愛媛鉄道の軌道跡をたどろう③ 愛媛鉄道の開業は周辺地域にどのような影響を与えたか?
前回は、大正7〔1918〕年の大洲-長浜間及び大正9〔1920〕年の大洲-内子間開業に至る経緯をまとめました。今回は、愛媛鉄道の開業が周辺地域に与えた影響について取り上げます。
【参考】愛媛鉄道の軌道跡をたどろう② 度重なる計画変更、そして開業へ
開業に漕ぎ着けるまで本当に紆余曲折でしたね。愛媛鉄道の開業は、地域にどんな影響を与えたんだろう?
Takashi君、上の写真を見てください。これは末永家住宅に展示されている写真を撮影したもので、「愛媛鉄道長浜駅」の当時の様子がよく分かります。
【参考】「いよ観ネット」ホームページ 末永家住宅〔百帖浜屋敷〕
「愛媛鉄道長浜駅に集められた木材」という説明が加えられていますね。
「集められた木材」というのが大きなヒントになります。長浜はどのように発展したと思いますか?
長浜は肱川の河口部にありますよね。ということは、木材だけでなくさまざまな物資が長浜に集められ、搬出されたと考えられます。やはり海運業で栄えたのではないですか?
ご名答。しかし、それだけではありません。肱川は豊かな水量をたたえ、四国の瀬戸内側では唯一の可航河川としての条件を整えていましたので、明治末期から大正にかけての道路の開通までは、上流の奥地から河口の長浜を結ぶ唯一の交通路として、生活物資や農林産物を運ぶ川舟(帆掛け舟)や木材運搬の筏が往来し、流域の人々の生活を支えてきたのです。つまり、長浜は水運により栄えたといえます。
なるほど。
今回は、愛媛鉄道開業前後の変化について、大洲市長浜を中心に確認していきます。
Contents
- 肱川の木材の流通と長浜の発展
- 愛媛鉄道開業後の肱川流域と流通
- 愛媛鉄道の終焉
① 肱川の木材の流通と長浜の発展
ア 大洲藩主加藤貞泰とその時代
先程、長浜は水運により栄えたと言いました。この始まりについて、地域の方は次のように話されています。
長浜、発展の始まり
港の繁栄に画期的な影響を及ぼしたのは、元和3年(1617年)米子から伊予国大洲へ城主6万石に転封された加藤貞泰であった。
『河川流域の生活文化』 ※ 太字は引用者による
加藤貞泰という人物はどんな人なのでしょうか?
大洲藩は、明治2〔1869〕年の版籍奉還まで加藤氏が統治しました。加藤貞泰はその初代にあたる人物です。
港の繁栄に画期的な影響を及ぼしたということは、肱川の河口部にあるという長浜の特徴に注目していたということですね。
はい。加藤貞泰が大洲に来るまで、肱川河口部には村が形成されず、突出した州先に葦が生い茂り人家もなかったそうです。しかし彼は、この地を大洲城下の外港として建設しようと考えます。こうして長浜に大洲藩の御船奉行と御船手組が置かれるとともに、江湖〔えご〕と呼んでいる肱川河口の右岸の入江を藩船の停泊港としたのです。
藩船が停泊した場所にしてはかなり小さな港ですね。
実は長浜中学校の敷地も、もとは江湖の港だったのですよ。昭和22〔1947〕年に米軍が撮影した航空写真を見ると、よく分かります。
本当だ。この写真で見ると、江湖の港の規模の大きさが分かりますね。
加藤貞泰は、長浜港を発展させるために次々と政策を行いました。列挙してみましょう。
- 初代御船奉行に市橋新右衛門重長を任命し、禄200石を与え、長浜浦一円を治めさせた。
- 海上交通の精神的なよりどころとして、元和5(1619)年に沖浦から往吉の社を招き、長浜に鎮座させた。
以後、藩主加藤家歴代の経営と町年寄らの努力によって、船奉行所、船番所、米蔵などの藩の施設をはじめ、一般商家が長浜に建ち並びました。
商家が建ち並んだということは、人口も次第に増加したのですね。
はい。寛文7(1667)年には、長浜の人口は1,000人余りになったと伝えられています。
えっ、たった50年の間にですか?
