昭和18年7月23日、それは起こった 〜重信川水害の記憶②〜
前回は、松前町の広範囲に水害の被害が及んだことについて、昭和18年7月に襲来した台風と重信川の特徴から考察しました。今回からは、水害が発生した日に起きたことを地域の方からの証言をもとに再構成していきます。
【参考】昭和18年7月23日、それは起こった 〜重信川水害の記憶①〜
はい。7月22日から24日にかけて台風が停滞したことが被害を大きくしたのでしたね。
そうでしたね。松山測候所では540㎜の雨量が観測され、これは松山地方平均雨量の5か月分に当たりました。
そして、重信川出合水位観測所の記録では、7月23日の重信川の水位が6.20mにもなりました。
この日、一番最初に重信川の堤防が決壊したのは、松前町の最東部に位置する徳丸地区でした。その位置を地図で確認しておきましょう。
松山中央高校の対岸に当たりますね。
最初に堤防が決壊したのは、ちょうど中央高校の対岸に当たるところです。それでは、当日の様子を確認しましょう。
② 徳丸地区の罹災状況
さて、昭和18〔1943〕年7月の洪水時、最初に堤防が決壊した辺りには、沖組と呼ばれる家が10軒ほど集まった小さな集落があります。
重信川の堤防のすぐ側ですね。
そうです。お話を伺った方は、重信川の堤防付近で現在も生活をされています。この方が、当日のことを次のように回想してくださいました。
堤防決壊直前の状況
現在は改修工事によって土手を高くし、道幅も自動車が通れるくらいの広さになっていますが、昔の重信川は今よりも河床が高く、堤防は低くて自転車1台が通れるくらいの幅しかなく、川から少し離れた所にある町道を行き来していました。町道と川との間には畑が広がっていたことを私はよく憶えています。堤防が決壊した場所は私の家の前の道路を重信川の方へ進んで突き当たった所で、川の対岸には現在中央高校(愛媛県立松山中央高等学校)があります。その辺りには徳丸地区へ水を引くための水路があり、そこへ大量の水が流れ込むことによって堤防を決壊させたのです。
あの日のことは今でも忘れられません。堤防が決壊したのは朝9時ころ、私の母親が、『危ないので、御飯を食べておかないといけない。』と言って準備をし、お米がちょうど炊きあがった時でした。その直前に私の父親が、『(堤防が)切れるけん、はよ逃げるぞ。』と家の外で大きな声で叫んでいるのが聞こえたので、米びつを竹で編んだ籠に入れ、それを高い所に吊ってから弟と一緒に家を飛び出しましたが、その瞬間私の後ろにいた弟がすっといなくなりました。振り返ると、地面に空いた大きな穴の中に弟が落ち込んでしまっていました。これは地下水の量が急激に増えたときに起きる現象で、地下水の水位が上昇した分、地盤が沈下してしまうのです。さらに、周囲の至る所で水が吹き出していました。その時、近所の方が運よく通りかかり、弟を穴から引き上げてくれましたが、もし来てくれていなかったら、弟は命を失っていたかもしれません。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町-』 ※ 太字及び下線は引用者による
重信川の堤防付近の様子は今と違っていたのですね。
水害からの復旧作業中ではありますが、昭和22〔1947〕年に米軍が撮影した徳丸地区付近の航空写真があります。見てみましょう。
地域の方が話されていた、「町道と川との間にある畑」という意味がよく分かりました。先生、「水路へ大量の水が流れ込むことによって堤防を決壊させた」とありますが、それはどういうことでしょうか?
地域の方は次のように話してくださいました。
堤防が決壊するとは
昔の人は、「堤防が切れるというのは、前から切れてくるのではない。地下を流れてきた水が裏に回るから切れる。」とよく言っていました。つまり、水の勢いで堤防が内側(河川側)から押されて決壊するのではなく、地下を流れて来た大量の水が堤防の地盤を弱くするために決壊するのです。こうした水のことを、「裏水」と言います。この裏水が出ているときには、杭を打って土のうを積み上げようと思っても杭がすぐに浮き上がってしまって、どうしようもありません。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町-』 ※ 太字及び下線は引用者による
【参考】平成30年7月豪雨愛媛大学災害調査団第3回定例会見「河川堤防被害調査(肱川・重信川)」
なるほど。だから大きな穴が空いてしまうのですね。
かつては堤防決壊を防ぐ方法として、河川の堤防沿いにマツの木が植えられていたそうですよ。
今はほとんど見られませんね。どのようにして堤防決壊を防いでいたのですか?
