高山石灰業の発展と衰退①

Teacher

 Erikoさん、前回は明治時代における高山の人口増加の背景として、石灰業の発展を紹介しました。今回は高山石灰業の発展と衰退というテーマで、その歴史をまとめます。

【参考】西予市明浜町高山の集落の密集状態はどのように形成されたか?②

Eriko

 はい。よろしくお願いします。

Teacher

 本日は、高山石灰の歴史を4つのテーマに分けて紹介します。これを見れば、高山石灰業のことが概ね分かりますよ。

  • 高山の技術が関東へ
  • 石灰の製造方法と出荷
  • 昭和初期の石灰工場の分布
  • 高山石灰の衰退

① 高山の技術が関東へ

Teacher

 明治20年代、高山の石灰窯の築造方法石灰の焼成法が東京に伝わりました。これは、「日本のセメント王」と呼ばれた浅野総一郎の要請によるものです。

Eriko

 浅野総一郎という人は、前回の最後に紹介していただきましたね。

浅野総一郎 ※ Wikipediaから引用〔パブリック・ドメイン〕
Teacher

 浅野総一郎は数々の業績を残し、浅野財閥を一代で築いた実業家です。彼が日本で初めて行った主な業績を紹介しましょう。

  • 会社組織をつくる。
  • 産業におけるコークスの燃料化に成功。
  • 北海道炭販売の15年契約を結ぶ。
  • 外国蒸気船購入で海運業を興した民間人。
  • 皇居に国産のセメントを納入。
  • タンク油を大々的に販売。
  • ロシアとの民間外交に関わる。
  • 昼夜兼業の銀行をつくる。
  • 横浜市の鶴見沖に大規模埋立地を造成。
  • 富山県庄川に東洋一の「小牧ダム」を築く。

【参考】〜激動の日本を駆け抜けた実業家〜浅野総一郎物語〔となみ野田園空間博物館推進協議会編〕

Eriko

 国内外で活躍した方なんですね。高山石灰とはどのように関わったのでしょうか?

Teacher

 高山で石灰業に従事しておられた方は、そのことについて次のように話してくださいました。

浅野総一郎と高山との関わり

 明治16年(1883年)に浅野総一郎がセメント製造の原料である生石灰を調達するために高山へ来ました。この人は新潟出身で、政府から川崎町(現神奈川県川崎市)のセメント工場の経営を任され、セメント原料の生石灰を調達するために全国の石灰工場を回ったと言われています。当時、全国の石灰工場では木炭燃料が主流で生産量も少なかったのですが、高山へ来てみると燃料は石炭を使い、石灰窯も大型で生産量が格段に違ったことに驚いたそうで、同18年(1885年)に浅野商店から高山の石灰工を雇い入れたいとの文書が石灰組合に届いています。これに応じて同22年(1889年)、高山の石灰工20名が浅野セメント深川(ふかがわ)工場へ入社し、青梅(現東京都青梅市)に石炭用石灰窯を造って川崎のセメント工場の原料調達に携わったと伝えられています。このことは、高山の石炭による石灰製造が日本で初めてだということの証明であると思います。私の家には、同17年(1884年)5月に東京深川清住町の浅野石灰商店へ宇都宮長三郎から送った石灰の受取証が残されており、大阪の富井利助商店を介して同年2月4日に五号高砂丸で『叺入粉灰980叺(かます)』を、六号品川丸で『同630叺』(一叺16貫目)を送ったものには、浅野石灰商店の丸印が押されています。

『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-』 ※ 下線及び太字は引用者による。
Eriko

 浅野総一郎は高山の先進性に目をつけたのですね。

Teacher

 その通りです。このように、高山の技術が関東に進出することで、日本工業の発展に貢献することとなったのです。ちなみに、浅野総一郎は青梅から川崎の工場まで鉄道を敷設して石灰を運んだそうですよ。

Eriko

 鉄道まで敷設したのですか!すごいなあ。

Teacher

 こうして、明浜の消石灰はセメント用石灰としても取引されるようになり、工場数・生産量ともに増加し、明治35〔1902〕年には約241万俵〔約16,200t〕に達したのです。

【参考】愛媛県・旧明浜町の石灰工業史〔角田清美、専修人文論集、2017〕※図4明浜町における消石灰の生産高の変遷を参照のこと。

Eriko

 ものすごい発展ですね。石灰の販路も拡大したのでしょうね。

Teacher

 それについては、角田清美氏の論文「愛媛県・旧明浜町の石灰工業史」に記述があります。引用しますね。

販路の拡大

 明治28(1895)年に締結された下関条約によって、朝鮮半島への往来が比較的容易になったため、半島へも販路の拡大が意図されるようになった。この頃の販路は、県内はもとより、北海道、越後、越中、能登、因幡、大阪、播磨、阿波、讃岐、土佐、周防、豊前、豊後、日向、薩摩、および朝鮮半島(馬浦山、仁川、釜山など)などであった。朝鮮半島合併直後である、明治45(1912)年の生産高は約418.3万俵(約28,100t)、大正6(1917)年の生産高は約440.4万俵(約29,600t)で、最高に達した。

『愛媛県・旧明浜町の石灰工業史』
Eriko

 さまざまなところに高山の石灰が販売されていたのですね。生産量もどんどん増加している!

