遍路道標探索の旅Part.4 八坂寺から重信川までの別ルートを巡る
「遍路道標探索の旅」の第4弾です。今回は八坂寺をスタートし、part.3とは別のルートで重信川に至るまでの区間にある遍路道標を探索しました。探索ルートを図にまとめましたのでご覧ください。
この地域の遍路道と遍路道標の位置の全体像が分かるように、Part.3の地図に今回の探索ルートを追加してみました。茶色の線が今回のルートで、当記事で紹介するものも茶色で表記しました。さあ、スタートは八坂寺山門前です。
【参考】四国八十八ヶ所霊場会ホームページ 熊野山妙見院 八坂寺
「遍路道標探索の旅Part.3」では山門を出てすぐ左側の小道を進み、文殊院・八つ塚を経由する遍路道と遍路道標を紹介しました。
今回は山門から参道を真っ直ぐ東へ進み、月見大師堂・足跡大師堂を経由する遍路道です。愛媛県教育委員会が平成13年度に刊行した『伊予の遍路道』の記述を確認しながら、遍路道に建てられている道標や常夜燈、史跡を紹介していきます。それでは始めましょう。
1 田んぼの畦道に建つ遍路道標〔浄瑠璃町〕
最初の道標までの遍路道について、『伊予の遍路道』は次のように記述しています。
八坂寺から重信川へ
八坂寺の山門を出た遍路道は、参道をまっすぐ進み、八坂寺バス停から自動車修理工場前の三差路を左折して東に100mほど行くと、田んぼの畦(あぜ)に西林寺を案内する道標が立っている。
※ 太字は引用者による
『伊予の遍路道』刊行後に道路の拡幅工事等開発が行われたためなのか、自動車修理工場前の三叉路が分かりませんでした。ですから参道を東進して県道194号を右折し、(株)アートクラフト・イング(赤色の壁の建物)前の道を左折して遍路道標へと向かいました。この区間の風景を写真でご覧ください。
県道194号を左折して細道を少し進むと、田んぼの畦道に小さな遍路道標が建てられていました。
【田んぼの畦道に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市浄瑠璃町 |
主な碑文 |
(手印)左西林寺江廿五丁 |
寸法 |
23×15〜19×64〜70 |
備考 |
鉄工所前 |
下半分が破損・紛失しているのか、「江廿五丁」の部分が確認できませんでした。残念です。
八坂寺から重信川へ
この道標から東に100mほど進むと浄瑠璃公園に達し、そこを左折して北に100mほど進むと月見大師堂に至る。
※ 太字は引用者による
月見大師堂へ向かう途中、浄瑠璃公園傍にお地蔵様が置かれていたので撮影してみました。
お地蔵様の台座には、お地蔵様を設置した方のお名前と設置年が刻まれていました。設置年は・・・
安◻︎四年 ◻︎四月
◻︎の所が読み取れません。このお地蔵様が江戸時代に設置されたものならば、「安」から始まる元号は「安永(1772〜1781)と「安政(1855〜1860)」の二つしかありません。どちらでしょう?それとも江戸以前?なお、近くにもう一つお地蔵様が設置されていました。
さて、遍路道標探索の旅を続けましょう。月見大師堂は浄瑠璃公園前を左折してすぐの所にあります。
2 月見大師堂〔浄瑠璃町〕
八坂寺から重信川へ
ここには、昭和のはじめころに堂宇が建ち、ご利益を求める参詣者がいたという。しかしその後、信仰がすたれて一坪あまりの場所に石柱と大きな石が残るだけになっていたが、平成6年に地元有志によってお堂が再建され、大きな石碑などが祀(まつ)られている。
※ 太字は引用者による
月見大師堂の側面に由来が記されていたので転記します。
月見弘法大師の由来
昔、おへんろさんが浄瑠璃のある家に泊っていたとき 月光のさえる中で東の方に誰か人が立っているのを見つけたそうです。何と、それが弘法大師様だったので、おへんろさんは「ああ、もったいないこと‼︎ ありがたいことじゃ」と云って一心におがむと大師の姿はぱっと消えて、そこには丸い満月の形をした石が残っていたそうです。
その石には月見弘法大師ときざまれておりました。後に、それが月見大師となり、年々盛んにお祭りがもようされ、縁日には近郷近在からたくさんの参詣者があり、出店もあったそうです。
力を合わせ大師堂を再建し、永く後世に伝えるものです。 平成六年四月二十九日
御堂の中には本当に大きな石が祀られていました。
月見大師堂を離れ、県道207号の方へ向かいました。『伊予の遍路道』の記述を確認しましょう。
八坂寺から重信川へ
このお堂の前の遍路道を200mほど進み、御坂川に架かる矢谷橋を渡って200mほど東に進むと県道三坂松山線(207号)に出合い、道を横切ると「足跡大師堂」がある。
※ 太字は引用者による
3 足跡大師堂〔東方町〕
八坂寺から重信川へ
昭和51年(1976年)に地元有志によって建てられたこのお堂には、弘法大師がつけたといわれる「足跡石」と、「南無大師遍照金剛」と宝号を刻んだ「姿見の石」が祀られている。またお堂の横には井戸もあって、昔は近郷の人々がご利益のある湧(わ)き水を汲(く)みに来たり、遍路もお堂をお参りしていたというが、今は嘉永2年(1849年)と銘記された手水鉢(ちょうずばち)が昔の面影を残すだけとなり、訪れる人も少ない。
※ 太字は引用者による
御堂の右側に手水鉢がありました。これです。
御堂の板に足跡大師の由来が記されていました。
弘法大師がここで水を飲んだのですね。別の面にはこんな額が掛けられていました。
遍路道はここから北へ約180m進んだところにある分岐で県道207号から分かれます。『伊予の遍路道』の記述を確認しましょう。
八坂寺から重信川へ
ここから右に分岐した旧県道を行く遍路道を800mほど北に進むと、国の重要文化財となっている渡部家住宅があり、邸宅の南東角に道標がある。
※ 太字は引用者による
「ここから右に分岐した旧県道」とありますね。県道207号との分岐点がここです。
旧県道に入り次の道標を目指しましたが、そこに至るまでに紹介したいものがたくさんありました。一つ一つ見ていきましょう。
4 旧県道沿いにあるもの〔東方町〕
① 常夜燈
弘化三(1846)年12月に建立されたものでした。「金」=金刀比羅神社、「三」=三島神社、「石」=石鎚神社ですね。ここから北に少し進んだ所に三島神社がありました。
② 三島神社
境内に三島神社の由来と幕末以降の歴史を記した石碑がありましたのでご覧ください。
何と奈良時代初め、藤原不比等らにより『古事記』が編纂された712年に大三島宮から勧請された由緒ある神社でした!私が注目したのは、日尾八幡神社の宮司を務め、揮毫した注連石を数多く残した三輪田米山揮毫の漱石があることです。
もしかして、三島神社の注連石の揮毫も米山じゃないでしょうか?