地域の方のお話を引用しましょう。
堤防沿いに植えられたマツの木の利用法
これには「切り付け」というきちんとした意味があり、洪水から堤防決壊を防ぐための一つの方法です。以前はマツの木だけでなく、堤防の弱い部分の近くには杭が打たれていました。雨などで水の勢いが増してきたとき、マツの木を切って丸太にしてロープで縛り、ロープの一端を杭にくくりつけて川に流すのです。そうすると、流されたマツの木が堤防の弱い部分に到達して、結果的に堤防を決壊から守ってくれます。これは、昔から受け継がれてきた生活の知恵です。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町-』 ※ 太字及び下線は引用者による
なるほど。そんな利用の仕方をしていたのですね。
はい。しかし、この時にはマツの木を伐ることもできず、とうとう堤防が決壊してしまいます。決壊直後の様子を地域の方は次のように話してくださいました。
堤防が決壊して
堤防が決壊した後、濁流は私の家の方へ押し寄せ、さらに中川原地区の方へ向かってどんどん流れて行き、省線(現JR)の線路がある所から南へと向きを変えて行きました。それはまるで、線路が堤防になったようでした。さらに、濁流の水圧によって重信川の流域に点々とあった直径1mくらいの大きなマツの木が根から抉られ、私の家の東側にある水田の所にできた大きな池の中を回るように流れてから、近くの家の所で止まるのを見たことをよく憶えています。この時の水の高さは私の頭に迫るくらいになっていましたし、避難する時に起こした畳の上に置いていた籠の中の鳥が戻った時には死んでいたので、おそらく1m50cmほどにはなっていたと思います。
その後、濁流が西の方へ流れていくとともに私の家付近の水位がどんどん下がり、瀬(川の支流)になっていきました。以前、中川原地区の方から、「中川原橋を通ったら、重信川にアリが這いよった。」と聞いたことがあります。これは中川原橋付近から下流側には水が流れていなかったことを意味しています。昔の人は、「足立重信が重信川の流れを変える前はこの辺り(堤防の決壊場所付近)から南西の方へ流れていた。北川原や中川原という地名があることから推測できる。」とよく言っていました。このことから考えると、濁流はもとの重信川の流路を流れていったと考えることができると思います。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町-』 ※ 太字及び下線は引用者による
1m50cm!私なら水没してしまいそう。本当に怖い経験をされたのですね。
この方は高忍日賣神社の西にある集会所〔現在は駐車場〕に避難して、休止に一生を得たそうです。
ああ、本当によかったですね。
本当にそう思います。堤防決壊箇所を含め、現況写真を撮影してきましたので見てください。
今はのどかな風景だけど、当時は濁流が押し寄せたのですね。
濁流は中川原地区をも飲み込み、国鉄の線路付近で堰き止められて大きな湖のようになったそうです。『松前町誌』には、中川原地区の罹災状況についての記載があります。引用しましょう。
堤防が決壊して
中川原の部落内の道は、腰から上まで水があって通れないため西へまわり、鉄道線路を通って北伊予小学校へ避難しました。
途中、大間への道の所、国木泉の所など数か所が決壊して枕木がブラブラになっていたので、這って渡りました。牛も泳いでついて来ました。
3日ほどで水が引いたと思いますが、スイカや米俵がたくさん流れて来ていました。
『松前町誌』 ※ 太字及び下線は引用者による
線路を這って渡るというのは危険極まりないですね。
そうですね。濁流が西方へ流れていったことについて、地域の方は徳丸地区の地形を踏まえ、次のように話してくださいました。
被害を大きくする勾配
徳丸地区は勾配が割合きつく、西の方へ進むにつれてかなり低くなっているので、洪水が起こったときには濁流や土砂が勢いよく西へ流れて行き、被害を大きくします。当時は土塀がかなりたくさんありましたが、濁流の勢いで全て流されてしまいました。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町-』 ※ 太字及は引用者による
この辺りを通ったことがりますが、勾配があることを感じたことはないけど…。
「スーパー地形」というアプリを用いて、徳丸・中川原地区の断面図を作成しました。結構勾配があって驚きますよ。
本当だ!10m弱も高低差がある!
だから被害が大きくなってしまうし、水害が広範囲に及んでしまうのです。こうして、喫茶「木輪」西方の線路の土壌を濁流が押し流し、とうとう海の方へと濁流が流れていってしまったのです。
さらに被害が拡大したのですね。
その通りです。次回は筒井地区の罹災状況について確認しましょう。最後に喫茶「木輪」付近の現況写真を見て終わりにしましょう。
はい。ありがとうございました。
〔つづく…〕