遍路道標探索の旅 Part.1西条市小松町から西条市氷見を巡る

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 皆さんは「四国遍路」「お遍路さん」について知っていますか?四国遍路世界遺産登録推進協議会のホームページにある解説文を引用しますので、確認しましょう。

四国遍路とは

【参考】四国遍路世界遺産登録推進協議会ホームページ 四国遍路とは

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 今回、西条市小松町から西条市氷見を探索場所として選んだのは、次の2つの理由からです。

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 こうした理由から、この区間にある遍路道標を探索してみようと思い立ったのです。探索の際、参考にしたのが愛媛県教育委員会が平成13年に刊行した「ふるさと愛媛学」調査報告書『伊予の遍路道』で、遍路道標の位置、次の道標までのルート、遍路道標の写真、道標に記された文字全てが記載されています。

【参考】データベース『えひめの記憶』:『伊予の遍路道』目次

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 それでは、まず最初に今回探索した区間にある遍路道標の位置を地図で確認しましょう。遍路道標が全部で38基もあります。

遍路道標が設置されている場所〔国土地理院電子国土基本図から作成〕
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 すごい数でしょう。当記事では、①『伊予の遍路道』の記述→②道標の写真→③道標のデータの順にまとめていきます。それでは始めましょう!

⑴ 中山川から清楽寺へ

『伊予の遍路道』の記述

 中山川から清楽寺への遍路道は、東予市石田を過ぎてJR予讃線の中山川鉄橋あたりで中山川を渡り、田んぼのあぜ道を400mほど南東方向に進む。このあぜ道が北西から進んできた丹原町に至る道と交差する地点に、清楽寺・香園寺・大峰寺への道を示した道標【1】が立っている。道標の指示に従い田園の中を南東方向に進み、JR新宮踏切手前約100mの四つ角を左折東進して300mほど進んだのち、右折して南に進むと清楽寺に至る。

 ※ 太字及び【1】は引用者による。

中山川鉄橋と遍路道標
Teacher

 遍路道標に刻まれている文字を写真で確認しましょう。

【遍路道標1データ】

所在地
小松町新屋敷新宮
主な碑文
(手印)四國六十番前札清楽寺 大峰寺 同六十一番札所香園寺 道
明治三十五年四月建立 願主豊田寛道
施主〔以下不明〕
(手印)西山久妙寺生木 周桑郡役所 道
寸法
30×36×95
備考
JR予讃線中山川鉄橋南の農道の分岐点

遍路道標1から清楽寺へ向かう道
Teacher

 清楽寺は初めて訪れましたが、思った以上に大きな寺院でした。

『伊予の遍路道』の記述

 清楽寺境内には、明治前半期の横峰寺との関係をしのばせる「横峯遥拝石」と「四國六十番札所大峰寺道 四國六十番前札清楽寺道 仝(どう)寺ヨリ六十一番ヱ四丁 仝寺ヨリ六十二番ヱ八丁 ホカ二六十番前札ナシ」と刻まれた円柱道標【2】がある。清楽寺住職の**さん(昭和14年生まれ)の話によると、この道標は30年ほど前までは、国道11号大頭交差点に立っていたようで、「ホ力二六十番前札ナシ」と特にことわっているのは、大頭にある妙雲寺との関係を意識したものであるとのことである。

 ※ 太字及び【2】は引用者による。

横峯遥拝石
遍路道標2

【遍路道標2データ】

所在地
小松町新屋敷新宮
主な碑文
(手印)四國六十番札所大峰寺道(手印)四國六十番前札清楽寺道 同寺ヨリ六十一番ヱ四丁 同寺ヨリ六十二番ヱ八丁 ホカニ六十番前札ナシ
明治廿年九月吉日 施主〔以下不明〕
寸法
直径37.5 高さ131
備考
清楽寺境内 もとは国道11号大頭交差点東側にあった

