遍路道標探索の旅 Part.3 浄瑠璃寺〜八坂寺〜重信川を巡る

Teacher

 「遍路道標探索の旅」の第3弾です。今回は浄瑠璃寺をスタートし、八坂寺を経て重信川に至るまでの区間にある遍路道標を探索しました。探索ルートを図にまとめましたのでご覧ください。

遍路道標探索ルート〔国土地理院電子国土基本図から作成〕
Teacher

 探索ルートは緑色の線で示しています。この区間に建立されていた遍路道標はなんと17基!金毘羅道標と松山藩が街道に設置した里塚石も含めると、全部で19基になります。まず最初にスタート地点とした浄瑠璃寺の写真をご覧ください。

浄瑠璃寺
Teacher

 石段傍には、正岡子規の句碑が建てられていました。

永き日や 衛門三郎 浄るり寺

Teacher

 衛門三郎とは伊予を治めていた河野家の一族で、四国遍路の元祖といわれる人物です。今回巡った区間はその衛門三郎ゆかりの場所でもあります。今回も愛媛県教育委員会が平成13年度に刊行した『伊予の遍路道』の記述に従いながら、記事をまとめていきます。それではどうぞ!

1 浄瑠璃寺前に建つ遍路道標

Teacher

 この遍路道標は浄瑠璃寺の石段の向かい側に建てられていました。『伊予の遍路道』の記述を見てみましょう。

三坂峠から浄瑠璃寺へ

 久谷支所出口出張所から県道194号を700mほど行くと、遍路道は国道33号の塩ケ森から農業用の溜池を経て下ってくる農道と出合う十字路に至り、そこには浄瑠璃寺を案内する自然石の道標がある。この道標に従い、北に少し進むと三差路があり、県道からそれた右側の遍路道をしばらく行くと浄瑠璃寺前の小川に架かる小さな橋に達する。その橋の北西のたもとには、袖(そで)がついた手印の道標がある

※ 太字は引用者による

Teacher

 「へんろみち」という文字の上にある手印には確かに袖がありますね!久谷支所出口出張所〔現 松山市坂本公民館〕から浄瑠璃寺までのルートをGoogle Mapで確認しておきましょう。 

Teacher

 浄瑠璃寺は坂本公民館の北西方向にあります。地図上に浄瑠璃寺が表示されない場合は、地図を右下に少し動かしてみてくださいね。それでは遍路道標に刻まれた文字の内容をまとめます。

【浄瑠璃寺前に建つ遍路道標データ】

所在地
松山市浄瑠璃町
主な碑文
(手印)へんろみち/明治丁未秋 施主 温泉郡新浜村何某/(手印)
寸法
24×24×88
備考
浄瑠璃寺正面橋の左たもと

Teacher

 「丁未」は干支の一つで、「ひのとひつじ」と読みます。明治時代に「丁未」に当たるのは1907年しかありません。つまり、この遍路道標は温泉郡新浜村〔現在の松山市梅津寺町・高浜町辺り〕の方が明治40年に建立したことが読み取れます。

【参考①】Wikipedia 丁未

【参考②】Wikipedia 新浜村(愛媛県)

Teacher

 次の遍路道標は浄瑠璃寺境内にあります。『伊予の遍路道』の記述を見てみましょう。

浄瑠璃寺から西林寺へ

 境内には3基の道標がある。1基は石段を上がってすぐ右側にある武田徳右衛門の道標で、もとは石段左側の土塀のそばに立っていたが、平成13年の芸予地震で周辺が崩れたため現在地に移設されたという。2基目は、荏原城主平岡遠江守通倚の墓のそばに立つ「是より八坂寺へ五丁」と刻まれた小さな道標であり、これは近くの遍路道から移設されたものと思われる。この道標は地蔵の浮き彫りがあるので供養塔として祀(まつ)られたのかもしれない。さらに、もう1基が境内北側の出口にある簡素な自然石の道標で、手印は約1km先の四十七番八坂寺を案内している。

※ 太字は引用者による

Teacher

 これら三つの遍路道標の特徴について、一つ一つ確認していきましょう。

2 浄瑠璃寺の石段傍に建つ遍路道標

【浄瑠璃寺の石段傍に建つ遍路道標データ】

所在地
松山市浄瑠璃町
主な碑文
(梵字)(大師像)これより八坂寺迄 五丁/施主 当松山城南 山城屋幸左エ門(他1名)
世話人 越智郡阿さくら 徳右エ門
寸法
25×22×117
備考
浄瑠璃寺境内。石段を上がって右側

