知って欲しい! 旧日吉村初代村長 井谷正命氏のこと②

Teacher

 Erikoさん、今日は前回に続いて旧日吉村初代村長 井谷正命〔いたに まさみち〕氏の功績についてお話しします。

Eriko

 前回は道路網・交通網の整備と市街地の形成についてでしたね。井谷正命氏の先見性は本当に凄いと思いました。

【参考】知って欲しい! 旧日吉村初代村長 井谷正命氏のこと①

Teacher

 今日は、国鉄の誘致についてお話しします。もしかしたら、日吉村を鉄道が走っていたかもしれません。

Eriko

 井谷正命氏がどんな活動をされたのか、楽しみです。

① 国鉄の誘致

ア 南予地方における鉄道敷設運動の始まり

Teacher

 『野村郷土誌』によれば、南予地方に初めて鉄道敷設運動が展開されたのは明治22〔1889〕年のことだそうです。

Eriko

 明治22年といえば、その1年前に松山で伊予鉄道が開業していますよね。

梅津寺公園に展示されている1号汽関車

【参考】伊予鉄道の歴史① 伊予鉄道の創業と小林信近

Teacher

 その通りです。松山における伊予鉄道の成功が南予の人々にも影響を与えたと考えられます。また、明治22〔1889〕年7月には東海道線も開通しています。

Eriko

 東京と神戸が鉄道で結ばれたのでしたね。

Teacher

 そうです。さらに明治25〔1892〕年に鉄道敷設法が制定され、次のことが定められました。

  • 今後全国に敷設すべき鉄道路線を33区間一括指定〔多度津-今治-松山間の鉄道が計上される〕
  • そのうち重要な9区間を今後12年以内に敷設する「第一期」路線とする。
  • 新路線の追加や「第一期」への繰り上げは、全て帝国議会の協賛による法改正を義務とする。
Eriko

 井谷正命氏が日吉村村長の時代ですね。井谷氏はこうした国の動きに注目していたのでしょうね。

Teacher

 そうだと思います。各地で巻き起こった鉄道敷設運動は、明治28〔1894〕年に勃発した日清戦争によって一旦静まりますが、明治30年代に入って再び活発化します。

Eriko

 ここで井谷正命氏が鉄道敷設に向けて尽力されたのですね。

イ 四国循環鉄道誘致運動

Teacher

 そうです。明治33〔1900〕年に郡制が実施された頃から、北宇和郡や宇和島など南予の有志間で「四国循環鉄道誘致運動」が盛んに行われるようになりました。

Eriko

 四国循環ということは、四国4県を鉄道で結ぶということですね。

Teacher

 この時、北宇和郡会の郡会議員有志6名が予定路線を踏査〔実際にその地へ出かけて調べること〕しています。

Eriko

 この中に井谷正命氏もいたのですね。

Teacher

 そうです。代表者を紹介します。

踏査した人々及び協力者
Eriko

 井上要氏は伊予鉄道の社長を務めた方ですよね。

Teacher

 その通りです。当時県会議員であった井上要氏の協力を得て、井谷正命氏ら踏査隊は香川県境から松山を経て南予までの200kmを実地踏査したのです。

Eriko

 200km!

Teacher

 この時選定されたコースが、『愛媛県史 社会経済3 商工』に記されています。引用しましょう。

選定されたコース

 その結果、国防上の見地からも臨海地より山間部のコースを選定した。大洲以南では、肱川沿いをさかのぼり、野村・歯長峠経由で三間の宮野下に出、さらに鬼北盆地を東に向かい近永(現広見町)に出るもので、将来、高知県の江川崎を結ぶ計画に落ち付いた。

『愛媛県史 社会経済3 商工』 下線及び太字は引用者による
Eriko

 現在のJRのルートとは違いますね。

Teacher

 この選定コースは、経済的・技術的問題もあって、当時は実現しませんでした。ですので、宇和島-近永間の鉄道促進に全力を尽くすこととしました。

Eriko

 確かに山間部に線路を敷設するとなると、かなりの数のトンネル工事が必要ですよね。

Teacher

 その通りです。この結果、大正3〔1914〕年に宇和島-近永間の鉄道が開通しました。宇和島鉄道です。宇和島鉄道の歴史をまとめると、次のようになります。

  • 大正 3〔1914〕年 宇和島-近永間開通
  • 大正12〔1923〕年 近永-吉野間開通 ※ 吉野は現松野町
  • 昭和 8〔1933〕年 国鉄により買収され、予讃線に組み入れ