『伊予の遍路道』の記述

 清楽寺西方のJR予讃線新宮踏切北側には、正面に「左へんろ道」、右に「南無大師遍照金剛」と刻まれた小さな道標【3】がある。この道標は、このあたりの農道が主な清楽寺への道であったことを示しているが、ルートの確定は困難である。

 ※ 太字及び【3】は引用者による。

【遍路道標3データ】

所在地
小松町新屋敷新宮
主な碑文
左へんろ道/南無大師遍昭金剛/施主 横田屋八郎兵衛/元文四未十一月吉日
寸法
16×15×65
備考
JR新宮踏切南

⑵ 清楽寺から香園寺へ

遍路道標が設置されている場所〔国土地理院電子国土基本図から作成〕

『伊予の遍路道』の記述

 遍路道は、清楽寺からJR予讃線の線路をくぐって南東に200mほど進み、三嶋神社前の国道11号との交差点に至る。交差点北側に円柱の道標【4】があり、清楽寺への道を示している。

 ※ 太字及び【4】は引用者による。

【遍路道標4データ】

所在地
小松町新屋敷藤木
主な碑文
(手印)四國六十番前札所清楽寺 発願主豊田寛道 明治□年九月吉日 今在家村 施主和田屋利平 文久四年甲子二月吉日
寸法
直径38 高さ158
備考
国道11号三嶋神社交差点北側。もとは三嶋神社北にあった。

Teacher

 ちなみに、和田屋利平(1809〜1890)は小松藩の両替商を務めていた人物です。

『伊予の遍路道』の記述

 国道を渡って三嶋神社前の三差路に至ると、利平の円柱道標【5】茂兵衛の角柱道標【6】が立っている。三嶋神社入口右の灯ろう前に立つ利平道標【5】は、ここが讃岐街道・今治街道・遍路道の結節点であることを示している神社前の道路東側に立つ茂兵衛道標【6】には、「旅う禮し 太だ一寿じ尓 法の道」という句が刻まれている。この辺りの遍路道は、『同行二人 四國遍路たより』によると、清楽寺から三嶋神社前の三差路を経て、三嶋神社左手の田んぼの小道を通って、香園寺へと進んでいたようであるが、現在その道は残っていない。

 ※ 太字及び【5】【6】は引用者による。

Teacher

 まずは利平の円柱道標から確認しましょう。

【遍路道標5データ】

所在地
小松町新屋敷舟山
主な碑文
(手印)こうおんじ(手印)今治道こくぶん寺四里半(手印)松山道いわやさん 施主和田屋利平 文久四年甲子二月吉日
寸法
直径38 高さ133
備考
三嶋神社灯ろう前

Teacher

 続いて、茂兵衛の角柱道標です。

【遍路道標6データ】

所在地
小松町新屋敷舟山
主な碑文
(手印)六十一番香園寺 施主 但馬國出石郡弘善講 資母村 永井三郎左ヱ門(他5名) 發起人小牧幾蔵(他2名)
明治卅三年十月吉辰 但馬國 石井新蔵
(手印)六十二番一の宮寶寿寺 壹百七十九度目為供養建 周防國大島郡椋野村住 施主中務茂兵衛義教
旅う禮し 太だ一寿じ□  法の道
寸法
33×33×125
備考
三嶋神社前交差点東

Teacher

 中務茂兵衛は、明治から大正にかけて四国八十八箇所霊場を巡拝し続けた人物です。周防大島を出奔した22歳頃から巡り続け、その数279巡と87ヶ所と、現代でも破られることのない記録を持っています。

『伊予の遍路道』の記述

 三嶋神社前から南西に250mほど進むと、香園寺参道入口に至る。参道入口前道路左手に、清楽寺への道を示した利平道標【7】「右へんろ」と刻まれた小さな道標【8】香園寺・宝寿寺・横峰寺への道を示した道標【9】が並んで立っている。

