別子銅山の近代化を図ろう! 〜住友初代総理事 広瀬宰平と別子鉱山鉄道〜
Erikoさん、前回は別子銅山の坑内水の中和とそれを海に排出するための坑水路について紹介しました。今回は別子鉱山鉄道の歴史をまとめます。
【参考】愛媛の『これ』は何だろう?〜新居浜市中を走るコンクリート製の建造物〜
坑水路は別子鉱山鉄道の線路に沿ってつくられたのでしたね。
そうです。昭和23〔1948〕年に米軍が撮影した航空写真に別子鉱山鉄道の路線を記入しましたので見てみましょう。
先生、この鉄道敷設を実現したのはどなたですか?
住友の初代総理事に就任した広瀬宰平という人です。まずは彼のことから話を始めましょう。
はい。
① 住友初代総理事 広瀬宰平の生涯
広瀬宰平は、文政11〔1828〕年に北脇理三郎の次男として近江国野洲郡八夫村(現滋賀県野洲郡中主町)で生まれました。
滋賀県と別子銅山が結びつきません。彼はどのようにして別子銅山と関わるようになったのですか?
はい。天保5〔1834〕年に別子銅山勤務の叔父、北脇治右衛門の養子となったのがきっかけでした。2年後、彼が9歳の時に叔父に従って別子銅山に登ります。さらにその2年後、就業年齢に達した広瀬宰平は住友家に奉公するようになったのです。
ということは、幼い頃から別子銅山で働いていたということですね。
そうです。自ら坑内で働いた経験から、銅山のことを熟知していたのです。
先生、彼はいつから広瀬宰平と名乗ったのですか?
住友家第10代当主・友視の推挙によって広瀬義右衛門の養子となってからです。彼が28歳の時ですから、文久2〔1862〕年のことですね。
ちょうど幕末の動乱期ですね。
そして、彼が別子銅山の支配人となったのが慶応元〔1865〕年、38歳の時でした。しかし、江戸幕府の滅亡によって天領〔幕府の直轄領〕であった別子銅山は危機的状況を迎えます。新政府による接収です。
接収⁉︎広瀬宰平はこの危機にどう立ち向かったのですか?
それについては、『愛媛県史』の記述に頼りましょう。
新政府 対 広瀬宰平
同年〔慶応3年〕12月、王政復古の大号令が下され、翌慶応4年には徳川慶喜追討の勅令により、川田小一郎指揮の土佐軍が伊予に入り、宇摩・新居・桑村・越智4郡の天領49か村を支配下においた。そのため別子銅山も没収される危機に直面したが、広瀬宰平が隊長の川田(のち日本銀行総裁)と川之江で会談し、住友による家業継続を訴えた。これは明治元年(1868)新政府によって正式に認可され、土佐藩によって行われていた別子銅山の封印が解除された。また、かつてのような低価格での幕府による産銅の一括買い上げはなくなったが、銅山の経営は困難を極めた。この時にも別子からの撤退が検討されたが、住友は事業を別子銅山のみに絞って難局打開につとめた。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』 ※ 太字及び下線は引用者による
広瀬宰平と川田小一郎との間にどんな交渉が行われたのですか?
広瀬宰平は、川田小一郎に次のように主張したそうですよ。
銅山経営を経験のない者に任せると、利益なく国家の大損失になる。
これに対し、川田小一郎は次のように判断し、明治新政府に報告します。
操業現場の混乱は国にとって得策ならず。
住友が幕府から得た稼業権をこのまま認めるべき。
ああよかった。もしここで接収されていたら、その後の歴史が変わってしまっていたかもしれませんね。
二人が会談を行ったのは、川之江代官所であると伝えられています。代官所跡の碑が天理教川之江大教会の南側にありますよ。
では、明治維新後の広瀬宰平の生涯を年表風にまとめます。
- 明治 7〔1874〕年 別子銅山の近代化のため、フランス人技師ラロックを雇用
- 明治10〔1877〕年 住友家初代総理事となる。現新居浜市久保田に広瀬邸を建設〔迎賓館として使用〕
- 明治12〔1879〕年 五代友厚らと大阪商法会議所を創設
- 明治13〔1880〕年 大量輸送を図るため、牛車道を建設
- 明治16〔1883〕年 惣開に洋式製錬所を建設
- 明治19〔1886〕年 第一通洞(トンネル)を完成させる
- 明治20〔1887〕年 現新居浜市上原に広瀬邸を移築
- 明治26〔1893〕年 日本で最初の鉱山鉄道である上部鉄道と下部鉄道を敷設
- 明治27〔1894〕年 住友総理事を引退し、新居郡中萩村に隠居
- 明治28〔1895〕年 旧別子に日本最初の東延斜坑を完成させる
- 大正 3〔1914〕年 永眠
別子銅山の発展と近代化に尽くした生涯ですね。鉱山鉄道を敷設しようとしたきっかけは何だったのでしょうか?