Teacher

 明浜歴史民俗資料館には、韓国貿易用の引き札が展示されていますよ。

韓国貿易用の引き札〔明浜歴史民俗資料館蔵〕
Eriko

 宇都宮髙治郎さんという名前がありますが、これは宇都宮角治さんの子孫の方ですか?

Teacher

 その通りです。高山の賀茂神社の鳥居にも彼の氏名が刻まれていましたね。

賀茂神社の鳥居
Eriko

 本当だ!先生、引き札の左上にある記号は何ですか?「丁」という字が書かれているものです。

Teacher

 これは家号といって、一門や一家の特徴を基に家または店に付けられた称号のことです。これは宇都宮石灰の家号で、「ヤマチョウ」と読みます。高山では全ての家または店に家号があったのですよ。

昭和30年ころの高山本浦の町並みと家号 ※ 『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-』から引用

【参考】『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-』 ※ 図中のア〜へは、第1章第2節「高山の町並み」の本文を参照のこと。

Eriko

 本当にたくさんの家号が付けられていたのですね。

Teacher

 そうでしょう。名前よりも屋号で呼び合う習慣が高山にはあったそうですよ。

Eriko

 なるほど。その方が仕事をする際の都合も良かったのかもしれませんね。

Teacher

 さて、明治時代から大正時代にかけて高山の石灰業は大発展しました。次は石灰の製造方法について紹介します。

② 石灰の製造方法と出荷

Teacher

 明浜歴史民俗資料館に、興味深い図が掲示されています。ちょっと見てください。

昭和初期の明浜の石灰製造工程図表 ※ 明浜歴史民俗資料館にて撮影
Eriko

 石灰石を採掘してから石灰を搬出するまでの流れがまとめられていますね。

Teacher

 この図を参考にして、石灰の製造過程をア石灰石の採掘、イ石灰窯での焼成、ウ搬出の順番に説明します。

Eriko

 はい。

ア 石灰石の採掘

Teacher

 石灰鉱山での仕事は、「石採り」「石割り」「込み掃き」の3種類あったそうです。それぞれの仕事内容について、石灰業に従事しておられた方は次のように説明してくださいました。引用しながら順に確認していきましょう。

「石採り」について

 『石採り』崖の所に上から吊るした吊り板の上に乗って石灰石の崖に発破穴を掘って岩石を落とす作業で、吊り板まで命綱を伝って下り、鑿と盛山棒(高山では『カナッポウ』と呼ぶ)を使って6尺(約182cm)ほどの穴を空け、その中にダイナマイトを詰めて爆破し、落とした石を大玄能(約11kg)で中割りします。

『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-』 ※ 太字及び下線は引用者による。
Eriko

 吊り板まで命綱を伝って下りる?想像するだけでも怖いですね。

Teacher

 明浜歴史民俗資料館に作業中の写真と使用した道具が展示されていますよ。見てみましょうか。

石採りの風景 ※ 明浜歴史民俗資料館にて撮影〔トリミングし、写真部分のみを表示〕
小鎚とのみ ※ 明浜歴史民俗資料館にて撮影〔ややトリミングしている〕
鑿岩機による採掘 ※ 明浜歴史民俗資料館にて撮影
石割りの作業風景 ※ 明浜歴史民俗資料館にて撮影
Eriko

 ダイナマイトで爆破するわけですから、相当危険だったでしょうね。

Teacher

 爆破する作業のことを「発破〔はっぱ〕」といいます。この時の様子について、高山で暮らしておられる方は次のように話してくださいました。

発破が行われる時

 発破を行う際には、『発破かけるぞ。』と大声で警告し、発破口へ筵(むしろ)等を吊って小石が飛散するのを防いだものです。

『えひめ、昭和の記憶 ふるさととのくらしと産業13-西予市①-』
Eriko

 石灰鉱山の近くに集落があるわけですから、よく聞こえていたのですね。

Teacher

 そうおっしゃっていました。なお、石灰業に従事しておられていた方のお話では、高山での石灰石の採石方法は他と異なっていたようです。

独特な採石法

 鉱山法では、一度掘った場所のすぐ下は掘らず、奥の方へ少しずらして下へ下へと階段式に掘り進めていく『階段掘り』という方法が奨励されていましたが、高山の場合は最初に石の下の方を掘ってからその真上を掘るという『透かし掘り』という方法で石採りを行っていたことを私は憶えています。鉱山法では禁止されていましたが、この方法だと下の部分が空洞になっているので上を掘るとすぐに石が落ちて来るし、岩の割れ目がたくさんできるのでダイナマイトを詰める穴空けの作業が減り、非常に効率が良かったのです。