 ※ 太字及び【7】【8】【9】は引用者による。

【遍路道標7(右)データ】

所在地
小松町新屋敷舟山
主な碑文
(手印)六十番清楽寺へ二丁 へんろ (手印)へんろ 明治十四年 願主和田屋利平
寸法
直径25  高さ65
備考
香園寺参道入口 道標8、9と並んで立っている

【遍路道標8(中)データ】

所在地
小松町新屋敷舟山
主な碑文
右へんろ/施主 佐木(以下不明)
寸法
14×14×40
備考
香園寺参道入口 道標7、9と並んで立っている

【遍路道標9(左)データ】

所在地
小松町新屋敷舟山
主な碑文
(手印)六十一番香園寺 (手印)六十二番寶壽寺/(手印)六十番 横峯寺/昭和六年十二月/福岡縣嘉穂郡飯塚市 加藤孫三
寸法
25×18×80
備考
香園寺参道入口 道標7、8と並んで立っている

Teacher

 この遍路道標が示す通りに道を進むと、突き当たりに香園寺があります。

四国六十一番霊場 香園寺

⑶ 香園寺から岡村を経ておこやへ

遍路道標が設置されている場所〔国土地理院電子国土基本図から作成〕

『伊予の遍路道』の記述

 前出の**さんの話によると、香園寺からおこやへの遍路道は、香園寺境内と同寺駐車場の間の道を南東に60mほど直進して左折し、200mほど東に進む道であったという。かつてこのあたりに「左へんろみ□」と刻まれた自然石の道標【10】があったが、現在は300mほど東南にある墓地の中に移設されている

 ※ 太字及び【10】は引用者による。

遍路道標10

【遍路道標10データ】

所在地
小松町新屋敷川原谷
主な碑文
左へんろみ□(手印)
寸法
備考
自然石。老人医療施設から南に100m下った墓地の中。もとは別の場所にあった。

『伊予の遍路道』の記述

 この後、左折して30mほど進むと、**邸西の植え込みの中に、宝寿寺・香園寺・大峰寺への道を示した茂兵衛道標【11】がある。「地主 岡田和平」と刻まれたこの道標は、建立以来移動していないと考えられる。道標が指し示す方向には、あぜ道が続いている。

 ※ 太字及び【11】は引用者による。

【遍路道標11データ】

所在地
小松町新屋敷川原谷
主な碑文
(手印)六十二番寶寿寺 壹百九十三度目為供養 周防國大島郡椋野村住 願主中務茂兵衛義教
(手印)六十一番香園寺 (手印)六十番大峰寺 施主 長崎市信徒中 田中スギ(他9名)
 明治三十六年二月吉辰 地主 岡田和平
寸法
34×29×180
備考
個人宅西の植え込みの中

『伊予の遍路道』の記述

 あぜ道を約100m東進し、松山自動車道のサービスエリア「石鎚山ハイウェイオアシス」に至る道を横切ると、幅2mほどの舗装された道が東に延びている。そこから200mほど進み、小松高等学校への通学路を横切って住宅の裏側を100mほど行くと、小松川の西岸に出る。そこを左折して少し北上し、小松橋を渡る。東に50mほど進むと、道路右手に大峯寺と香園寺への道を示した茂兵衛道標【12】が立っている。

 ※ 太字及び【12】は引用者による。

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 小松橋は大正15年に架設された橋で、親柱の上に高々と灯りが付いていて、非常にモダンな建築物です。

小松橋〔大正15年2月架設〕
Teacher

 小松橋を渡ってすぐの所に遍路道標12があります。

【遍路道標12データ】

所在地
小松町新屋敷西町
主な碑文
(手印)大峯寺 神戸信徒中 施主 中村コウ(他7名)
(手印)香園寺 神戸信徒中 施主 九度目為供養 坂井ウタ(他7名)
 明治三十六年十二月□□/壹百九十八度目為供養 周防國大島郡椋野村住 願主中務茂兵衛義教
寸法
33×27×120
備考
小松橋東

