遍路道標探索の旅Part.7 城下から古三津経由の遍路道を巡る

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 「遍路道標探索の旅」の第7弾。今回は、松山の市街地から太山寺を目指す場合の遍路ルートをご紹介します。石手寺の近くに道後方面と城下方面の遍路道を案内する道標があったことを覚えていますか?これです。

道後方面と松山城下方面との分岐点

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 バス停留所に大きな遍路道標があります。この道標は中務茂兵衛が建立したものでした。記されている文字を確認しましょう。

県道187号と旧道との分岐点に建つ遍路道標〔松山市石手5丁目〕

【県道187号と弓道との分岐点に建つ遍路道標データ】

所在地
松山市石手5丁目
主な碑文
(手印)道後 壹百十七度目為供養建之 周防國大島郡椋野産 施主 中務茂兵衛義教
 左石手寺 伊豫國道後湯月町 施主 玉井大三郎(他3名)
 左松山 為二十三度目供養 大阪市南區難波村 施主 芋熊 田中利兵エ(他1名)/明治二十四年二月吉辰
寸法
31×31×156
備考
下石手バス停留所の側。松山市内にある茂兵衛道標の中で最大のもの。

【参考】遍路道標探索の旅Part.5 日尾八幡神社から道後温泉までのルートを巡る

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 この道標から松山城下へ続く遍路道について、『伊予の遍路道』は次のように記述しています。

城下から古三津経由の遍路道

 「左松山」の指示に従うと西南西方向に城下の町中に向かう。当然のこととして、道後から松山城下を抜けて行く遍路も昔から多かったはずである。この場合、前項に記した城北経由の遍路道には戻らず、松山城下町から三津(みつ)(以下旧三津浜を指す場合、三津という。明治22年〔1889年〕の町村制実施で三津浜町となり、昭和15年〔1940年〕には松山市へ編入合併)を経て太山寺へ向かったようである。

※ 太字は引用者による

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 松山城下-三津-太山寺というルートだったようですね。『伊予の遍路道』に『四国邊路道指南』の記述が引用されています。確認しましょう。

四国邊路道指南より

 松山城下へこれよりひだりへ行。少まわりなれども、諸事自由なるが故に出てよし。それより三津のはまへ一里、なミき。湊町にて賑し。舟屋多し。太山寺ヘハ古三津よりすぐ道も有、すぎ小坂有

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 石手5丁目の茂兵衛道標から松山城下へのルートを現在の地図に書き加えてみました。ご覧ください。

【参考】今昔マップ on the web 松山 ☜ 明治36(1903)年の地図を参照

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 『伊予の遍路道』に「松山城下町から三津を経て太山寺へ向かったようである。」とありましたね。そのルートについて、『伊予の遍路道』の記述を確認しましょう。

城下から古三津経由の遍路道

 松山城下から三津への道は「三津街道」といわれ、藩政時代には参勤交代の藩主は「札の辻」を出て三津から乗船したという重要な街道で、早くから整備されていた。三津街道は現在では、札の辻から木屋町に出て木屋町二丁目の終わりで左折して西進、国道196号を横断し、藩政時代に公儀番所のあった三津口(萱町(かやまち))を過ぎてさらに西へ進み、六軒屋町で県道松山港線(19号)を横断し、衣山・山西町を経て宮前川に至り、三本柳から川の右岸沿いに北上、須賀橋を渡って神田町の厳島神社に至る往還であった。

※ 太字は引用者による

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 記述にある三津街道のルートを現在の地図に書き込んでみました。茶色の線がそれです。ご覧ください。

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 遍路道は緑色の線で示しました。遍路道は山西町で三津街道と分岐し、古三津を経由して太山寺まで続いています。本稿では「札の辻」を出発点とし、太山寺までの遍路道と道標、そして史跡を紹介します。それでは、始めましょう。

札之辻

「松山藩道路元標」と刻まれている

札之辻の由来

 松山札之辻は、松山城と大林寺(城主代々の墓所)を結ぶ紙屋町の通りと、江戸時代松山随一の繁華街であった本町通りとの交差点にあたり、当時松山藩の制札所(高札場とも言う)のあった所で、伊予国の交通の起点となっていた。「松山叢談」によれば、ここから五大街道の里程が始まる。

 「松山札之辻より何里」の石の里程標は、寛保元年(1741年)松山藩主第六代松平定喬公の時に、祐筆の水谷半蔵に書かせたものと伝えられている。

 いま里程標は、各街道に合計三十数本が残存している。

  昭和60年10月 建設省 松山工事事務所

          (社)  四国建設弘済会

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 「札之辻の由来」にもあるように、この場所は藩政時代の高札場であり、伊予国の交通の起点でした。太山寺を目指すお遍路さんたちはここから三津街道を進んだのです。三津街道と遍路道との分岐点以降のルートについて、『伊予の遍路道』の記述を確認しましょう。