『えひめ、昭和の記憶 ふるさととのくらしと産業13-西予市①-』 ※ 下線及び太字は引用者による。
Eriko

 なるほど。高山の石灰石の分布からするとこの方法の方がよかったのでしょううか?

Teacher

 そうかもしれませんね。さて、次は「石割り」「込み掃き」です。

「石割り」と「込み掃き」

 『石割り』とは、石採りが落とした石灰石を拳二つ大ほどに小割りする仕事のことをいいます。小玄能(約2kg)を使って小割りし、ザルに7貫目(約26kg)ずつ入れていきます。『込み掃き』は、石採りや石割りの作業の後にたくさん積もって残った土や屑石をザルにすくい取り、清掃をする仕事です。主に高校生くらいの年齢の若者が従事していましたが、夜に定時制高校に通っている若者が多かったことを私は憶えています。

『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-』 ※ 太字及び下線は引用者による。
Teacher

 「ザルに7貫目(約26kg)ずつ入れていきます。」とありますが、石灰業に従事しておられた方のお話では、のちに焼成する分量を考えて7貫ずつと決められていたそうですよ。

Eriko

 なるほど。計画的に作業が行われていたわけですね。

Teacher

 採石場でザルに入れられた石灰石は、モッコで担ぐか、トロッコに乗せるかして石灰窯まで運ばれました。このことについて、高山で石灰業に従事しておられた方は、次のように話してくださいました。

採掘した石灰石を工場へ

 鉱山で採掘された石灰石は工場の窯場へ送られます。採石場の真下に工場がある場合はすぐに石灰石を下ろすことができていましたが、小浦にある石灰工場の場合は工場が石灰山とは離れた場所にあったので、索道で海岸付近まで下ろした石灰石を石船に移してから工場まで運んでいました。石船は幅が広く平べったい形で、甲板に1、2寸(3cmから6cm)くらいの丈夫な板を敷き、その上に石灰石を何百杯か乗せていたことを私はよく憶えています。この石灰石は原石のままでかなり大きかったので、船着き場付近の石割り場で割ってからザルに入れ、石灰窯の上まで運んでいました。そして、石灰窯の中で1,000℃の熱で焼成して石灰石から炭酸ガスを抜き、生石灰を生成していきました。

『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-』 ※ 太字及び下線は引用者による。
Eriko

 明浜歴史民俗資料館に掲示されている図の通りですね。

Teacher

 Erikoさん、トロッコが走っていた跡が今でも残っているのを知っていますか?

Eriko

 いいえ、知りません。どの辺りですか?

Teacher

 明浜歴史民俗資料館がある場所です。その場所は、実は昭和54〔1979〕年まで石灰石の採掘が行われていた場所なんですよ。

Eriko

 そうなのですね。写真はありますか?

Teacher

 あります。見てみましょう。

トロッコが走った道 ※ 奥に見える山が石灰を採石していた山
Teacher

 写真中央に見える山が石灰石を採掘していた場所です。

Eriko

 石灰岩の岩肌が見えていますね。どの場所がトロッコが走っていたところなのですか?

Teacher

 青い屋根の建物の上に3軒のロッジが見えるでしょう。そこがトロッコが走っていた場所です。地域の方のお話によれば、奥の石灰山の坑道まで繋がっていて、坑口がまだ残っているそうです。

Eriko

 なるほど。

イ 石灰窯での焼成

Teacher

 次は石灰窯での焼成です。明浜歴史民俗資料館に石灰窯の断面図が展示されています。

石灰窯断面図 ※ 明浜歴史民俗資料館にて撮影
Eriko

 石垣の中に徳利型の窯があるのですね。

Teacher

 大早津にある石灰窯の遺構と比べてみましょう。

大早津にある石灰窯の遺構
Eriko

 取出口が二つあるということは、石灰窯も二つあるということですね。

Teacher

 そうです。「御天守」の上に上がってみると、窯の入り口を見ることができます。

石灰石等の投入口
Eriko

 断面図に描かれている耐火煉瓦が見えますね。

Teacher

 石灰窯の構造と焼成法について、石灰業に従事しておられた方は次のように話してくださいました。

石灰窯での焼成

 石灰窯は、上から予熱帯燃焼帯消火帯の3層構造で、その下が生石灰の取り出し口になっていました。まず、予熱帯の上からザル2杯分の石炭を均等になるように撒き、さらにその上に石灰石を敷いていきます。石灰石を敷く量は、石炭の質によってザル10杯分とか12杯分というように変えていました。ザルは採石した石灰石を入れて運ぶだけでなく、石灰窯に入れる石灰石の量の目安でもありました。