そうです。だからこそ地域の方が「港の繁栄に画期的な影響を及ぼした」と話されたのです。
イ 水運のまち、長浜の繁栄
以後、肱川が人々に与えた最大の恵みである舟運は昭和初期まで続き、さまざまな物資が肱川を往来しました。愛媛県教育委員会が平成19〔2007〕年に編纂した『えひめ、人とモノの流れ』に、物資についての記述があります。引用しましょう。
肱川を往来した物資
上流の坂石や鹿野川からは、カシ、シイの用木や木炭などの林産物が運ばれ、中流の大洲盆地からは穀物、野菜、繭等の農産物が河口の長浜へ積み出された。長浜からの上りは、肥料・塩・酒・醤油・砂糖などの生活雑貨が川上の村々まで運ばれたという。
『えひめ、人とモノの流れ』
肱川のかなり上流の地域からも物資の往来があったのですね。
そうです。木材については明治時代から需要が急増して、筏流しによる木材運搬が盛んになっていきました。これにともない、肱川河口の長浜港は、三重県の新宮、秋田県の能代とともに木材の一大集散地となったのです。最盛期は明治後期から昭和の初期にかけてで、毎日平均30流れほども下ったといわれていますよ。
【参考】愛媛県歴史文化博物館 学芸員ブログ『研究室から』木材の集散地、長浜
【参考】愛媛県歴史文化博物館 学芸員ブログ『研究室から』肱川の筏流し
だから長浜駅に木材が集められていたのですね。
その通りです。しかし、明治36(1903)年大洲-長浜間及び大正13〔1924〕年大洲-鹿野川間の県道開通や陸上交通機関の登場が状況を変えていきます。もちろん、愛媛鉄道の開業もその中に含まれています。
② 愛媛鉄道開業後の肱川流域と流通
ア 大洲-長浜間、初運転の日
さて、愛媛鉄道の大洲-長浜間が大正7〔1918〕年に開業したことは先に述べた通りですが、この軌間762mmの鉄道が水運に代わる役割を果たすようになります。『愛媛県史 社会経済3 商工』に、鉄道初運転の様子を記した『愛媛新報』の記事が引用されています。紹介しましょう。
愛媛鉄道、初運転の日
愛媛鉄道会社に於ては、午前八時二十五分五郎の車庫に於て、満車飾を施せる楽隊附の一列車を作り、先ず長浜町に来たりて高須社長以下同社重役及来賓一同を便乗せしめ、同九時二十五分長浜町を発して大洲駅に向いたるが、沿道の老若男女は、何れも今日を晴れと着飾りて列車の見物に出掛け、中には自転車を以て競争を試むる青年もあり、沿線の各地は十時廿分大洲駅に着し、更に十二時廿分多数の来賓を乗せて発車、午後一時十七分長浜町に着し、開通式を行ひたる後、午後四時及八時の二回、長浜町を発して大洲駅に向ひたり。
『愛媛県史 社会経済3 商工』 ※ 下線は引用者による
自転車で汽車と競争を試みた青年がいたという話は面白いですね。
開業当初の大洲-長浜間のデータを箇条書きにまとめましたので見てください。
- 停車場 :長浜町-上老松〔現伊予出石駅〕-賀屋〔現伊予白滝駅〕-八多喜-春賀-五郎-大洲の七駅
- 運 賃 :40銭〔1日6往復運行〕
- 所要時間:52分
- 車 両 :アメリカ製13tの機関車3両と客車5両、貨車10両
長浜から大洲まで52分ですか。現在の電車ならどれくらいかかるのですか?
