幅はどのくらいあると思いますか?
車2台分よりも広いのではないですか?8mはあると思います。
正確には約7.5mです。井谷正命氏は宇和島まで同じ道幅の道路を建設したかったそうですが、人々の反対もあって下鍵山のみこの道幅にしたそうです。
宇和島まで同じ道幅!自動車が普及していない当時からすると考えられなかったのでしょうね。
そうだと思います。この道幅のおかげで、下鍵山の道路沿いで暮らす人々は後年恩恵を受けたそうです。
広い道幅による恩恵
この道幅のおかげで、後世の下鍵山の人々が恩恵を受けました。それは、道路を舗装した昭和44、45年(1969、70年)ころのことです。実は道路を舗装する際、道幅の広さによって地元の人々の負担金(受益者負担)の有り無しが決まっています。下鍵山はこの広い道幅のおかげで全て国の補助の対象となり、受益者負担が全くなかったので、本当に助かりました。偶然のことではありますが、明治時代の構想が後世の人々に恩恵を与えてくれたということばかりでなく、井谷先生が先進的な考えを当時すでに持たれていたことに驚いています。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11 -鬼北町-』 ※ 太字及び下線は引用者による
そんなこともあるのですね。
下鍵山の町づくりが進むと、ここが商業の拠点にもなりました。地域の方は次のように話してくださいました。
商業の拠点、下鍵山
井谷先生の努力のおかげで、下鍵山は交通の要衝であり、商業の拠点にもなりました。日吉村には川口や大村のように小さな集落がたくさんあり、それぞれに店があったので、各地域に商品を卸していかなければなりませんでした。下鍵山はその拠点であり、宿場町でもありました。
下鍵山への物資は、そのほとんどが宇和島から運ばれていました。松山や大洲から物資がもたらされるということはあまりなかったように思います。里道日吉線があったので、それを利用して、多くの物資が下鍵山に運ばれてきたのです。それでも当時は、日吉から宇和島まで、車で2時間はかかっており、下鍵山を拠点にしなければ、効率良くあちこちへ行くことができにくく、だからこそ下鍵山で宿泊をする必要があったのです。下鍵山から宇和島まで、日帰りで気軽に行くことができるようになったのは、昭和57年(1982年)に国道320号が開通してからのことです。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11 -鬼北町-』 ※ 太字及び下線は引用者による
当時は相当栄えたようですね。
こうして下鍵山は、山間地の物資の集散地・中継地としての機能も有するようになり、いつしか「幸田町」と称せられるようになったのです。
幸田町。幸せがある場所という意味ですか?
そうです。そしてさらに井谷正命氏は、村の発展を考えて国鉄の誘致に尽力します。これについては、次回見ていきましょう。
はい。
それでは最後に、高研隧道の現状を確認して終わりにしましょう。昭和56〔1981〕年2月に高研山トンネルが開通してからはあまり使用されなくなり、現在では老朽化のために通行禁止になっています。
【つづく…】