【参考】『愛媛県史 地誌Ⅱ(南予)』南予の鉄道建設

Eriko

 なるほど。南予では、まず宇和島-近永間のみ鉄道が走ることになったのか。井谷正命氏としては、日吉村に鉄道を敷設することができず、残念だったでしょうね。

Teacher

 井谷正命氏は諦めたわけではありません。その後も鉄道誘致運動を続け、大州から肱川沿いをさかのぼり、下鍵山を経由して近永へと続くルート案の実現に尽力しています。

Eriko

 やはり諦めなかったのですね。

Teacher

 その通りです。こうした中、国鉄が香川県から愛媛県へ延伸すると決定されたのです。

ウ 国鉄の西進

Teacher

 それでは、愛媛県における国鉄の西進についてその流れを確認していきましょう。

  • 明治39〔1906〕年 鉄道国有法 公布 … 讃岐鉄道が国有化され、瀬戸内海に沿った鉄道建設が進む。
  • 明治41〔1908〕年 内閣鉄道院 設立 … 初代総裁 後藤新平
後藤新平 ※ Wikipediaから引用〔パブリック・ドメイン〕
Teacher

 こうして国内の鉄道網整備が進む中、明治44〔1911〕年に「鉄道敷設に関する建議案」が帝国議会で可決されました。提出したのは泉村岩谷〔現鬼北町〕出身の衆議院議員渡邊修です。

渡邊修君像 ※ 泉公民館前にある
Eriko

 現鬼北町出身の政治家の方ですね。

Teacher

 この建議案が可決したことにより、次のことが決定されました。

多度津-松山間の鉄道敷設が可決し、翌年、多度津-川之江間が「第一期」線に昇格

Eriko

 「第一期」昇格!これは愛媛県での鉄道敷設が実現したということですね。

Teacher

 その通りです。これ以後も次々と「第一期」線に昇格する路線が続きました。

  • 「西条線」 川之江-伊予西条間〔大正4年〕
  • 「松山線」 伊予西条-今治-松山間〔大正7年〕
Eriko

 愛媛県における鉄道敷設がどんどん進んでいますね。南予の人々にも影響を与えたでしょう。

Teacher

 はい。井谷正命氏は立憲政友会に所属して大洲-下鍵山-近永間の鉄道誘致に奔走して成功し、このルート案は104号線と後に呼ばれるようになりました。

Eriko

 実現すれば、下鍵山がさらに発展することになりますね。

Teacher

 彼以外にも南予各地で鉄道誘致運動が展開され、各地の運動は政治闘争へと発展していきました。

エ 大正8年2月、四国鉄道循環線決議案審議〔衆議院〕

Teacher

 大正8〔1919〕年、衆議院において四国鉄道循環線に関する審議が行われました。各政党の建議案は以下の通りです。

  • 立憲政友会 … 四国循環鉄道建設に関する建議案 ※ 井谷正命氏所属
  • 憲 政 会 … 四国海岸循環鉄道建設に関する建議案
  • 立憲国民党 … 四国鉄道循環線敷設に関する建議案
Eriko

 鉄道を海岸に沿って敷設するという案もあったのですね。各政党が主張したルートはどのように異なるのですか?

Teacher

 地図上に表してみましょう。

四国鉄道循環線建議案によるルート ※ Google mapから作成
Eriko

 もしかしたら、三瓶町や明浜町にも鉄道が走っていたのかもしれないですね。審議の結果はどうだったのですか?