城下から古三津経由の遍路道

 三津への遍路道は途中まではこの三津街道を行く。しかし、宮前川河岸までは行かず、その手前の山西町で右折する。北進して伊予鉄道高浜線の線路を山西駅の西で越え、古(ふる)三津をさらに北へ進む。儀光寺前を通過して約200m、四つ辻の北西角に道標が立っている。大正5年(1916年)の建立で、右に太山寺道、左に三津浜道、裏面には右に松山道と三方を示している。

※ 太字は引用者による

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 儀光寺に地域の発展に貢献した人物が祀られていました。遍路道標の前にこちらをご紹介します。

儀光寺

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 儀光寺に祀られている人物の名前は岡田十五郎と言います。

岡田十五郎翁(1790〜1854)

 岡田十五郎翁は寛政二年古三津村に生まれ安政元年に没した。享年六十三歳。

 文政年間、養水不足に苦しむ村の窮状を救うために新池築造の必要性を力説。藩を動かし人々の加勢を得て新池築造に挺身された。この間三年。遂に久万の台の地(現松山西中等教育学校)に大池堤を竣工した。

 しかし、池は出来たがこれを満たす養水の水源地がなく、村民の不平四方に広がった。翁も百方計つきて久枝村の三島神社に七日間の断食祈願をかけた。その結果、「明朝未明山越亀の甲泉から鷹飛び来たり止りたる所に水門を開けよ」との霊夢を得る。ただちに水門の掘削工事に着工。資材を投げうち、困難辛苦の末に遂に完成。水は溜々として流れ込み忽ちにして池は満々の様を呈した。以来農業の振興成り、村民の生活は豊かになった。

 村の窮状を救った翁の功績は今に語り継がれ、崇高な公共心は不滅の光を放っている。

 ◎毎年八月七日 祭日  平成4年盆月 三津土地改良区 記之

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 岡田十五郎翁に関する史跡は市内のあちこちに現存しています。地図で確認しましょう。

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 各地で撮影した写真もあります。どうぞご覧ください。

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 儀光寺には、「天明三年八月」と記された別の石碑もありました。

大乗妙典と記された石碑

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 「大乗妙典」と記された石碑には、自然災害等で亡くなられた方を慰霊するために建立されたものが多いです。天明三年は天明の飢饉浅間山大噴火が発生しているので、この碑はもしかしたら天明の飢饉の犠牲者を慰霊するために建てられたのかもしれませんね。

村上大明神

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 儀光寺と遍路道標の間に社があり、「村上大明神」と記されていました。

村上大明神

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 社の傍に建てられている解説板をご覧ください。

村上大明神 解説板

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 関ヶ原の戦いの際に伊予国で起きた戦乱に関わるものでした。さあ、ここから数m北進すれば、最初の遍路道標のところに至ります。

【参考】三津厳島神社ブログ 三津浜・苅屋畑の合戦

1 三差路に建つ遍路道標〔古三津1丁目〕

【三差路に建つ遍路道標データ】

所在地
松山市古三津1丁目
主な碑文
右太山寺道/大正五年 濱田舛一郎建之
左三津ヶ濱道/右松山道
寸法
31×31×156
備考
下石手バス停留所の側。松山市内にある茂兵衛道標の中で最大のもの。

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 ちなみに、「左三津ヶ濱道」に従って西進すると松山市立宮前小学校に至ります。さあ、太山寺を目指して北に歩を進めましょう。

城下から古三津経由の遍路道

 太山寺への道は、この道標の指示に従ってさらに古三津を北進する。そして東西に走る県道三津浜停車場線(186号)を横断する。この付近は近年の開発のため、古い道筋をたどることはもはや不可能であるという。少し進んで会津公園南の道へ右折すると、公園の道向かいに道を背にして千本地蔵堂がある。地蔵堂の横、道に面して遍路道標2と3が並んで立っている。2基の道標ともその示す方向は実際の目的地と違っている。この地蔵堂と道標は、以前はここから西50m余りの古三津から太山寺へ越える遍路道と久万ノ台から三津へ通じる道路が交差する地点にあって、昭和42年(1967年)に道路改修のため現在地に移されたという。この地蔵は千本地蔵と呼ばれ、松山城を中心に東西南北に建てられた「四方固め」の一つであると伝えられている。堂の周辺には、「大乗妙典六十六部日本廻国」の碑やその他の石造物も残る。

※ 太字及び遍路道標2・3は引用者による

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 千本地蔵堂までのルートを地図で再確認しましょう。

千本地蔵堂〔会津町〕

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 地蔵堂の側面に解説板が取り付けられていました。

「千本地蔵堂の伝説」解説板

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 地蔵堂の横に建てられている二つの遍路道標がこれです。

二つの遍路道標

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 それでは、遍路道標に記された内容を一つ一つ確認しましょう。