『伊予の遍路道』の記述

 道標の指示に従い、西町・旧藩の住宅地の細道を400mほど南東に進むと、小松藩主の菩提寺であった仏心寺前の四つ角に出る。仏心寺を西に見ながら直進し、約200m進んで三差路を左折するとすぐ、南柯(なんか)公民館西の三差路に至り、三差路東の民家のブロック塀に隣接して、大峯寺と香園寺への道を示した茂兵衛道標【13】がある。このあたりが岡村の北端である。

 ※ 太字及び【13】は引用者による。

【遍路道標13データ】

所在地
小松町新屋敷岡村
主な碑文
(手印)大峰寺 壹百八十七度目為供養建之 周防國大島郡椋野村住 願主中務茂兵衛義教
 明治三十五年二月吉辰/(手印)香園寺 近江國大津先達 東新助(他4名) 大阪講信者 施主 安東喜助(他9名)
寸法
30×30×160
備考
個人宅北

『伊予の遍路道』の記述

 そこから住宅地の中の道を南に400mほど進むと、道路左手に地蔵堂があり、少し進んで小松川支流に架かる橋を渡ると三差路に至る。三差路の分岐点に、ほとんどアスファルトに埋もれた状態で正面に手印、右側に「文政四」(1821年)と刻まれた道標【14】がある

 ※ 太字及び【14】は引用者による。

【遍路道標14データ】

所在地
小松町新屋敷岡村
主な碑文
(手印)(以下不明)/文政四(以下不明)
寸法
備考
地蔵堂南の三叉路付近

Teacher

 下の写真は、地蔵堂から遍路道標14方向を撮影したものです。

地蔵堂付近の風景
Teacher

 三叉路の左側の道が横峰寺へ続く遍路道になりますが、今回の探索はここで引き返し、小松町〜氷見にある道標探索を続けました。機会があれば、ここからさらに南へ向かってみようと思います。

遍路道標が設置されている場所〔国土地理院電子国土基本図から作成〕

⑴ 陣屋町を経て宝寿寺へ

Teacher

 ここからは香園寺を出発点とし、吉祥寺へ向かう道中にある遍路道標を紹介していきます。『伊予の遍路道』の記述を見てみましょう。

『伊予の遍路道』の記述

 遍路道は、駐車場前の徳右衛門道標【15】及びその右に立つ道標【16】の指示に従って、参道を北東に進む。

 ※ 太字及び【15】【16】は引用者による。

【遍路道標15(左)データ】

所在地
小松町新屋敷向原甲
主な碑文
(梵字)(大師像)是より一ノ宮迄八丁/(手印)一ノ宮寺 越智郡朝倉上村 施主 □太郎/願主 徳右ヱ門
寸法
24×21×148
備考
香園寺駐車場入口北。遍路道標16と並んで立っている。

【遍路道標16(右)データ】

所在地
小松町新屋敷向原甲
主な碑文
(矢印)六十二番 へんろ
寸法
42×14×59
備考
香園寺駐車場入口北。遍路道標15と並んで立っている。

『伊予の遍路道』の記述

 参道の中ほどにある子安橋を渡って100mほど進むと、前述の3基の道標7・8・9がある交差点に出る。舟山と三嶋神社の右側のあぜ道を北東に進むと、前述の利平道標5と茂兵衛道標6がある三嶋神社前に至る。道標6に従って東に100mほど進み藤木橋を渡り30mほど進むと、道は2方向に分岐する。右の道は、小松藩時代の陣屋町を通る遍路道(讃岐街道)、左直進の道は、現在多くの歩き遍路に利用されている道である。
 右の道を行き、東南に90mほど進むと「西町地蔵」を祀る地蔵堂がある。この地蔵は、享保8年(1723年)天然痘流行の際、町の人々が悪病の進入阻止祈願のために藩の許可を得て、町の東西南北の四つ辻(つじ)に建立したものであるという。さらに東南に進み、小松小学校の西南角で右折し50mほど進んで左折すると、藩政時代の中心街西町・中町に至る。その手前、個人宅西に「右遍んろ道」と刻まれた道標【17】がある。

