愛媛鉄道の軌道跡をたどろう④ 五郎駅周辺に残る愛媛鉄道の遺構
いよいよ今回から、現存する愛媛鉄道の遺構を確認していきます。まずは、現存する遺構の位置を地図上に記しましたので、確認しましょう。
10か所も遺構が残されているのですか?本当によく残っていましたね!
前回お話しした通り、昭和8〔1933〕年に国鉄に買収された後、1067mmへの改軌工事が行われたのですが、隧道などは工費がかかり過ぎるという理由で廃棄されました。しかし、手付かずのままで残されたのです。
【参考】愛媛鉄道の軌道跡をたどろう③ 愛媛鉄道の開業は周辺地域にどのような影響を与えたか?
そうか、それで100年以上前に造られたものが残っているのですね。
そうです。これらの遺構に名称を付けると、次のようになります。
隧道、橋脚、築堤…。どんな姿で残されているんだろう?
ほぼ築造した頃のままですよ。今回は、五郎駅付近に残されている遺構1と2を紹介します。
① 改軌後の内子線の廃線跡
五郎駅の南側に、内子線の廃線跡が道路に転用されて残されています。地図で確認しましょう。
五郎駅の南側?もしかしてこの道路のことですか?
その通りです。よく分かりましたね。
緩やかなカーブが見えたので、もしかしたら廃線跡ではないかと思いました。でも先生、以前確認した愛媛鉄道の路線図では、ここは愛媛鉄道時代には線路ではなかったと思うのですが。
確かに若宮分岐点から西へ内子駅まで線路が敷設されています。しかし、この廃線跡が愛媛鉄道時代の路線になったかもしれない事実があるのです。『愛媛県史』の記述を引用しましょう。
内子支線敷設の経緯
第二期工事の大洲~内子間は、竣工期限の申請を三度も更新して、ようやく大正七年(一九一八)四月一三日、内子側より着工した。当初の計画は五郎駅から分岐し、矢落川右岸、山麓沿いに通す北線の計画であったが、窮乏財源の上、早期実現を目指し、同年一二月急きょ、後背湿地で水害の危険の予想される左岸の南線(住民の希望とは反対側)に決着した。本線と内子支線の分岐は、大正八年五月、会社側と住民の話し合いにより、五郎駅分岐を若宮分岐点に変更して敷設することになった。
『愛媛県史 社会経済3 商工』 ※ 下線及び太字は引用者による
なるほど。財政上の理由で変更されたのですね。やはり当初から財政的に苦しかったのですね。でもどのような経緯でここが路線になったのですか?
はい。昭和8〔1933〕年の国鉄による買収のあと、翌年から1067mmへの改軌工事が行われましたが、その際に五郎駅分岐に変更されたのです。昭和22〔1947〕年に米軍が撮影した航空写真を見ると、路線がはっきりと分かりますよ。
本当だ。はっきりと分かりますね。先生、現在はもとの若宮分岐点での分岐に戻されていますが、その経緯について教えてください。
はい。それは昭和61〔1986〕年のことです。この年の3月3日、予算本線の向井原-内子間、新谷-伊予大洲間が開業し、内子線が短絡ルートに組み込まれます。その際、五郎-新谷間が廃止されたのです。
それで、現在は道路に転用されているのですね。
「日刊スポーツ」ホームページの『ニッカン鉄道倶楽部』に、道路に転用された廃線跡の写真があります。見てみましょう。
【参考】『ニッカン鉄道倶楽部』100年の歴史刻む内子線、廃線区間の痕跡を求めて
本当だ。
次の写真は、五郎駅構内に残る五郎駅分岐時代の内子線のホームです。
今でも残されているなんて、奇跡ですね。内子町内に残る廃線跡も見てみたいです。
内子町内の廃線跡については、私自身調査が進んでいません。実際に現地を訪れたあと、教材化しますね。
はい。楽しみです。
では次に、JR予讃線の矢落川橋梁付近に残されている愛媛鉄道時代の橋脚の基盤跡を見てみましょう。
② 愛媛鉄道時代の橋脚の基盤跡
現地で撮影した写真を見てください。
これが橋脚の基盤ですか。矢落川橋梁からどの方角にあるのですか?
すぐ北側です。別の角度からも撮影していますので、どうぞ見てください。
ということは、愛媛鉄道時代は現在よりもやや北側を鉄道が走っていたということになりますね。
そうなります。今回はここまでにしましょう。遺構3「山高川に架かる煉瓦アーチ橋」については、過去の当ブログを見てください。次回は、遺構4〜6を確認します。
【参考】愛媛鉄道の軌道跡をたどろう① 大洲市春賀にある煉瓦造りのアーチ橋
はい。楽しみです。
【つづく…】