3 荏原城主の墓の側に建つ遍路道標

【荏原城主の墓の側に建つ遍路道標データ】

所在地
松山市浄瑠璃町
主な碑文
(地蔵像)/是より八坂寺へ 五丁/施主 渡部氏
寸法
33×20×62
備考
浄瑠璃寺境内。荏原城主の墓の横

Teacher

 『伊予の遍路道』に記載されている碑文を記しましたが、どこに文字があるのか分かりませんでした。ご存知の方はお知らせください。

4 境内北側出口付近に建つ遍路道標

境内北側出口付近に建つ遍路道標

【境内北側出口付近に建つ遍路道標データ】

所在地
松山市浄瑠璃町
主な碑文
(手印)へんろ道
寸法
20〜50×17〜23×74
備考
浄瑠璃寺境内。町集会所玄関前

Teacher

 浄瑠璃寺境内で三つの遍路道標を確認したのち、遍路道を通って八坂寺へ向かいました。探索ルートの地図を再度ご覧ください。

遍路道標探索ルート〔国土地理院電子国土基本図から作成〕

Teacher

 浄瑠璃寺から八坂寺へ続く遍路道沿いに建つ道標は2基。そして、八坂寺の参道に大きな常夜燈がありましたので、合わせてご紹介します。

5 浄瑠璃寺-八坂寺間の遍路道沿いに建つ遍路道標①

浄瑠璃寺-八坂寺間の遍路道沿いに建つ遍路道標①

Teacher

 この遍路道標について、『伊予の遍路道』は次のように記載しています。

浄瑠璃寺から西林寺へ

 境内出口から西に100mほど進むと、個人邸の南西角に細長い道標がある。以前、半分ぐらい埋もれていたものを、平成元年ころの道路拡張の際に建て直したという。

※ 個人名が記載されていたので、引用者が「個人邸」に変更した。

Teacher

 この遍路道標に刻まれた文字を確認しましょう。

【浄瑠璃寺-八坂寺間の遍路道沿いに建つ遍路道標①データ】

所在地
松山市浄瑠璃町
主な碑文
(手印)此方へん路道 世話人 大原大蔵(他1名)
 文政十二年丑年 渡部仕右ヱ門(他1名)
 三月吉日 大野鐡右ヱ門(他1名)
寸法
17×15×110
備考
個人邸南西角

Teacher

 なんと江戸時代に建立された遍路道標でした。この道標から八坂寺方面を見ると、下の写真のような風景が広がっていました。

八坂寺方向を臨む

Teacher

 この道標から北へ、曲がりくねった遍路道を進むと、道路右側の電信柱の側に遍路道標が建てられていました。

6 浄瑠璃寺-八坂寺間の遍路道沿いに建つ遍路道標②

Teacher

 この遍路道標について、『伊予の遍路道』は次のように記載しています。

浄瑠璃寺から西林寺へ

 現状では逆打ち巡拝の指示になることから、もとは筋向かいの角に立って八坂寺を案内していたものであろう。

【浄瑠璃寺-八坂寺間の遍路道沿いに建つ遍路道標②データ】

所在地
松山市浄瑠璃町
主な碑文
(大師像)右へんろ道/八坂 山内於蔵(他1名)/三原吉平
寸法
18×17×89
備考
個人邸南

Teacher

 この遍路道標からさらに北進すると、遍路道は八坂寺の参道と交わります。そこに大きな常夜燈がありました。

八坂寺参道沿いに建つ常夜燈

Teacher

 非常に立派な常夜燈です。八坂組の人々が建立したもので、「八」は八幡神社、「金」は金毘羅神社、「石」は石鎚神社に対するそれぞれの信仰を表しています。側面に「三月吉良日」とあるだけで建立年は常夜燈を見るだけでは分かりません。帰宅後、「旧坂本村の常夜燈」というブログに建立年が記載されていました。

【参考】旧坂本村の常夜燈と所在地 ホームページ

天保九(1838)年  文化六(1809)年

Teacher

 写真下の記述と表中の記述が異なっています。どちらが正しいのか、今後調べてみましょう。さて、いよいよ八坂寺に到着です。

八坂寺山門前にて撮影

Teacher

 山門の両脇にそれぞれ遍路道標が建てられていました。まず右側の遍路道標から紹介しましょう。

7 八坂寺山門傍に建つ常夜燈(右側)

【八坂寺山門傍に建つ遍路道標(右側)データ】

所在地
松山市浄瑠璃町
主な碑文
(梵字)(大師像)これより西林寺迄 三十五丁
 施主 當松山城南 小山田仁右ヱ門(他2名)/世話人 越智郡朝倉村 徳右ヱ門
寸法
25×22×140
備考
八坂寺正面橋の北たもと

Teacher

 この道標も徳右ヱ門道標でした。続いて左側の道標の詳細を確認しましょう。

8 八坂寺山門傍に建つ常夜燈(左側)

