昭和18年7月23日、それは起こった 〜重信川水害の記憶①〜
Erikoさん、今回は写真の石碑にまつわる地域の歴史をお話しします。この石碑に刻まれた文字を読んでみてください。
「記念碑」は読めますが、上の文字は読めません。何と刻まれているのですか?
「水害復興記念碑」と読み、松前町中川原にある素鵞神社に建てられています。この石碑は昭和18〔1943〕年と同20〔1945〕年に起こった水害の記憶を今に伝えてくれているのです。
なるほど。先生、台座の石の高さが違いますが、これには何か意味があるのですか?
はい。昭和18年の重信川氾濫の際の濁流の水位を表しています。
ということは、人間の腰辺りまでの高さにまで及んだということですね。
そうです。昭和18〔1943〕年7月、起こった重信川の氾濫は、現在の松前町の大半に大きな被害を与えました。この時に発生した水害の範囲を現在の地図に当てはめてみましたので、よく見てください。
えっ、こんなに広範囲に被害が及んだのですか?
その通りです。重信川は歴史上何度も氾濫を繰り返してきましたが、昭和18〔1943〕年の台風による被害が最も大きいものだったと言われています。今回は、地域の方々からお伺いしたお話をもとに、昭和18年水害の記憶を5回に分けて紹介します。
Contents
- なぜ広範囲に被害が及んだか? -重信川の特徴から考える-
- 徳丸地区の罹災状況
- 旧岡田村・旧松前町の罹災状況⑴ 筒井地区で暮らしておられる方の記憶
- 旧岡田村・旧松前町の罹災状況⑵ 新立地区で暮らしておられる方の記憶
- 水害からの復旧
① なぜ広範囲に被害が及んだか? -重信川の特徴から考える-
ア 台風の特徴
まず最初に、昭和18〔1943〕年7月に発生した台風についてふれておきたいと思います。「ふるさと愛媛学」調査研究報告書に記載がありますので引用します。
昭和18年7月発生「台風4309号」
特に、昭和18年(1943年)7月の台風に伴う大水害は観測史上最大の被害をもたらした。土佐沖より北上した台風の進行速度は極めて遅く、停滞したため、21日から24日に至る4日間豪雨が続き、松山地方の年平均雨量の5か月分に相当する540mmの雨量となった。さらに23日朝には重信川出合水位観測所で水位6.20mを示し、午前9時には北伊予村(現松前町)徳丸地先の左岸堤防が決壊、続いて7か所の堤防が決壊し、耕地の流失、埋没約1,730ha、浸水家屋約12,500戸の大被害となった。その他、道路、鉄道等に及ぼした被害も莫大なものであった。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12 -松前町-』 ※ 下線及び太字は引用者による
台風の停滞が被害を大きくしてしまったのですね。水位6.20mというのは凄い!平成29年9月の大雨の時は、出合水位観測所で水位5.65mを示していたと思います。
そう。平成29年の大雨の時よりも約0.5m水位が高かったことになりますね。
先生、5m以上の所は他と色が違いますが、どうしてこうなっているのですか?
それは、平成29年の大雨の時の重信川の水位を表しています。この写真は、水位が下がったあとに撮影したものです。
そうすると、昭和18年7月の際の水位6.20mというのはどういう状況だったのでしょうか?想像するだけで怖い!
ここまで水位が上昇した原因としては、重信川自体の特徴も含めて考えなければいけません。次に、このことについて確認しましょう。
イ 重信川の特徴
重信川は、東温市、西条市、今治市の市境である東三方ヶ森(標高1,233m)を水源とし、東温市吉久で表川を合流後、向きを西に変えて拝志川、砥部川、内川及び石手川等を合わせつつ流れ、松前町塩屋で伊予灘に注いでいます。
そんなところが源流だとは初めて知りました。
重信川の概要を確認しておきましょう。
重信川の概要
- 流路延長 36 ㎞
- 流域面積 445 ㎢
- 流域内市町 松山市、西条市、東温市、松前町、砥部町
- 流域内人口 約23万人
- 支川数 74
支川数74!そんなにあるとは全く知りませんでした。
古くは伊予川と呼ばれた暴れ川で、流路が一定せず、豪雨のたびに氾濫を繰り返していたと言われています。
伊予川?重信川という名称になったのはなぜなのですか?
