昭和18年7月23日、それは起こった 〜重信川水害の記憶③〜
前回は、徳丸・中川原両地区の罹災状況についてお話ししました。今回は松前港に近い筒井地区の罹災状況について、地域の方々の証言をもとに再構成します。
【参考】昭和18年7月23日、それは起こった 〜重信川水害の記憶①〜
【参考】昭和18年7月23日、それは起こった 〜重信川水害の記憶②〜
JR北伊予駅北側の線路下の土壌を濁流が押し流し、海の方へ流れ出したのでしたね。
そうでしたね。
でも徳丸地区であんなに高低差があるなんて、全く知りませんでした。かなりの勢いで海の方へ向かって濁流が流れ込んだのでしょうね。
今回紹介する筒井地区は、東レ工場の東側にあたります。徳丸地区の堤防が決壊してから筒井地区へ濁流が押し寄せるまでどのくらい時間がかかったと思いますか?
徳丸地区の堤防が決壊したのが午前9時でした。だとすると、1時間くらいかかったのではないでしょうか?
では、地域の方の証言を確認してみましょう。
③ 旧岡田村・旧松前町の罹災状況⑴
ア 筒井地区で暮らしておられる方の記憶
濁流が押し寄せた時
筒井地区へ濁流が押し寄せてきたのは、午前9時30分から10時ころのことでした。当時、私の家の東方は全て水田で、田植えをしたばかりだったので、浮草が家の中へどんどん流れ込んで来ました。私はそれをほうきで家の外へ掃き出す作業を続けましたが、その間にも水位がどんどん上がっていった様子を今でもよく憶えています。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12 -松前町-』 ※ 太字は引用者による
思っていたより濁流が筒井地区に到達するのが早い気がします。
地域の方のお話にあるように、筒井地区の集落の東側は水田で、現在とは風景が全く異なっています。昭和22〔1947〕年に米軍が撮影した航空写真で確認しましょう。
本当ですね。筒井地区の集落は大洲街道沿いに形成されていますが、この全域に濁流が押し寄せたなんて信じられません。
そうですね。ちなみに、現在の筒井地区の風景は下の地図の通りです。
かつて水田であったところにも住居が広がっていますね。
さて、午前9時30分から10時までの間に筒井地区へ濁流が押し寄せました。その後の様子を確認しましょう。
濁流が押し寄せた時Ⅱ
午前10時から10時30分ころ、『ドーン、ドーン。』と危険を知らせる太鼓の音が遠くから聞こえてきました。後で分かりましたが、昌農内の方が叩かれたとのことでした。太鼓を叩いた場所については明確には分かりませんが、現在岡田中学校がある敷地の一角が岡田村役場だったので、おそらくそこで叩いていたのではないかと思います。そこから筒井地区までは2kmくらい距離が離れていますが、当時は水田が広がっていて建物も多くなかったので、こちらの方にも聞こえてきたのです。
そのころには玄関口から家の中へ濁流が流れ込んで来るようになったので、祖母からバケツを受けて水を外へ出し続けましたが、みるみるうちに家の中の水位が上がっていきました。その作業を始めて30分くらい経ったころ、小学校に登校していた2人の兄と姉1人が帰宅しました。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12 -松前町-』 ※ 太字及び下線は引用者による
「みるみるうちに家の中の水位が上がっていった」というのは想像するだけで恐ろしいですね。
「家の中の水位が上がる」ということは、道路は完全に冠水してしまっているということです。その後、この方は家族とともに避難します。どのような方法を用いたのでしょうか?