【八坂寺山門傍に建つ遍路道標(左側)データ】

所在地
松山市浄瑠璃町
主な碑文
(手印)/へんろみち/(手印)明治二十三年二月吉日
寸法
15×19×63
備考
八坂寺正面橋の北たもと

Teacher

 次の札所である西林寺への遍路道について、『伊予の遍路道』は次のように記述しています。

浄瑠璃寺から西林寺へ

 八坂寺の山門を出ると、すぐ左に折れて小道に入り、八坂寺墓地の下を回って土用部(どようぶ)池(えばら池)に至る。

Teacher

 「すぐ左に折れて小道に入り」とあるのですが、Google Mapのストリートビューでは表示されませんでした。しかし、実際に現地を訪れると、その小道の存在がすぐに分かりました。

八坂寺山門傍の小道

Teacher

 この小道をそのまま真っ直ぐ進むと、すぐに土用部池が見えてきました。ここで八坂寺以降の遍路道を地図で再確認しましょう。

遍路道標探索ルート〔国土地理院電子国土基本図から作成〕

Teacher

 さあ、いよいよ愛媛県内最古の遍路道標の登場です。土用部池北方の堤防下に建てられています。

9 愛媛県最古の遍路道標(松山市恵原町)

愛媛県最古の遍路道標

Teacher

 この遍路道標の建立年は、なんと貞享2(1685)年!江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の治世です。

【愛媛県最古の遍路道標データ】

所在地
松山市恵原町
主な碑文
(手印)右遍ん路道 貞享二乙丑 三月吉日 法房
寸法
38〜54×12〜26×110
備考
土用部池堤防北下

Teacher

 この後、遍路道は北へ続きます。『伊予の遍路道』の記述を見てみましょう。

浄瑠璃寺から西林寺へ

 道標から田畑の中の遍路道を北へ向かって諏訪神社の前を通り250mばかり進むと、遍路道は県道194号に合流する。その三差路右には字形が整い彫りも深い道標があり、この道標の手印に従って県道を北にしばらく進むと文殊院に至る。

※ 太字は引用者による

10 県道194号の三叉路に建つ遍路道標

【県道194号の三叉路に建つ遍路道標データ】

所在地
松山市恵原町
主な碑文
(手印)左 へんろミち/門屋六右衛門 小田屋道蔵 世話人 錦屋善七(他5名)
(手印)ぎゃくへんろ道
寸法
31×31×130
備考
個人邸北西角

Teacher

 この道標から北方の風景です。緩やかなカーブが昔の街道であった時代を想起させてくれます。

Teacher

 ちなみに、県道194号は遍路道であり、松山藩が整備した土佐街道でもあります。この遍路道標から南へ少し進んだ所に「松山札辻より三里」の里塚石が建てられていますので、紹介します。

Teacher

 側面に記されている通り、この里塚石は平成11年2月に再建されたものです。松山藩が整備した土佐街道と里塚石については、当ブログの記事にまとめています。お時間がある時にご一読ください。

Teacher

 遍路道標の場所に戻りましょう。ここから北へ真っ直ぐ進むと、衛門三郎伝説で知られる文殊院に到着です。

文殊院

文殊院

Teacher

 衛門三郎と文殊院との関わりについて、現地の解説板に詳細が記されています。

文殊院境内にある解説板

Teacher

 巨大な修行僧像の隣には、河野衛門三郎と妻女の像がありました。

河野衛門三郎と妻女の像

【参考】四国おへんろ.net 衛門三郎伝説〜四国遍路の開祖〜

Teacher

 さあ、遍路道標探索の旅を続けましょう。

浄瑠璃寺から西林寺へ

 文殊院を出て北に県道194号をしばらく進むと、八つ塚を案内する道標がある。この道標の指示に従い、左折して100mほど進むと、『四国邊路道指南』に、「ゑわら村、大師堂有。此村の南に右衛門三郎の子八人のつか有、石手寺の縁起にくハし。」と記された八つの塚が、民家や田んぼの中に南北にわたって点在している。

