野村町の歴史を刻む音を聞いてください -前嶽溝の話-
Erikoさん、これは何の音を録音したものか、当ててみてください。
水が流れる音ですね。これはどこで録音されたんですか?
西予市野村町です。この水は、灌漑用水を確保したいという積年の願いを叶えるため、地域の人々がつくり上げた水路を流れています。この水路は「前嶽溝〔ぜんがくこう〕」と呼ばれています。
「前嶽溝」はいつ頃つくられたのですか?
はい。嘉永6〔1853〕年から明治元〔1868〕年まで、15年の歳月をかけてつくられました。
ということは幕末ですね。
そうです。ちなみに、「前嶽溝」は四郎谷出合から野村にかつてあった岡池まで肱川の水を導水した水路で、全長3,549mもあります。
3,549m⁉︎幕末にそんなに長い水路をつくったのですか?
その通りです。昭和23〔1948〕年に米軍が撮影した航空写真があります。見てみましょう。
野村の中心街から見て南西の方向に大きな池があります。これが岡池ですか?
その通りです。四郎谷出合は、現在の出合大橋付近にあたります。この航空写真に出合と岡池の場所を記してみますね。
航空写真で見ると、距離の長さがよく分かりますね。
そうでしょう。今回は、前嶽溝完成に至るまでの地域の方々の思いについてお話しします。
はい。よろしくお願いします。
Contents
- 西予市野村町の地理的特徴
- 肱川の水を岡池へ
- その後の前嶽溝と人々
① 西予市野村町の地理的特徴
まず最初に、西予市野村町の地理的特徴を確認しておきましょう。もう一度、昭和23年に野村町を撮影した航空写真を見てください。
盆地の中に町が形成されていますね。
はい。野村盆地といいます。野村の中心街は、肱川の流路に沿って発達した階段状の地形〔河成段丘〕上に形成されているんですよ。
先生、「前嶽溝」をつくった理由が灌漑用水の確保にあると話していただきましたけど、肱川が町のすぐ側に流れていますよね。なぜ灌漑用水を確保する必要があったのですか?
その理由について、地域の方が次のように説明されています。引用しましょう。
河岸段丘上に育った農業
この野村地区は、肱川の上流山間部に位置しているので、肱川は急流となり低い所を流れています。そのため川の水を利用することが難しかったのです。上流の宇和地方は広い水田と良質の用水を得て、稲の豊作に恵まれていましたが野村は水田も少なく干害続きで農民は貧しかったのです。〔中略〕
野村地区ではこのように新しく開田することが地形上難しく、水稲作では農家の生活が成り立ちません。そこで農民は、藩専売の泉貨紙を漉き、時代の流れとともに養蚕と有畜農業、次には酪農業が盛んになったのです。また、野村地方の山や、丘陵面には平地では始末に困る山野草や雑草が茂り、これを秣とする畜産業が自然に盛大になり今日に及んでいるのです。
平成6年度地域文化調査報告書『河川流域の生活文化』 ※ 下線及び太字は引用者による
なるほど。河成段丘という地形的特性から水利の便が悪かったのですね。
その通りです。では次に、前嶽溝が完成するまでの経緯についてお話しします。
② 肱川の水を岡池へ
先生、岡池はいつ頃造られたのですか?
室町時代初期です。岡池の歴史を年表にまとめましたので確認しましょう。
江戸時代には拡張工事が行われていますね。
そうですね。それでも野村の水利問題が解決されたわけではなく、幾度となく干害等の被害を被り続けたのです。
では、前嶽溝をつくろうとするきっかけは何だったのですか?。
それは、嘉永5〔1852〕年に発生した2つの災害です。
嘉永5年に発生した2つの災害
- 大干害 … 畑作の陸稲、トウモロコシなどが枯死。
- 大火災 … 強風で火は畑を這って延焼し、被災100戸、棟数260棟。
これでは野村の人々の生活が苦しくなってしまったでしょうね。
その通りです。この時、無火災を祈願して100年間の願相撲を愛宕神社に奉納したのが緒方惟貞という人物です。彼の功績を伝える解説板と石碑が緒方家住居前に建てられています。
これが野村町で有名な乙亥大相撲の始まりなんですね。
【参考】データベース「えひめの記憶」地域学習教材資料館-緒方惟貞-
そうです。この時、故郷野村の窮状を救うため、仲間とともに立ち上がった人物がいました。徳山駒吉〔1818〜1888〕という人です。
徳山駒吉という名前は初めて聞きました。どんな人なのですか?