船で避難
午後12時から13時ころになると、壁に立て掛けていた畳の床下から4割分くらいの高さまで水位が上がって来ていましたし、筒井地区の道路は完全に冠水してしまっていました。避難しようと外を見た時、近所の土建業の方が櫓を漕ぎながら船で避難しているのが見えたので、お願いして一緒に船に乗せてもらいました。私が避難したのは、私の家から南へ少し進んだ所にあった2階建ての精米所です。2階の窓から外を見ると、周囲の状況がよく分かりました。冠水した道路には避難する人々を乗せた船が何艘も移動していましたし、金蓮寺の近くにも船が何艘か見えました。また、高床で冠水していなかった善正寺の本堂へ避難した人もいました。この床の高さは今も変わっていません。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12 -松前町-』 ※ 太字及び下線は引用者による
船を所有している方がいてよかったですね。船がなければ大変なことになったはず。
「急死に一生を得る」というのは、まさにこのような状況のことを言うのでしょう。善正寺本堂の写真を撮影しましたので、見てください。
地面から床までの高さが2m程あるのではないでしょうか?
そうですね。ちなみに、善正寺は筒井地区の大洲街道沿いにある寺院です。
善正寺の東方に金蓮寺もありますね。当時、この間を避難する人々を載せた船が何艘もあったなんて、全く信じられない!
それだけ濁流が襲来した範囲が広く、かつ水位も高かったということです。そして、中川原地区で起きたことが、筒井地区にも起きてしまいます。
中川原地区で起きたことって何だったろう?
地域の方の証言を見てみましょう。
堤防となった東レのコンクリート壁
濁流は私の自宅からさらに西へと流れて行きましたが、東レ自体がやや高地にあることと、コンクリート製の壁でせき止められ、やや土地が低くなっている東側に溜まってぐるぐると回り、広範囲が冠水してしまいました。押し寄せる濁流の勢いで水溜まりが現在の義農公園辺りにまで拡大し、午後2時ころにはとうとう夫婦橋を押し流してしまいました。それ以降は濁流が海へと流れて行ったので、それまで溜まっていた水が一気に引いて行ったのです。夫婦橋が決壊しなければ、私たちは命を失っていたかもしれません。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12 -松前町-』 ※ 太字及び下線は引用者による
なるほど。中川原地区では国鉄の線路だったけれど、筒井地区は東レのコンクリート壁が濁流を堰き止めてしまったのか。東レから義農公園辺りまでが水溜りになってしまったというのは凄いですね。避難できたとしてもこれでは生きた心地がしなかったでしょうね。
本当にそう思います。もし夫婦橋が決壊しなかったらと考えると、恐ろしい。
当時の夫婦橋付近の様子について、地域の方は次のように話してくださいました。
当時の夫婦橋付近の様子
このころの夫婦橋は小さな『招き(樋門)』が新立側と本村側にそれぞれ一つずつ付いているだけだったので、排出される水の量はわずかでした。当時は圃場整備などがあまり行われておらず、雨が降っても半日くらい経たなければ夫婦橋の方へは流れて来なかったので、それで良かったのです。決壊後、しばらくの間は京都嵐山の渡月橋のような木橋でしたが、昭和27年(1952年)に県が現在のコンクリート製の橋に造り変えました。夫婦橋が決壊した後、濁流によって運ばれた土砂と国近川が運んで来た土砂とが松前港に大量に堆積して港が埋まってしまったので、戦後しばらくまで県が頻繁に浚渫(海底・河床などの土砂を、水深を深くするために掘削すること)をしに来ていました。また、水が引いた後、現在の義農神社付近は土地がおげて(削られて)しまってものすごい状態でしたが、義農作兵衛のお墓は流れずに残りました。お墓の側にある大きなマツの木が守ってくれたのだと思います。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12 -松前町-』 ※ 太字及び下線は引用者による
これは奇跡ですね。偶然かもしれないけれど、お墓が流されなくてよかった。何かホッとしました。
そうですね、私も同じです。なお、今回お話を伺った方は、現在も筒井地区で暮らしておられます。
そうですか。助かって本当によかった。
実は、もうお一人からもお話を伺っています。この方は昭和18〔1943〕年当時、北予中学校〔現松山北高等学校〕に通う学生でした。この方の体験については、次回紹介しますね。
はい。
【つづく…】