電車なら37分かかります。ちなみに、自動車なら22分です。
10分弱違うだけですか。それでも当時の人々にとって、汽車は早く感じられたでしょうね。
そうだと思います。自動車がまだ珍しかった時代、鉄道が物資運搬に利用されました。運搬された物資を挙げてみましょう。
- 長浜駅から :バラス〔砕石〕、石炭、肥料など
- 内子・大洲から:材木、炭、坑木、竹材、米など
材木も運搬物資に入っていますね。
ただし、筏での運搬がなくなったわけではありません。地域の方のお話では、長浜に集まる木材の80%以上は肱川による流送で、10%近くは便利な所で馬車・トラック・汽車を利用していたそうです。
ということは、鉄道の開通が大きな影響を与えたわけではないとも言えるのか…。
そうとも言えます。ちなみに筏での木材の運搬は昭和28〔1953〕年までは続いたそうです。それでは次に、愛媛鉄道の大洲駅と長浜町駅について見ていきましょう。
イ 愛媛鉄道大洲駅
愛媛鉄道の大洲駅は、JR大洲駅の近くにある「フレッシュバリュー大洲店」の場所にありました。
現在の線路よりも東側を鉄道が走っていたということですね。
そうです。ただし、現在までの都市開発により、旧大洲駅周辺には愛媛鉄道の遺構は残されていません。廃線隧道ホームページに、愛媛鉄道大洲駅を撮影した写真が印刷された絵ハガキが掲載されていますので、見てください。
先生、駅舎の向きから考えると、現在の国道56号が愛媛鉄道の線路跡のように見えますね。
おそらくそうだと思います。大正9〔1920〕年に大洲-内子間が開業してからは、伊予若宮信号場付近が大洲-長浜間との分岐点になりました。
ウ 愛媛鉄道長浜町駅
愛媛鉄道の長浜町駅は、物資の搬出・搬入などの関係から、長浜港の岸壁近くにありました。現在の岸本石油店付近が駅舎があった場所です。
長浜港の岸壁近くということですが、岸本石油とはどれくらい離れているのですか?
現在の地図を見てください。
かなり近いですね。
そうですね。先述の末永家住宅には、昭和11〔1936〕年8月に矢野寫眞館が作成した当時の長浜の地図も展示されています。この地図中に「古愛鉄駅」という名称で長浜町駅が記載されているので、こちらも見てください。
本当に岸壁の近くにあったことがよく分かりますね。昭和11〔1936〕年当時は、国鉄長浜駅から古愛鉄駅近くまで複線が延びていたんですね。これは発見だなあ。
こうした発見ができるのも古地図を見る楽しみです。
先生、愛媛鉄道は昭和8〔1933〕年に国鉄に買収されたということですが、なぜたった15年しか続かなかったのでしょうか?
それでは今回の最後に、その理由を説明しましょう。
③ 愛媛鉄道の終焉
端的にいえば経営不振です。第一次世界大戦終結後から始まる経済恐慌も経営状態の悪化に拍車をかけました。『愛媛県史』の記述を引用しましょう。
経営不振の背景
営業収入は年を経て増加していったが、業績はかんばしくなく営業係数も悪化の傾向をたどり、政府から建設費に対して年五分の補助金を開通後一〇年間支給され、また県費による補助金を受け、どうにか営業継続が可能な状態であった。このように愛媛鉄道は喜多郡の重要な交通機関でありながら、沿線に大都市がない関係上、旅客・貨物の移動が少なく、昭和初期の不況下、経営的に苦境に追い込まれていた。
『愛媛県史 社会経済3 商工』 ※ 下線及び太字は引用者による
営業収入は増加したけど業績はかんばしくない?どういうことでしょうか?
藤本雅之氏の論文『愛媛県の鉄道の変遷〔愛媛県総合科学博物館研究報告、1997〕』において、氏は次のように記しています。
業績低迷の背景
大正10年頃は、営業成績も良好であったが、輸送量の伸び悩みや豪雨などにより昭和5年以降はあまり収益も上がらなかった。
『愛媛県の鉄道の変遷〔愛媛県総合科学博物館研究報告、1997〕』 ※ 太字は引用者による
経済恐慌による産業の停滞と豪雨がその背景にあるのか。これは厳しいですね。
結局、宇和島鉄道と同様に国鉄予讃線の延伸計画に組み入れられ、昭和8〔1933〕年10月1日に120万6950円で国鉄に買収されることになったのです。
残念ですね。でも現在の予讃線として利用されているのですよね。
国鉄予讃線編入後も762mm軌間のまましばらく営業を続けましたが、昭和10〔1935〕年10月に1,067mm軌間に路線を改軌しました。その際、トンネルについては工費がかかりすぎるという理由で廃棄され、それに伴って線路の付け替えが行われました。現在でも愛媛鉄道の遺構が残されているのはこのような理由によります。
現在確認できるところがあるのですか?見てみたいです。
そうですか。それでは次回、愛媛鉄道の遺構について、写真とともにその場所を確認しましょう。
よろしくお願いします。楽しみです。
【つづく…】