彼は、大泉寺がある山本部落の農家に生まれたとされる人物です。
野村の中心街から南西の方向にあるお寺ですね。あれ?野村病院の敷地の形が岡池の形と同じに見えます!
同じはずです。野村病院は、岡池の跡地に建てられていますからね。
なるほど。ということは、彼の生活の中には常に岡池があったということですね。
そうです。ですから、肱川の水を岡池まで導水しようという発想が生まれたのだと思います。特や駒吉氏は、仲間とともに早速行動を開始しました。
徳山駒吉氏らの行動
さて、駒吉は自ら測量をした。いばらを切り開き、川に面した岸壁の部分は夜間に竿の先にローソクを灯したのを三人が持って川に入り、対岸より高低を測るなどして、水路建設計画を作った。その実施を庄屋緒方惟貞に申し出たが、庄屋は工事は不可能であると許可をしなかった。
『のむら史談 第11号 徳山駒吉翁と前嶽溝』 ※ 下線は引用者による
夜間でも自ら測量を知るなんて凄い。でも、緒方惟貞氏が反対していることをみても、当時の感覚として技術的にできるはずがないと考えられたのでしょうね。
しかし、徳山駒吉氏らは諦めませんでした。
徳山駒吉氏らの行動
しかし、駒吉ら同志農民は堅い信念によってその計画を実施して、やっと文久2年(1862)の春に“新井溝”と名付けた小規模の水路を完成した。この水路の難所は岸壁に人が綱で宙づりとなって岩に穴をあけて、鉄棒を打ち込み、その上に木製の樋をかけたものであった。
『のむら史談 第11号 徳山駒吉翁と前嶽溝』 ※ 太字及び下線は引用者による。なお、数字は原本では漢数字。
前嶽溝完成の前に別の水路を建設したのですね。
『のむら史談 第11号 徳山駒吉翁と前嶽溝』に、難所の断面図が掲載されています。引用しましょう。
岸壁に鉄棒を打ち込むだけでも大変だったでしょうね。新井溝をつくった結果、どうなったのですか?
残念ながら新井溝は小規模で水量が少なかったため、続く干害に対応することができませんでした。
それは残念でしたね。でも、ここで諦めなかったからこそ、のちの前嶽溝完成に繋がったんですよね。
その通りです。同志21名で協議し、水路の大改修を代官若松総兵衛に申し出るも許可されなかったので、決死の覚悟をもって宇和島藩主伊達宗徳〔むねえ〕に直訴しました。
えっ、江戸時代において藩主への直訴は大罪とされたのではなかったですか?
そうなのですが、藩主伊達宗徳は理解のある方でした。続きを見てみましょう。
徳山駒吉氏らの行動
当時直訴は打首の刑であったが、人民に深く厚い藩主の特別の計らいで、慶応3年(1867)2月に待望の許可が出た。さっそく改良工事の準備にかかり、鍬入れは5月であった。
『のむら史談 第11号 徳山駒吉翁と前嶽溝』 ※ 数字は原本では漢数字。
よかった!藩主の許可が出れば、あとは実現あるのみですね。
そうなのですが、かなりの難工事だったようです。列挙してみましょう。
- 前嶽と呼ばれる所が最大の難所で、岩盤の掘割り1,274mのうち「手掘のトンネル」が91mに及んだ。
- 就労人員11,895人役に及び、予想外に経費を要した。
- 田持ち面積に割り当てた出役、出資にも限度があるため、同志が特別出資することになった。
手堀のトンネルが91m‼︎工事は相当辛かったでしょうね。
水路の完成は明治元〔1868〕年の秋。最初に起工してから苦難15年目のことでした。
完成後、野村の干害は解消されたのですか?
はい。農民を干害から救い、餓死者の心配がなくなっただけでなく、水田15ヘクタールを増加することができたのです。
それはよかった!