三輪田米山の石文をまとめたサイトがありましたのでリンクを貼っておきます。興味がある方はご覧ください。
【参考】ブログ「伊代路りんりん」米山
③ 大蓮寺
渡部家住宅の正面にある寺院です。境内に河東碧梧桐の句碑が建てられていました。
④ 渡部家住宅
渡部家は天保十五(1844)年から庄屋を務めた家で、この住宅は慶応二(1866)年に築造されたものです。昭和45(1970)年6月17日に国の建造物重要文化財の指定を受けました。
【参考】「文化遺産オンライン」渡部家住宅(愛媛県松山市東方町)主屋
敷地内に胸像もありました。ご覧ください。
渡部綱興(つなおき)という方の像で、昭和47(1972)年4月に建立されたものです。台座の裏面には彼の業績が記されていました。
県会議員等を歴任した政治家で、果樹振興等に務められた方なのですね。さて、遍路道標探索の旅に戻りましょう。渡部家住宅の南東角に遍路道標が建てられています。
5 渡部家住宅の南東角に建つ遍路道標〔東方町〕
樹木に覆われてしまっていて、残念ながら下部の文字が読めませんね。『伊予の遍路道』の記述を確認しましょう。
【渡部家住宅の南東角に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市東方町 |
主な碑文 |
是ヨリ西林寺江十八丁/嘉永元戊申十月 村中安全 世話人 篠原兵治良(他3名)/古ん飛ら大門ヨリ 二十九里 |
寸法 |
21×19×155 |
備考 |
国指定の重要文化財 渡部家住宅南東角 |
何と嘉永元(1848)年の建立であり、金比羅道標も兼ねたものでした。「歴史的建造物の側には歴史的な道あり」ですね。さあ、さらに北へ歩を進めましょう。
八坂寺から重信川へ
この道標の右側を通り、さらに遍路道をしばらく北に進むと「久米一里 森松へ一里」の標石があり、さらに少し北に進むと個人邸の道に面した庭に「左遍路道」と刻んだ自然石の道標がある。
※ 太字は引用者による
6 「久米一里 森松へ一里」の標石〔東方町〕
正確には「久米一里半」でしたね。この標石が示す方向の風景を確認してみましょう。まず森松方面から。
続いて久米方面の風景です。
ここでもう一度、遍路道標探索ルートの地図を見ておきましょう。
森松方面の道は西大池の方へ続いていますね。現在そこには愛媛県総合運動公園があり、そこを過ぎれば砥部町原町、そして松山市森松町に至ります。
遍路道標探索の旅に戻りましょう。先ほどの標石を久米方面に少し進んだ所にあるのが今回最後の遍路道標です。
7 自然石の遍路道標〔東方町〕
『伊予の遍路道』によれば、「この道標は逆打ち巡拝の方向を示している」ということですが、この場所は本当に分かりにくかったですね。探索のポイントは、すぐ近くにある別の碑です。
ブログ「句碑と石碑」によれば、「雪の中 一服咲いた梅の花」という俳句を刻んだものだそう。ただ、利休というのが千利休のことなのか、他の誰かのことなのか分からないそうです。
【参考】ブログ「句碑と石碑」
この道標からさらに北進すると旧県道は現県道207号と合流し、そのまま真っ直ぐ進むと重信川に至ります。
新旧県道の合流地点の手前に常夜燈と石碑がありましたので、これらを紹介して当記事を終わりにしましょう。
8 旧県道沿いに建つ常夜燈②〔東方町〕
嘉永二(1849)年八月に建立された常夜燈でした。隣にある石碑の文字にも注目しましょう。
この碑は明治14(1881)年秋に建立されたもので、「猿田比古神社」と刻まれています。「猿田比古」とは・・・
サルタヒコ
『古事記』では猿田毘古神、猿田毘古大神、猿田毘古之男神、『日本書紀』では猿田彦命と表記される。
『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)。天孫降臨の際に、天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神。伊勢国五十鈴川のほとりに鎮座したとされ、中世には、庚申信仰や道祖神と結びついた。
【参考】Wikipedia サルタヒコ
どのような経緯で碑が建立されたのかは分かりませんが、かつてはここに社があったのかもしれませんね。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。以下に関連記事をリンクさせておきますので、合わせてお読みください。浄瑠璃寺から浄土寺までの遍路道と遍路道標の場所が分かりますよ。