自然災害伝承碑を訪ねて…⑩ 昭和62年10月17日に発生した風水害の記憶・西条市千町
皆さんは上の地図記号を見たことがありますか?この地図記号は「自然災害伝承碑」といい、国土地理院が令和元年6月19日から地理院地図上に公開を始めたものです。「自然災害伝承碑」とは何か、国土地理院ホームページから引用します。
「自然災害伝承碑」について
◆ 過去に発生した津波、洪水、火山災害、土砂災害等の自然災害に係る事柄(災害の様相や被害の状況など)が記載されている石碑やモニュメント。※ これまでは、概念的に記念碑(ある出来事や人の功績などを記念して建てられた碑やモニュメント)に含まれていました。
◆ これら自然災害伝承碑は、当時の被災状況を伝えると同時に、当時の被災場所に建てられていることが多く、それらを地図を通じて伝えることは、地域住民による防災意識の向上に役立つものと期待されます。
『国土地理院ホームページ』より
この「自然災害伝承碑」の記載は国土地理院が全国の自治体と連携して進めていますが、各自治体からの申請があったものに限られています。そのため、記載されている数はほんの一部に過ぎません。そこで、取材中に撮影した自然災害伝承碑と罹災状況について、当ブログにて紹介していきたいと思います。
今回は、昭和62年10月に発生した風水害の記憶を伝える自然災害伝承碑を紹介します。
昭和62年10月発生、風水害の記憶 〜西条市千町探訪〜
西条市千町といえば、「千町の棚田」で有名なところです。まず最初に棚田の場所を地図で確認しましょう。
国道194号を北に進むと西条市の中心街に至ります。棚田は大部分が緑に覆われてしまっていますが、棚田の存在が確かに確認できますね。ちなみに、『加茂の荒獅子ホームページ』にはかつての棚田の風景を写した写真が多数掲載されています。
「昭和37年・冬」と注釈が付けられた写真で見る棚田の風景は物凄いですね。今回は、千町の棚田の歴史を紹介することから始め、風水害の罹災状況、被害を多くした理由と続けて解説していきます。それでは、始めましょう!
Part.1 千町の棚田 〜その歴史〜
千町の棚田は、天正の陣〔1585年〕で土佐から支援にきた伊藤近江守祐晴が千町に住み着き、代々開拓した段々式の石積みの水田です。「千町といわれるまで耕して 谷の向こうに人家みゆ」という歌が地名の由来と言われています。『西条誌 巻六』には、「村名を千町と言うは田地広く、千町もありと言う義にて名付けたるよしに聞き及び候」と記されています。実際に訪れてみましたので、写真で現在の風景を確認しましょう。
【参考】Wikipedia 天正の陣
水田は標高150mから500m程度にまで及び、その壮観は能登の千枚田に比肩するほどだと言われていたそうです。そして、棚田のなかに農家が点在して見事な散村集落を形成しています。集落の分布状況を地図で確認しましょう。
地図右下の+を押して拡大すると、集落の分布状況が確認できます。こうして見てみると、「棚田の中に農家が点在」という表現が本当に正しいことが分かりますね。このような山腹急斜面になぜ集落が形成できたのでしょうか。『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』には次のように記載されています。
千町の集落立地
千町の集落形態が山村であるのは、飲料水の取得に不便をしなかったことによる。千町は地すべり地であり、棚田に利用されている山腹斜面の至るところに湧水があり、住民はそれを飲料水として利用してきた。この地の住民は農地を開拓するにあたり、湧水のあるところに住居をかまえ、その周辺を自己の耕地として開墾し、経営してきたものと思われる。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』 ※ 下線及び赤字は引用者による。
しかし、近年の過疎化・高齢化による後継者不足によって徐々に休耕田が増え、かつて60haで2,500枚以上の棚田があったと言われていましたが、現在では耕作農家も数軒に減り、耕作面積も激減してしまっています。また、かつては多くの児童が集った千町小学校も昭和48年に閉校しています。
非常に簡単ではありますが、以上が千町の棚田の歴史です。それでは次に、昭和62年10月の被害状況を見ていきましょう。