宇和島藩主伊達宗徳公は自ら水路を視察して、その難所を「前嶽溝」と命名しました。また、米435俵を贈ってその功を賞したのです。
伊達宗徳公は、本当に理解のある方ですね。
明治9〔1876〕年、このことを長く後世に伝えるため旧宇和島藩主伊達宗徳は、慈眼堂に「前嶽溝碑」を建立し、その功績を称えたのです。
③ その後の前嶽溝と人々
それでは最後に、前嶽溝完成後のことについてふれておきましょう。
ア その後の徳山駒吉氏
私財投じ破産
徳山駒吉はその後、宇和街道や宇和島街道の改修など、その他の公共事業にも尽くしたが、新井溝から始まる工事に私財を投じたために、富農であったが破産した。再起を図るために宇和島に出向いたが、すでに五十歳を過ぎており、志ならず、子供がなかったので吉田町の親戚に身を寄せて、明治二十一年十月三日、七十一歳で没した。
墓は野村安楽寺墓地にある。同墓地には愛媛県指定文化財の泉貨居士の墓もあるが、駒吉の墓は印だけで、さみしいものであった。
『のむら史談 第11号 徳山駒吉翁と前嶽溝』
灌漑用水確保のためにあれだけ尽力したのに、寂しいですね。
大正13〔1924〕年、農会長を務めていた宇都宮米太郎氏らが、徳山駒吉氏の功績を称えるため、「前嶽院号と墓碑」を追贈しています。
イ 水路利用し発電へ
水力発電にも利用されたのですね。
その通りです。『のむら史談 第11号 徳山駒吉翁と前嶽溝』の記述を引用しましょう。
宇和水力電気株式会社の発足
明治43年本社宇和島に宇和水力電気株式会社が発足して、この水路を利用することとなった。〔中略〕この会社は社長渡邊修、専務太宰孫九、理事山村豊次郎、今西幹一郎、末光千代太郎、緒方陸朗らであった。発電機はドイツのアルゲマイネ社から購入した水路式発電機で、出力400キロワットであった。
送電開始は明治45年4月で、宇和島のほか野村にも145灯が点灯されている。愛媛県では明治36年に松山市、続いて明治40年に今治市、45年に宇和島市と野村町に電灯が灯された。県下三大城下町と並んでこの地に電灯がついたことになる。
『のむら史談 第11号 徳山駒吉翁と前嶽溝』 ※ 太字及び下線は引用者による。数字は、原本は漢数字。
南予の鉄道敷設に関わった方々ですね。
その通りです。
ウ 守り続けて百年
野村の人々は、毎年5月に溝上〔いであげ〕と呼んだ定期修理を行い、町の発展を支える前嶽溝を守り続けてきました。そして開溝百年となった昭和43〔1968〕年、百年記念祭を挙行して前嶽溝碑の側に「前嶽溝百年記念碑」を建立したのです。
地域の人々の感謝の気持ちの表れですね。
エ 岡池の埋立
昭和47〔1972〕年、地域の都市化による関係水田の減少と利水施設の機械化を理由として、岡池の地を公共施設・企業誘致に転用するため、とうとう埋立が行われました。
現在は野村病院が建てられていますね。
そうです。岡池の跡地には、昭和48〔1973〕年に「岡池由来之碑」が建立されました。碑文には、往時の様子がしっかりと刻まれています。
オ 前嶽の水没
昭和56〔1981〕年、野村ダムの完成に伴い、前嶽と呼ばれた難所は水没し、発電所は変電所へと変わりました。
【参考】Wikipedia 野村ダム
今はその場所を見ることはできないのですね。なんだか悲しくなりました。
同年、地域の人々は、先賢の遺徳を顕彰するとともに、永遠の恩恵に感謝をするために、ダム湖畔に「前嶽溝難所水没之碑」を建立しています。
終わりに … 石碑等のへのアクセス
こうしてみると、なくなってしまったものもあるけど、野村町のあちこちに徳山駒吉氏と前嶽溝の功績を称えるものがありますね。
その通りです。ダム工事地区から下流は順次コンクリート改修されていますが、昔の姿を残していますし、水路を流れる水は現在も野村の人々に活用されています。
よく分かりました。
では最後に、石碑等の場所を記した地図を貼付しておきます。機会があれば石碑巡りをしてみてくださいね。
終