 石灰石の焼成が終わると、取り出し口の天井に取り付けていたサナ(栓)を1本ずつ抜いて生石灰を落とし、鍬で窯の中から取り出してから工場へ運びます。このとき、予熱帯の部分が空いた状態になっているので、そこに石炭1、原石6程度の割合で詰め直していきます。このような作業を繰り返して、石灰石の焼成を継続して行っていました

『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-』 ※ 太字及び下線は引用者による。
Eriko

 なるほど。連続して石灰石等を詰めていくことで、生産性を高めていったのですね。

Teacher

 そうです。生石灰が生成されたら、次は「消化」という作業を行って消石灰を生成します。

Eriko

 「消化」とは何をすることをいうのですか?

Teacher

 高山で石灰業に従事しておられた方は、次のように話してくださいました。

消石灰の生成法

 生石灰に水をかけて反応させ、消石灰を生成することを、『消化』といいます。今は消化機を通して簡単に生成することができますが、それ以前は全て手作業で行っていました。 

 まず生石灰を広い場所に何か所か敷き詰め、一斗缶(約18ℓ)に入れて運んで来た水をかけてから柄が長い大きな四本鍬でかき混ぜて一晩休めます。そしてスコップですくい取った生石灰を幅1mくらいの四角い箱の中に入れ、箱の上部にやや斜めに取り付けられた網を振り、ふるいに掛けて選別します。箱の中にある生石灰はスコップですくって袋の中に封入していきましたが、網目に入らない大きな生石灰は、箱の外へ落としました。これが一つのサイクルで、作業が終わると箱を別の場所に移動させ、同じ作業を順番に行っていきました。この方法は、消化機が導入された昭和25、26年(1950、51年)ころまで続いたと私は思います。

『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-』 ※ 太字及び下線は引用者による。
Eriko

 これも明浜歴史民俗資料館に展示されている図の通りですね。

Teacher

 資料館には、消化に用いた道具が展示されていますよ。

石灰篩〔どんこ〕と長柄鍬 ※ 明浜歴史民俗資料館にて撮影
Eriko

 石灰篩の右側に金網がありますね。この上から石灰を箱の中に落として篩にかけたのですね。

Teacher

 その通りです。篩にかけられた消石灰は袋詰めされ、船へ運んで搬出されたのです。

ウ 搬出

Teacher

 明浜歴史民俗資料館にあるアルバムに、「石灰仲士風景 20年代」と記載された写真があります。

石灰仲士風景 20年代 ※ 明浜歴史民俗資料館にて撮影
Eriko

 袋に詰められた消石灰がたくさん積み込まれていますね。船に架けられている棒状のものは何ですか?

Teacher

 これは高浜の人が「あゆみ」と呼んでいるものです。高山で石灰業に従事していた方は、「あゆみ」について次のように話してくださいました。

機帆船への石灰の積み込みを手伝って

 袋詰めをした消石灰は、陸から機帆船まで通したあゆみ(船に渡している板)の上を歩いて渡り、搬入していました。あゆみは、直径20cmほどのヒノキの木を10mくらいの長さに伐り出し、3本の板を交互にボルトで留めて1枚の板にしていました

 昭和35年(1960年)ころまで、石灰を船に積み込む人数が足りないときには、私もその作業を手伝っていました。あゆみの上を歩くたびに板がしなっていたことをよく憶えています。このしなりは重いものを運ぶための工夫で、板が沈んでいるときには荷を肩に掛けたままで待ち、板が跳ね上がったらその反動を利用して足を前に出すようにするとうまく進むことができます。こうすることで、積荷の重さをあまり感じずに済みました。

 同じあゆみの上を2人で歩くときは、2人の呼吸が合っていないと板がしなるタイミングが合わず、途端に前に進むことが難しくなります。このために互いに言い争いをしている様子を私は何度も見たことがあります。

『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13-西予市①-』 ※ 太字及び下線は引用者による。
Eriko

 言い争いをしていたなんて、面白いですね。

Teacher

 何年も石灰の運搬を続けていると、コツをつかむことができてスムーズに運搬できるようになったそうです。

Eriko

 熟練の技というやつですね。

Teacher

 その通りです。さて、長くなりましたのでここまでにしましょう。続きは次回紹介します。

Eriko

 はい。ありがとうございました。

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