アメリカでの視察旅行です。それでは、別子鉱山鉄道の歴史についてまとめていきましょう。
② 別子鉱山鉄道の歴史
明治22〔1889〕年5月、広瀬宰平は還暦を祝して欧米諸国を巡遊します。その際、北米ロッキー山脈のコロラドセントラル鉱山で断崖絶壁を縫うように走る山岳鉄道を見たことが、別子鉱山鉄道実用化の契機となりました。
なるほど。
帰国後すぐ、広瀬宰平氏は山岳鉄道敷設に向けて行動を開始します。別子鉱山鉄道に関する『愛媛県史』の記述を引用します。
別子鉱山鉄道
明治22年(1889)に欧米を視察した広瀬宰平は、製鉄と鉱山鉄道の必要性を痛感し、翌23年から直ちに鉄道建設に着手したが、急崖な山腹での工事に困難を極めた。石ヶ山丈-角石原間5,532mの上部鉄道は、25年5月に着工し、翌26年12月に竣工した。それより先に、惣開-打除(端出場)間1万461mの下部鉄道は、24年5月に着工し、26年5月に竣工していた。別子鉄道とはこの上部・下部鉄道の総称である。殊に上部鉄道は、標高1,100mの角石原から835mの石ヶ山丈間5,532mの日本最初の山岳軽便鉄道であった。こうして、元禄4年から明治13年までの189年間の人力運搬、明治13年から同26年までの13年間の牛車運搬時代から、近代文明の最先端をゆく鉄道輸送時代に突入した。これにより、その後の別子銅山は飛躍的発展をとげるのである。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』 ※ 太字及び下線は引用者による
人や家畜の時代から鉄道へと輸送方法が転換され、大量輸送が実現したのですね。
その通りです。日本最初の山岳鉄道を完成させた広瀬宰平は、その時の喜びを次の漢詩に表しました。
与他産業不相同〔他産業と相同じからず〕
無尽蔵中採赤銅〔無尽蔵中赤銅を採る〕
欲問国家経済事〔問はんと欲す国家経済の事〕
半天鉄路一条通〔半天鉄路一条通ず〕
広瀬宰平氏の意気込みと自信が感じられる漢詩ですね。
別子銅山運搬の変遷と題した図が『愛媛県史』にあります。引用しましょう。
先生、『愛媛県史』に「その後の別子銅山は飛躍的発展をとげる」との記述があります。鉄道敷設は当時の新居浜にどのような影響を与えたのでしょうか?
もちろん多くの影響を与えました。それでは最後にそれをまとめて終わりにしましょう。
③ 当時の地域社会に与えた影響
別子鉱山鉄道敷設は、経済的にも文化的にも大きな影響を与えました。
新居浜は住友の企業城下町だと聞いたことがあります。まさにその状況が生まれていったのですね。
はい。主要坑道の下部移行と運搬ルート変更によって上部鉄道は明治44〔1911〕年に廃止されますが、大正14〔1925〕年の星越選鉱場の完成以降は鉄道沿線の居住者や各方面から鉱山鉄道利用を希望する声が高まり、昭和4〔1929〕年からは地方鉄道としての運用も開始されたのです。
なるほど。それで星越選鉱場周辺には社宅がつくられたのですね。
星越選鉱場周辺だけではありませんよ。他にも社宅がありました。昭和22年米軍撮影の航空写真で確認しましょう。
本当だ。
別子銅山記念館が昭和53〔1978〕年にまとめた『別子鉱山鉄道略史』に、地方鉄道としての別子鉱山鉄道についての記述があります。引用しましょう。
地方鉄道としての別子鉱山鉄道
当時は、未だバスは普及するまでに至っていないから、別子鉄道は日常の足となり、「豆汽車」と呼ばれて親しまれた。昭和14〜15年頃までは、5月の山神祭角力大会、11月の親友会運動会当日には、臨時列車を増発したが、乗客が多すぎて客車が不足し、貨車を水洗いして運ぶという状況であった。
『別子鉱山鉄道略史』
人々にとって大事な交通手段となったことが分かります。
戦後、バスなどの公共交通機関が発達したことから、別子鉱山鉄道は昭和30〔1955〕年に一般旅客営業を廃止し、鉱山専用鉄道に戻りました。そして昭和48〔1973〕年の別子銅山閉山を見届けた後、昭和52〔1977〕年に廃止されたのです。
明治26年竣工ですから、84年間の続いたことになりますね。
その通りです。別子鉱山鉄道の路線跡は遊歩道に転用され、現在は市民の憩いと運動の場として利用され続けています。もし新居浜に行くことがありましたら、路線跡をぜひ歩いてみてください。
はい。そうしてみます。