 ※ 太字及び【17】は引用者による。

【遍路道標17データ】

所在地
小松町新屋敷西町
主な碑文
(手印)右遍んろ道/弘化四未年三月/大阪 山口屋富助
寸法
27×20×185
備考
個人宅西

『伊予の遍路道』の記述

 遍路道は、西町・中町の町並みを250mほど東に進むと、道路右手に道標【18】が立っている。

 ※ 太字及び【18】は引用者による。

【遍路道標18データ】

所在地
小松町新屋敷中町
主な碑文
(手印)六十番大峯寺道/奉寄進 世話人 山屋藤造(他2名)/慶應四年辰五月吉日
寸法
18×25×150
備考
個人宅西

『伊予の遍路道』の記述

 なお、近くにある小松町中央公民館の正面入口の右下にも道標【19】がある。昭和54年(1979年)の公民館開館とともに移設されたというが、詳細は不明である。

 ※ 太字及び【19】は引用者による。

【遍路道標19データ】

所在地
小松町新屋敷旧藩
主な碑文
(手印)六十三番/(手印)六十番六十一番
寸法
20×15×100
備考
小松町中央公民館正面入口右下

『伊予の遍路道』の記述

 宝寿寺への道は、道標【18】から東へ200m余り進み、四つ角を左折して、駅前通りを350mほど北に進み、国道11号を横切りJR伊予小松駅に至る。駅前交差点西側に「四国六十二番宝寿寺 四国六十三番吉祥寺」と刻まれ戦後に建てられた道標【20】がある

 ※ 太字及び【18】【20】は引用者による。

JR伊予小松駅前の交差点にある遍路道標

【遍路道標20データ】

所在地
小松町新屋敷宝来町
主な碑文
(手印)四国六十二番宝寿寺/(手印)四国六十三番吉祥寺/世話人 真鍋文吉〔大正12年5月24日 丸文食堂創業者〕
寸法
備考
JR伊予小松駅前、マルブン脇に立っている 

Teacher

 この遍路道標の世話人である真鍋文吉の子孫の方は代々食堂の経営を受け継いでいます。現在はイタリアン・レストランとして多くの人々が詰めかける人気店になりました。ぜひ行って見てください。

【参考】マルブン 小松本店ホームページ

『伊予の遍路道』の記述

 駅前交差点を左折し、しばらく行くと宝寿寺に至る。山門前には、「一国一宮別當寶壽寺」と刻まれた大きな石柱が立っている。

四国六十二番霊場 宝寿寺

『伊予の遍路道』の記述

 なお、讃岐街道をJR伊予小松駅に向かって左折せず、そのまま東進し、常盤神社角で左折し北に50mほど進むと小さな四つ角に出る。その隅に一の宮(宝寿寺)への道を示した道標【21】がある。

※ 太字及び【21】は引用者による。

【遍路道標21データ】

所在地
小松町新屋敷東町
主な碑文
(手印)右こんひら/天保九 春立/(手印)一の宮道
寸法
備考
個人宅西

⑵ 藤木橋より宝寿寺へ

遍路道標が設置されている場所〔国土地理院電子国土基本図から作成〕

『伊予の遍路道』の記述

 藤木橋を渡って分岐した道のうち、もう一本の現在遍路が多く利用する道は左側の直進路をとり30mほど進むと、道の左側ガードレールの奥に、茂兵衛88度目の道標【22】が立っている。

※ 太字及び【22】は引用者による。

【遍路道標22データ】

所在地
小松町新屋敷西町
主な碑文
(手印)四國第六十二番一ノ宮道/紀伊國牟妻郡字久井村 願主 東勇左衛門
 八十八度目為供養 周防國大島郡椋野邑 施主 中司茂兵衛建之/明治十九年二月吉辰
寸法
30×30×118
備考
藤木橋東