2 千本地蔵堂傍に建つ遍路道標(左)〔会津町〕

【千本地蔵堂傍に建つ遍路道標(左)データ】

所在地
松山市会津町
主な碑文
右まつやまみち 左ほり江みち
明治三十七年七月 岡田善太
寸法
備考
千本地蔵堂の裏。道路に面して道標3と並ぶ。

3 千本地蔵堂傍に建つ遍路道標(右)〔会津町〕

【千本地蔵堂傍に建つ遍路道標(右)データ】

所在地
松山市会津町
主な碑文
右へんろみち 左みつ者ま
寸法
40〜46×40×97
備考
千本地蔵堂の裏。道路に面して道標2と並ぶ。これは再建で、地蔵堂とともに移されてきたという。

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 右側の遍路道標について、『伊予の遍路道』は次のように記述しています。

城下から古三津経由の遍路道

 自然石の道標3は再建されたもので「右へんろみち」と「左みつ者ま」とあり、初代道標は松山市港山町の観月山内庭に現存する遍路道標である。

※ 太字及び遍路道標3は引用者による

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 「観月山内庭」とは、港山町にある「遺跡観月庵句碑庭園」のことです。現地を訪れたのですが、民家があり進入することが憚られたため、確認はしていません。『伊予の遍路道』に掲載されている道標の写真のページをリンクさせておきますので、こちらをご覧ください。

【参考】『伊予の遍路道』資料2遍路道標写真 第2章中予の遍路道③ ☜42番の写真をご覧ください。

【観月山内庭に建つ遍路道標データ】

所在地
松山市港山町
主な碑文
右へんろみち 左古みつ村
寸法
40×25×90
備考
観月山内庭の太子堂登り口。もとは、会津町の千本地蔵堂傍にあったもの。

【アクセス】遺跡観月庵句碑庭園

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 民家傍には解説板が建てられています。興味がある方は現地を訪れてみてください。

「遺跡観月庵句碑庭園」解説板

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 太山寺までの遍路道標探索の旅に戻りましょう。千本地蔵堂からの遍路道はいくつかのルートに分かれていたようです。『伊予の遍路道』の記述を確認しましょう。

城下から古三津経由の遍路道

 昭和3年測図2万5千分の1地形図を見ると、このあたりからは幾筋かの道が松ノ木の地蔵坂登り口まで続いていたようである。先述の真念がいう「太山寺へは古三津よりすぐ道も有(り)」とはこのなかの道のことであろうか。現状で確認できる主なものとしては以下のような2本の道があるが、その2本の道の中間にあった水路沿いの遍路道は区画整理など開発のために一部消えているようである。まず1本目は、松山市中須賀と高山町、春美町の開発された住宅地の中を縫って西北の松ノ木に向かい、やがて地蔵坂越えの道、県道辰巳伊予和気停車場線(183号)に出る。出た地点の県道の西側に「南無阿弥陀仏法界 元禄七戌二月」と刻んだ大きな自然石碑が立っている。もう1本は北の山裾(すそ)をめぐる遍路道である。北山町と高山町・春美町、松ノ木1丁目と2丁目の山際の水路沿いを通って西進し、上記の石碑から北方太山寺寄り約150mの地点で県道に合流する。このほかに千本地蔵から西北に進み、中須賀から春美町の中を幾度か曲折して松ノ木に至る道もあるようである。

※ 太字は引用者による

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 これらのルートを地理院地図上に書き加えてみました。ご覧ください。

【参考】今昔マップ on the web ☜ 1903年の地図と現在の地図を比較してみてください。

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 なお、記述にあった大きな自然石碑がこれです。

南無阿弥陀仏法界 元禄七戌二月」と刻んだ大きな自然石碑

【アクセス】大きな自然石碑の場所

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 松ノ木にある大きな自然石碑から北進し、地蔵坂を越えると太山寺に到着です。『伊予の遍路道』の記述を見てみましょう。

城下から古三津経由の遍路道

 県道183号を行く遍路道は北上して行くと次第に上りとなり、地蔵坂にかかる。左側に脇道があって下りると溜池の縁に出る。傍らに小さな地蔵堂がある。また、地蔵坂の峠近くには県道から左に分岐して遍路道が少し残っている。この遍路道は細い山道で少し登ると峠となり、峠を少し下ると右手に地蔵と墓石群がある。そのうちの1基は明らかに遍路墓である。さらに下がると再び県道に合流する。太山寺一の門はその100mほど先にある。

※ 太字は引用者による

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 地蔵坂付近を地図で確認しましょう。

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 溜池の傍らには、今も小さな地蔵堂が存在しています。

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 かつての遍路道は、この場所で現県道183号と分かれて太山寺一の門へと続いていました。

現県道183号と旧道(=遍路道)との分岐点

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 写真の分岐点から左の道を真っ直ぐ進めば、太山寺一の門前に到達します。2025年3月現在は工事車両があり、直接進むことができませんでしたのでお気をつけください。さあ、太山寺に到着です!

太山寺一の門


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 本稿は以上です。次回は太山寺から円明寺を経て粟井坂までの遍路道をご紹介します。次の記事でお会いしましょう。

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