はい。慶長年間、加藤嘉明の命を受けた足立重信が河道改修を行い、ほぼ現在に近い形に整備されたことがよく知られています。
そうか!足立重信の功績から「重信川」と呼ばれるようになったのですね。
その通りです。足立重信のお墓は来迎寺墓地にありますよ。
今でも松山城を見据えているのですね。
足立重信による河道改修により重信川の河身が固定化され、その乱流と氾濫が著しく制圧されたことは道後平野発展の基礎となりましたが、残念ながら洪水被害がなくなることはありませんでした。
本当だ。頻繁に水害が発生していますね。
河道改修がなされたにもかかわらず、なぜ水害が起こってしまうのか。また、なぜ被害が広範囲に及んでしまうのか、その理由を考えてみましょう。
ウ なぜ広範囲に被害が及んでしまうのか?
Erikoさん、このことについて考えるために、もう一度昭和18年7月の罹災状況を確認しましょう。
こうしてみると、松山市側よりも松前町側の方が被害が大きいですね。
Erikoさん、いいところに気が付きました。それはなぜだと思いますか?
先ほど先生が、「重信川はかつて流路が一定せず、豪雨のたびに氾濫を繰り返していた」と話されました。被害が及んだ範囲は、かつて流路だったところじゃないでしょうか?
Erikoさん、さすがです。かつての重信川の流路について、多くの研究家が文献に記しています。『伊予史談』に掲載された文章の中から、伊予史談会の創設者である西園寺源透氏と地理学者である村上節太郎氏の考えを引用します。
西園寺源透氏の考え
伊予川はもと上流高井の里の南方河原部落より麻生・八倉の山根に沿うて流れ、出作・大溝等を経て松前の南方に至って海に注いだものである。しかし、沿岸の村落及び松前は年々水害をこうむるため現在の流路に付け替えられたものである。
『伊予史談 第五巻第四号』〔大正9(1920)年〕 ※ 太字は引用者による
「出作・大溝を経て」ということは、現在の流路よりも南側を流れていたということですね。
その通りです。「松前町の罹災状況」の地図に地名を当てはめてみましょう。
こうして当てはめてみると、かなり南の方を流れていた時代があったのですね。
そうですね。続いて、村上節太郎氏の考えです。
村上節太郎氏の考え
伊予川は河床が高い天井川であって、現在の八倉・出作・神崎・鶴吉・大溝・東古泉・松前に至る道路(県道八倉松前線)がその河床かまたは堤防であったと思う。川の下流は分流して、神崎あたりから安井・北黒田・南黒田の方へ流れたものとも考えられる。」
『伊予史談(4)』〔昭和14(1939)年〕 ※ 下線及び太字は引用者による
「八倉から松前に至る道路」は、かつて砥部焼を運んだ道と同じですか?
そうです。その道です。
【参考】「からつ」行商のまち松前② -陶磁器行商の歴史と変化-
かつての流路は今は陸地になってしまっているけど、地下を流れる水はかつての流路のままなのではないでしょうか?
その通りです。だからこそ、重信川が氾濫した時には松前町の方が被害が大きいのです。そしてもう一つ。重信川が典型的な荒廃型河川であることも被害が大きくなってしまう要因です。
荒廃型河川?
一般社団法人日本ダム協会ホームページに、「愛媛県主要河川の勾配」というタイトルの図がありますので見てください。
【参考】一般社団法人日本ダム協会ホームページ 「愛媛県の河川」
重信川は、他の河川と比べて河口からの距離がとても短いですね。
そして、ある程度高度があります。つまり、重信川は次のような特徴を持った河川だといえます。
流路延長が短く、河床勾配が急
なるほど。河床勾配が急だから急流となり、重信川本川と支川から大量の土砂が押し寄せ、堆積しやすいのですね。
その通りです。また、水源地帯の山地が崩壊性の地質からなることも大量の土砂が堆積する要因なのです。
そうか。それで普段は水が流れていないように見えるのか。
はい。このような特徴をもつ重信川が氾濫した時に何が起こったのかをこれから確認していきましょう。
はい。
【つづく…】