Part.2 昭和62年10月の被害状況
千町地区に風水害被害をもたらしたのは、昭和62年台風第19号〔国際名:ケリー〕です。この年は9月まで台風の上陸が一切無く、この台風が昭和62年唯一の日本上陸台風だったそうです。この台風の進路と特徴をまとめます。
- 10月11日 フィリピンの東海上で発生し、発達しながら北上
- 10月15日 台風の勢力が最盛期を迎える
- 10月17日 午前4時30分頃、高知県室戸市付近に上陸。四国を縦断して瀬戸内海へ
- 〔のち、近畿地方を横断して日本海へ〕
- 〃 夕方頃、青森県と秋田県の県境付近に再々上陸
- 〃 午後9時頃、温帯低気圧に変わる
台風19号は秋雨前線を刺激したため、西日本から北日本にかけて大雨と暴風の被害を出し、浸水被害が全国で約25,000棟に及んだそうです。『西条市防災対策研究協議会 市民作業部会』の資料によると、西条市の被害は次の通りです。
◉ 最大風速(西条消防署) 22.0m/秒〔16日18時10分・NE〕
◉ 降雨量 西条消防署313.0mm、東之川472.0mm、
藤之石458.0mm、丹原254mm、成就社336mm
◉ 1時間最大雨量(藤之石)〔17日0時〜1時 63.0mm〕
◉ 被害状況 床上浸水19棟、床下浸水1,119棟、厚生施設関係3箇所
農作物1,593ha、農業施設関係156箇所、
林業施設関係30箇所、土木施設関係102箇所
◉ 被害額 西条 1,389,944千円、東予 476,359千円、
丹原 607,721千円、 小松 718,825千円
赤色の太字にした藤之石地区は、千町の棚田の中で最も標高の高いところに位置します。千町の棚田及び集落は山腹急斜面に形成されているのですから、大雨による大量の濁流が下流へ流れ込んだことでしょう。愛媛新聞の記事〔令和3年9月1日朝刊〕には次のように記載されています。
千町地区では、集中豪雨により山林や田畑が崩壊流失する大災害となった。
Part.3 甚大な被害をもたらしたもの
集中豪雨、山腹急斜面、地すべり地、湧水など、これまでの解説の中で出てきた語句から甚大な被害をもたらす要因は推測できます。ただし、千町地区における自然災害について考えるには、もう一つの知識が必要です。それは『ギチ』です。愛媛県教育委員会が平成8年度に刊行した『愛媛の景観』に地域の方の証言が掲載されています。引用しましょう。
地滑りと闘う
千町地区のすぐ下を、国道194号に沿って谷川(加茂川の支流の河川名)が流れています。この谷川の川岸周辺は『ギチ』という白い土で構成されています。この土は、雨が降ったら非常に柔らかくなって、川へ流れ込んでいくんです。千町地区の傾斜地を下で支えている土が流れてなくなっていくわけですから、地滑りが起こるのです。約50年間で30cmから40cm、ひどいところは1mくらい滑ります。このギチが、川沿いに散らばって分布しているからやっかいなんです。川岸一帯がギチならば、千町地区全体が一斉に地滑りします。しかし、散らばっていますから、例えば、1枚の田んぼの両端が下がって、中央の部分が下がらずにそのまま残るということが起こります。こうなると、1枚の田んぼの中で段差ができ、水をためた時の深さが部分ごとに違って、苗がうまく育ちません。
『愛媛の景観』 ※ 下線、太字及び赤色は引用者による
田んぼの段差を直すためには、次の作業が必要だそうです。
- 田んぼの表土を全部取り除き、ギシかけに寄せる。
- 段差を水平にならして地固めをする。
- 寄せてあった表土を元に戻す。
地域の方のお話によると、「現在の労賃でこの作業をやるとしたら、田んぼを買うのと同じくらいの費用がかかるほど大変な作業」だそうです。ですので、今はここまできちんと直すことはしないとのこと。ただし、昭和20年くらいまでは、15年から20年に1回は必ずこの作業をしていたそうです。
終わりに
この自然災害伝承碑は、山林・田地の崩壊流失という激甚な被害からの復興を今に伝えるものです。しかし、過疎と高齢化が進んだ現在、同じような復興が可能かどうかは分かりません。千町の棚田がいつまでも存続することを願うばかりです。
今回は以上です。ここまでご覧いただき、ありがとうございました。内容についてご意見いただけるとありがたいです。