国鉄新居浜駅連絡線の記憶 〜歩行者・自転車専用道に変貌した路線跡をたどろう!〜
今回は、昭和17〔1942〕年から昭和42〔1967〕年まで利用されていた国鉄新居浜駅連絡線について紹介します。
別子鉱山鉄道と関係がありますか?。
もちろんです。昭和23〔1948〕年に米軍が撮影した新居浜市の航空写真からその路線を読み取りましょう。
国鉄新居浜駅連絡線という名称ですから、新居浜駅と別子銅山の関連工場との間を鉄道が走っていたはず。とすると、新居浜駅の場所が分かれば路線を読み取ることができますね。
Erikoさん、さすがです。では、現在の地図で新居浜駅の場所を示しましょう。上の航空写真と比較してください。
上の航空写真でいえば、写真右下に見える円形の部分付近が国鉄新居浜駅ですね。円形の部分まで広い道路が続いているのですぐに分かりました。
その通りです。では上の航空写真中に国鉄新居浜駅連絡線の路線を書き込んでみてくれませんか?
はい。これでどうでしょうか。下部鉄道の路線も記入しました。
【参考】別子銅山の近代化を図ろう!〜住友初代総理事 広瀬宰平と別子鉱山鉄道〜
Erikoさん、正解です。よく分かりましたね。
下部鉄道の路線を知っていたので、すぐに見つけることができました。それに、Google mapでは緑色の線が引かれています。
よく見ていますね。それでは、国鉄新居浜駅連絡線について学習しましょうか。
Contents
- 国鉄新居浜駅連絡線の歴史
- 国鉄新居浜駅連絡線の記憶 〜利用した方々の証言より〜
- 路線跡の現況
① 国鉄新居浜駅連絡線の歴史
国鉄新居浜駅連絡線は、昭和元〔1926〕年、別子鉱業所支配人であった鷲尾勘解治氏が地域開発事業の一つとして発案したものです。
鷲尾勘解治氏の地域開発事業とはどのようなものだったのでしょうか?
はい。昭和のはじめ、別子銅山は鉱脈の枯渇によって閉山の危機を迎えます。こうした状況の中、鷲尾勘解治氏は銅山に代わる事業を興すべきと考え、新居浜の都市計画に着手しました。主な内容は次の通りです。
鷲尾勘解治氏による都市計画構想
- 新居浜港の築港と海岸部の埋立て
- 都市計画道路の完成
- 住友機会の創設、住友化学の拡張など鉱山に代わる産業振興策
- 別子鉱山鉄道の地方鉄道化
- 社宅の建設
【参考】住友グループ広報委員会ホームページ 「別子銅山ノ末期ニ於テ之ニ代ルベキ事業ヲ興ス」
現在の新居浜市の基盤をつくった人だといえますね。
その通りです。上記の都市計画が進む中、国鉄新居浜駅連絡線敷設は昭和4〔1929〕年の申請後、同7〔1932〕年に工事認可されました。しかし、鉄道の利用度と建設資金との関係で着工が見合わされ、進展しない状態が長く続いたのです。
営業開始が昭和17〔1942〕年ということでしたよね。どのような経緯で工事が始まったのですか?
はい。昭和12〔1937〕年から始まった日中戦争以来、戦局の拡大につれて別子銅山はもとより、新居浜の各工場も増産を強いられることになりました。こうした背景から、国鉄沿線からの通勤者の確保と原材料や製品等の大量輸送の必要から、昭和16〔1941〕年に着工に踏み切ったのです。
そういう経緯だったのですね。
昭和17〔1942〕年11月から営業が開始されると、予想以上の利用者で賑わいを見せたため、昭和19〔1944〕年には星越駅から滝の宮信号所間が複線化されました。別子銅山記念館が昭和53〔1978〕年に発行した『別子鉱山鉄道略史』には、利用者の賑わいについて次のように記しています。
利用者による賑わい
朝夕のラッシュ時には、乗務員・駅員の制止を振り切って客車の屋根にまで乗って通勤するほどで、星越踏切にあった陸橋で頭を打って転落する乗客も出た。
『別子鉱山鉄道略史』
今では考えられない!