Teacher

 審議の結果、立憲政友会の案が決議され、大洲-下鍵山-近永間の鉄道敷設が決定したのです。

Eriko

 井谷正命氏の願いが叶えられたのですね。

Teacher

 ただし、この決議に反対する人々も多くいました。八幡浜・宇和の人々は地方一丸となって103号線敷設同盟会を結成し、政党を超越して立ち上がったのです。

Eriko

 本当に政治闘争ですね。

オ 政治闘争の果てに…

Teacher

 大正11〔1922〕年、鉄道敷設法が改正され、「愛媛県大洲附近ヨリ近永附近ニ至ル鉄道」が明記されるとともに、愛媛県における敷設予定線が次の通り定められました。

  • 103号線 … 八幡浜-卯之町・宮野下・宇和島-中村間及び宮野下-中村間
  • 104号線 … 大洲-近永間
Teacher

 そして同年、帝国議会が大洲-近永間及び近永-中村間のみの鉄道建設予算案を上程し、宇和島鉄道会社を買収します。

Eriko

 104号線敷設実現に向けてどんどん動きが加速していきますね。

Teacher

 ところが、思いがけない出来事が起こり、104号線敷設に暗雲が立ち込めます。

Eriko

 何が起こったのですか?

関東大震災

Teacher

 大正12〔1923〕年9月1日に発生した関東大震災が全てを変えてしまいました。

  • 国鉄104号線の設計書が焼失
  • 再度の設計及び着工には約1,200万円の巨費が必要
  • 軌間40哩中、20哩でトンネル及び鉄橋の建設が必要
Eriko

 これはどうしようもないですね。

Teacher

 井谷正命氏らは104号線敷設実現のためにさらに奔走しますが、最終的には103号線敷設が決定してしまいます。このことについて、地域の方は次のように話してくださいました。

政治闘争の果てに…

 現在、日吉支所住民センターがある所は、かつては国鉄バスの営業所でした。営業所設置までの経緯についてですが、これはもともとは井谷先生が奔走されていた、日吉村への鉄道誘致(大洲-近永間の鉄道104号線)に始まります。設計もできて予算も付いていたのですが、政変があって取りやめになり、今の予讃線が開通することになったのです。この政変とは、昭和4年(1929年)、立憲政友会から立憲民政党に与党が変わった時のことです(田中義一内閣から浜口雄幸内閣へ。井谷正命氏は立憲政友会員であった)。その時、鉄道誘致ができなかった代わりに、当時は『省営バス』と呼ばれていましたが、国鉄バスの開通に伴い、営業所が設置されることになったのです(省営バスの開通は昭和11年〔1936年〕3月1日のことで、近永-魚成橋間37.5kmを運行した)。

『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業11-鬼北町-』 ※ 下線は引用者による
Eriko

 残念ですね。

Teacher

 104号線については、昭和4〔1929〕年から8〔1933〕年にかけて行われた「鉄道敷設法に基づいて設置された諮問会議」を経て、バス路線として実現します。

Teacher

 井谷正命氏は昭和9〔1934〕年に亡くなりましたので、省営バスの営業開始は残念ながら井谷氏の死後のことになります。

Eriko

 井谷正命氏はどんな気持ちだったのだろう?

Teacher

 それは分かりません。しかし、明星が丘に建てられている井谷正命氏の歌碑に刻まれた歌を詠むと、彼がどのような思いで活動をしていたかが想起されます。

井谷正命先生之歌碑
Eriko

 何と刻まれているのですか?

吾こそは貧しくなるも吾が郷の栄えゆくこそ楽しかりける

Eriko

 地域発展のために尽力し続けた井谷正命氏の気持ちが表れていますね。

Teacher

 それでは最後に、これまで紹介した以外の井谷正命氏の業績を紹介して終わりにしましょう。

Eriko

 はい。ありがとうございました。

② その他の業績

【偉人の顕彰】

義農武左衛門碑〔大正15年建立〕
武左衛門翁及同志者碑〔大正8年製作〕※ 息子の井谷正吉氏が、昭和2年に宇和島湾から運搬して明星が丘に建立

【教育の振興】

『日吉村ふるさと写真集』掲載の写真に注釈を追加したもの
Teacher

 明星が丘には、井谷正命氏から直接教育を受けた地域の方々が建立した井谷正命先生頌徳碑も建てられています〔昭和30年建立〕。ぜひ下鍵山を訪れてくださいね。

井谷正命先生頌徳碑 ※ 左にある石碑は井谷正命先生之歌碑
頌徳碑の碑文

【終】

フォローお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です