愛媛鉄道の軌道跡をたどろう⑤ 春賀-八多喜町間に残る愛媛鉄道の遺構
今回は、大洲市春賀から大洲市八多喜町の間に残されている愛媛鉄道の遺構を確認して行きましょう。
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この区間は築堤、橋脚や隧道など、多くの種類の遺構が残されているのでしたね。
そうです。もう一度遺構の名称を確認しましょう。
③の山高川に架かる煉瓦アーチ橋は既に確認しましたから、今回は④〜⑥の遺構ですね。
はい。春賀駅から伊予白滝駅までの区間は、現在の予讃線の路線とは異なっています。当時はどこを汽車が走っていたと思いますか?
先生、以前紹介していただいた『愛媛県史』の路線図を見せてください。
どうぞ。
愛媛鉄道の路線は、春賀駅を出たところで現在の予讃線の路線よりも東側を走っていますね。だとすれば、このルートが愛媛鉄道時代の路線だと思います。
ご名答!Takashi君、さすがです。
緩やかなカーブに注目して、あとはトンネルの位置を当てはめました。
それでは、愛媛鉄道の遺構を一つ一つ確認して行きましょう。
④ 和田隧道跡〔春賀トンネル〕
愛媛鉄道時代、春賀駅を出発した愛媛鉄道の汽車は和田集落の方へ向かって走っていました。おそらく下の写真の辺りが現在の予讃線と愛媛鉄道の路線との分岐点だと思われます。
愛媛鉄道の記者は、右側の道路に沿って進んでいたのですね。
そうです。そして、和田隧道を抜けて八多喜駅へ向かったのです。
愛媛鉄道は軌間762mmのはずですが、かなり大きいトンネルですね。
昭和62〔1987〕年までは改軌工事後の1,067mmの隧道が残されていたのですが、この年、自動車が2台通行できる現在の形に拡幅されたのです。
春賀トンネル データ
- 起工 昭和61〔1986〕年8月31日
- 竣工 昭和62〔1987〕年7月31日
- 幅 6.0m+1.5m
- 延長 145m
そうですか。当時の姿を見ることはできないのですね。
そうです。現在は、市道春賀河内線及び春賀トンネルという名称に変更されています。
⑤ 旧八多喜駅跡、橋脚・築堤
まずは旧八多喜駅跡です。現在の八多喜駅よりも東側にありました。
材木置き場になっていますね。
この場所に駅舎があって、黒色の車が駐車しているところが廃線跡です。この先には愛媛鉄道時代の遺構がたくさん残されています。まずはGoogle mapの航空写真でこの付近を見て見ましょう。愛媛鉄道時代の遺構がすぐに分かります。
この地図はどのように見ればいいですか?
赤色のポイントは旧八多喜駅跡です。愛媛鉄道の路線をイメージしながらこの地図を見てください。何か気付きませんか?
春賀トンネルを抜けて真っ直ぐ進んだとすると…。あっ!水本酒店の上側が廃線跡ではありませんか?
よく見付けました!これは愛媛鉄道時代の築堤です。清永川を渡るために築堤し、橋脚をつくったのです。それらが全て残されていますよ。写真で確認しましょう。
みかんが栽培されていますね。でもこの上を汽車が走ったのか!
写真右側に写っているのが清永川です。橋脚も昔のまま残されていますよ。
これは旧八多喜駅側の橋脚です。反対側も残されていますよ。
石積みと煉瓦積みと、それぞれ特徴がありますね。
この橋脚を越えて築堤上を走った汽車は、八多喜隧道へ向かいました。
⑥ 八多喜隧道
下の写真は、八多喜隧道の大洲側坑口です。
先程の春賀トンネルとは違って、愛媛鉄道時代の面影が感じられますね。
そうですね。しかし、数年前に補強工事が行われたので、内部は全く変わってしまいました。
でも先生、国鉄の買収後に廃棄されたわけですから、ここは軌間762mmのままですよね。
その通りです。補強工事前の八多喜隧道の姿については、他の方のブログで見てくださいね。
【参考①】『隧道探訪』ホームページ 八多喜隧道
【参考②】お気楽アルプ日記vol.2:八多喜隧道
【参考③】ガチンコでプポタリングッ!? 南予遺産ライド 八多喜隧道
かつては内部も煉瓦積みで、美しい意匠ですね。
そうですね。次回は大洲市米津に残された遺構について確認します。
はい。楽しみです。
【つづく…】