そうですね。では、実際に国鉄新居浜駅連絡線を利用した方のお話を紹介しましょう。
② 国鉄新居浜駅連絡線の記憶 〜利用した方々の証言より〜
ア 昭和25年生まれの方の記憶
ホームの位置
私は、連絡線のホームのことをよく憶えています。新居浜駅の西側(現在のフジ新居浜駅前店辺り)にあり、そこから磯浦方面に向かって通勤の方が利用していました。客車は2、3両くらいでした。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-』 ※ 下線は引用者による
連絡線のホームは新居浜駅と隣り合わせだったのですね。
そのようです。平成27〔2015〕年に新居浜市が開催した「まちづくりフォーラム」の際に古写真がいくつか展示されていましたが、その中に連絡線のホームへの案内板を撮影したものがありましたよ。
昭和26〔1951〕年撮影か。新居浜駅開通三十周年という文字にも時代を感じますね。
新居浜駅の開通は大正10〔1921〕年のことです。さて、次の方のご記憶を紹介します。
イ 昭和7年生まれの方の記憶
国鉄から連絡線へ
国鉄を降りて住友へ通勤する人の中には、連絡線に乗り換えて、工場へ行く人もいました。列車は、先頭が機関車で、客車と貨物車とを連結して運転していたことを私は憶えています。通勤の時間帯によっては客車だけということもあったのではないかと思いますし、客車は『マッチ箱』のような形をしていたと思います。それが住友の客車の特徴で、住鉄といえば『マッチ箱』と言っていました。貨車はエンジ色で、肥料などを積み、新居浜駅で国鉄の貨車に積み替えていました。戦争中は資材運搬が中心で、昔は住友が直接石炭を扱っていて、肥料の出荷もしていました。連絡線のホーム付近に広場になっている所があって、肥料がたくさん置かれていました。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-』 ※ 下線は引用者による
国鉄から連絡線に乗り換えて通勤した方は、必ず上の写真にある案内板を見たでしょうね。
次は、肥料の積み込みについてのご記憶です。
ウ 昭和25年生まれの方の記憶
肥料を貨物車へ
私は、貨物車に肥料を載せるときには、『かます』の中に肥料を入れて、手で担いで載せていたことを憶えています。駅前には人が大勢いたので、日通(日本通運)などは人海戦術で、昼休みでも多くの人が側道に入って肥料を担いでいました。それだけ、駅前には駅などの仕事に従事する人が多かったのです。『かます』は、1袋が50、60kgはあったと思いますが、皆、道具を使わず、自分で担いでいました。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-』
次は、娯楽のために連絡線を利用した方のご記憶です。
エ 昭和13年生まれの方の記憶
肥料を貨物車へ
普段、『下(しも)』へ行くときにも『上(かみ)』へ行くときにも連絡線を利用することはあまりなかったのですが、私が子どものころには、現在の住友病院の所がグラウンドになっていて、プロ野球が来たときには連絡線を利用して観に行ったことを憶えています。星越の選鉱場の山の上から真下にプロ野球の試合が見えたので、選鉱場の山からタダで観ていたと思います。星越駅で列車から降りて、今も残っている西側の橋を渡って山へ入り、観戦場所へ行っていました。それ以外には、秋になったら清滝へ紅葉を見に行ったり、笹ヶ峰に上がったりするときには連絡線に乗って一旦星越駅まで行き、そこから住友鉱山鉄道に乗り換えて、南の端出場まで行っていました。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-』 ※ 下線及び太字は引用者による
先生、『下(しも)』とか『上(かみ)』とはどういうことですか?
『下(しも)』というのは海岸近くの昭和通りを中心とした繁華街、『上(かみ)』というのは金毘羅街道沿いに栄えた喜光地商店街付近をいい、これらは新居浜駅の開業前から既に栄えていました。新居浜駅付近で生活をされている方は、それぞれの繁華街をそのように呼んだのです。
なるほど、『下(しも)』や『上(かみ)』という呼び方は新居浜市の歴史からきているのですね。それにしても新居浜市でプロ野球の試合が行われていたとは知りませんでした。
Erikoさんが連絡線のルートを引いてくれた昭和23年撮影の航空写真をよく見てください。星越選鉱場の北側にグラウンドだと思われる円形の土地があるでしょう。そこは現在、住友別子病院がある場所です。証言の中にある星越駅の西側の橋というのは、今も残る太鼓橋のことだと思われます。
現在は立入禁止になってしまっていますね。
星越選鉱場は平成21〔2009〕年に操業を停止し、翌年撤去解体工事が行われました。それ以降ずっとこの状態が続いています。山の上から観るプロ野球はなかなか楽しかったでしょうね。
オ 昭和2年生まれの方の記憶
滝の宮信号所の記憶
私は亀岡村(現今治市菊間町)で育ちました。実家のある亀岡村に帰るときには国鉄を利用していました。若いころは磯浦で漁をしていたので、菊間町を出発して新居浜駅に着いたら、連絡線に乗り換えて星越駅まで行き、トランクを担いで家まで歩いて帰っていました。実家は農家だったので、両親がトランク一杯に食べ物を詰めてくれて、とても重たかったことを憶えています。
連絡線に一番最初に乗った時のことで憶えているのは、『上』の方から来る鉄道(住友鉱山鉄道)と交わる滝の宮信号所付近では、ポイントの切り替えを行わなければならなかったということです。現在は電動ですが、そのときはわざわざ列車を止めて、運転士さんが降りて手動でポイントを切り替え、再び出発させて星越駅まで行っていました。ポイントがあった場所はとても広く、連絡線が廃止された後に西の土居の自治会がその土地を購入して、自治会館を建てています。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅷ -新居浜市-』 ※ 下線及び太字は引用者による
最後の方は、滝の宮信号所についてのご記憶です。実際に現地に行って撮影してみましたので、見てください。
道路の左側に坑水路がありますね。右の二本の道路はどちらも線路の跡地ですか?
はい。左側の道が別子鉱山鉄道下部鉄道、右側の道が国鉄新居浜駅連絡線の跡地です。廃止後、どちらも遊歩道として整備されました。奥に見える赤い屋根の建物が西の土居自治会館で、滝の宮信号所があった場所です。
ここからさらに星越駅まで続いたのですね。
そうです。それでは最後に、戦後の鉄道廃止に向けての動きをまとめましょう。
バスなどの交通整備網が整備されたことが連絡線廃止の理由なのですね。
残念ながらその通りです。ただ、新居浜市の素晴らしいところは、廃止後でに遊歩道整備という形でその足跡を残したことです。これは下部鉄道においても同様です。
だからこそ、営業当時の姿を現代の私たちが思い描くことができるのですね。
はい。講義の最後に、連絡線跡地の現況をまとめたスライドショーを鑑賞しましょう。新居浜駅から星越駅までの様子を22枚の写真で綴っています。
ありがとうございます。機会があれば現地を訪れてみますね。