※ 太字は引用者による

11 八つ塚を案内する遍路道標

【八つ塚を案内する遍路道標データ】

所在地
松山市恵原町
主な碑文
(手印)へんろ道/大正二年三月
 左 八塚道/施主 福田 小松
寸法
27×25×135
備考
個人邸南東角

Teacher

 このまま北へ遍路道を進んでもよかったのですが、折角ですから八つ塚の方へ行ってみました。探索ルートを地図で見てみましょう。

遍路道標探索ルート〔国土地理院電子国土基本図から作成〕

Teacher

 一番北側の八つ目の塚の近くに道標があり、その道標に従って東進して県道194号に戻りました。

12 八つ目の塚付近に建つ遍路道標

八つ目の塚付近に建つ遍路道標

【八つ目の塚付近に建つ遍路道標データ】

所在地
松山市恵原町
主な碑文
右 へんろ道
寸法
34×17×55
備考
銀行所有の野球場南の道路脇

浄瑠璃寺から西林寺へ

 松山市恵原町を過ぎ、同市上野町を北に向かって500mほど行った大宮八幡神社東側の三差路に、中務茂兵衛の道標が立っている

※ 太字は引用者による

13 大宮八幡神社東側の三叉路に建つ遍路道標

【大宮八幡神社東側の三叉路に建つ遍路道標データ】

所在地
松山市上野町
主な碑文
(手印)道後 西林寺 八十八度目為供養 周防國大嶋郡椋野村 行者 中務茂兵衛建之
 左 八坂寺 明治十九年三月吉辰 周防國玖珂郡今津村 施主 辻川寅助/左 松山道
寸法
30×31×135
備考
個人邸南西前

Teacher

 中務茂兵衛が建立した遍路道標の右の小道をしばらく北進すると、御坂川が見えました。そこで右折し、大正橋を渡ったところに遍路道標がありました。

14 大正橋を渡った所に建つ遍路道標

Teacher

 この遍路道標については、『伊予の遍路道』には記載されていません。「左 札始大師 衛門三郎 近道」と刻まれていますから、「札始大師堂」を案内する道標なのでしょう。この道標から東進したところを左折してしばらく進み、札始大師堂に到着しました。

札始大師堂

札始大師堂

Teacher

 「札始大師堂」について、『伊予の遍路道』は次のように記述しています。

浄瑠璃寺から西林寺へ

 この大師堂は、衛門三郎が一夜、弘法大師の帰来を待ったといわれ、境内には「四国霊場遍路開祖衛門三郎札始大師堂」の石碑が立っている。大師堂にはかつて通夜堂があり、春には巡拝者のための茶の接待も行われていた。地域の人々は、大正時代まで夏の土用の入りには、大師堂に納められた納札を一枚ずつ小竹に挿(はさ)んで田んぼの水口にさし、豊作を祈願していたという。

※ 太字は引用者による

Teacher

 『伊予の遍路道』に記されている石碑はこれです。

「四国霊場遍路開祖衛門三郎札始大師堂」の石碑

Teacher

 札始大師堂から北へしばらく行くと、新しい遍路道標の後ろに古い遍路道標があるのを見つけました。

15 札始大師堂北の道路傍に建つ遍路道標

Teacher

 新しい道標は、平成26年に建立されたものでした。古い道標には次の文字が刻まれています。

【札始大師堂北の道路傍に建つ遍路道標データ】

所在地
松山市小村町
主な碑文
巡拝 右 遍んろ道
寸法
16×13×60
備考
個人邸より北10m

Teacher

 この道標から北は畦道を舗装化したような道幅の狭い道がクネクネと続き、県道207号に合流します。この道について、『伊予の遍路道』は次のように記述しています。

浄瑠璃寺から西林寺へ

 この道標の左を通り畦(あぜ)道や路地を通り抜けて400mほど北に進むと、個人邸裏で県道207号と合流し、そこに茂兵衛道標が立っている。

※ 太字は引用者による。また、個人名があったため「個人邸」と書き換えた。

Teacher

 この茂兵衛道標は、「遍路道標探索の旅Part.2」で紹介したものです。写真とデータを転記しておきます。

16 松山市小村町の県道207号沿いに建つ遍路道標

【松山市小村町の県道207号沿いに建つ遍路道標データ】

所在地
松山市小村町
主な碑文
八坂寺(手印)施主 安藝佐伯郡玖波村 長谷川菊◻︎ 久保田庄◻︎ 長谷川庄◻︎ 尾上常◻︎ 大師講二十五 ◻︎
願主 四國百三十三度巡拝為供養 周防國大嶋郡椋野村 中務茂兵衛義教 建
(矢印)明治貮十六年 四十八番西林寺 第十二月吉日建之
寸法
24×24×121
備考
個人邸北東角

Teacher

 このあとは県道207号を北へ進み、重信川を目指しました。探索ルートを地図で確認しましょう。

遍路道標探索ルート〔国土地理院電子国土基本図から作成〕

Teacher

 県道207号と県道23号が交わる交差点にも遍路道標があります。これもPart.2で紹介しています。転記しましょう。

17 県道207号と県道23号の交差点に建つ遍路道標

Teacher

 県道23号を越えると県道40号に変わります。この道を北進すれば重信川。久谷大橋を渡って川を越えたところに遍路道標と金毘羅道標が並んで建てられています。

松山自動車道下に建つ遍路道標と金比羅道標


Teacher

 今回はここまでです。このあと遍路道はさらに北へ、西林寺に続きます。この続きは「遍路道標探索の旅Part.2」で紹介していますので、ご覧ください。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

【関連記事】「遍路道標探索の旅Part.2 松山市上野町から松山市鷹子町を巡る

フォローお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です