『伊予の遍路道』の記述

 小松町役場と小松郵便局の南側を過ぎて150mほど直進すると四つ角に至る。この四つ角にかつて立っていた、吉祥寺・香園寺・横峰寺・宝寿寺への道を示した道標【23】は、現在は宝寿寺山門前右側に移設されている。四つ角を左折して国道を横切ると宝寿寺に至る。

※ 太字及び【23】は引用者による。

【遍路道標23データ】

所在地
小松町新屋敷宝来町
主な碑文
(手印)六十三番吉祥寺(手印)六十一番香園寺/昭和六年十二月
(矢印)横峯寺(矢印)寶寿寺/福岡縣京都郡行橋町 菅伊之作
寸法
24×19×111
備考
宝寿寺山門入口右の灯ろう裏

⑶ 宝寿寺から吉祥寺へ

遍路道標が設置されている場所〔国土地理院電子国土基本図から作成〕

『伊予の遍路道』の記述

 宝寿寺近くのJR伊予小松駅西の一本松踏切横に、上に地蔵が乗った茂兵衛の円柱道標【24】がある。しかし、JR予讃線の北に位置する一本松地区には、現在道標等も残っておらず、宝寿寺が一ノ宮の地にあった大正時代以前の遍路道は、今となっては定かではない。

※ 太字及び【24】は引用者による。

【遍路道標24データ】

所在地
小松町新屋敷宝来町
主な碑文
(地蔵像)(手印)香園寺 明治卅四年八月吉辰 施主 中務茂兵衛
(手印)吉祥寺 豊後國海部郡中ノ村 吹田由太郎
寸法
上地蔵像、下円柱直径39 高さ79
備考
JR伊予小松駅西 JR一本松踏切西線路横

『伊予の遍路道』の記述

 宝寿寺山門を入ると、正面に本堂、右に大師堂、左に納経所、通夜堂、鐘楼などが配置されている。宝寿寺山門の外側に5基の道標がある。山門手前の参道右には前述した道標【23】がある。参道左には、4基の道標【25】~【28】が並んで立っている。一つ目は明治28年(1895年)の道標【25】である。二つ目は円柱の利平道標【26】である。三つ目は横峰寺・香園寺・宝寿寺・吉祥寺への道を示した道標【27】である。四つ目は徳右衛門道標【28】である。さらに宝寿寺境内のソテツの前に、「右一の宮」と刻まれた真念道標があったが、現在は宇和町にある愛媛県歴史文化博物館に保管展示されている。

※ 太字及び【23】【25】【26】【27】【28】は引用者による。

【遍路道標25〔一番左〕データ】

所在地
小松町新屋敷宝来町
主な碑文
(手印)順吉祥寺 七丁発起佛徳/(手印)逆香園寺へ八丁/明治廿八乙未三月吉祥日/六十二番宝寿寺
寸法
30×30×150
備考
宝寿寺山門入口左。26・27・28と並んで立っている

【遍路道標26〔左から二番目〕データ】

所在地
小松町新屋敷宝来町
主な碑文
(手印)香園寺 吉祥寺 道 六十二番宝寿寺 明治十四年五月吉日 願主 和田屋利平
寸法
直径24 高さ130
備考
宝寿寺山門入口左。25・27・28と並んで立っている

【遍路道標27〔左から三番目〕データ】

所在地
小松町新屋敷宝来町
主な碑文
(手印)六十番横峯寺 六十一番香園寺/(手印)六十二番宝寿寺/(手印)六十三番吉祥寺/駅前寄附 世話人 真鍋文吉(他1名)
寸法
30×15×150
備考
宝寿寺山門入口左。25・26・28と並んで立っている

【遍路道標28〔一番右〕データ】

所在地
小松町新屋敷宝来町
主な碑文
(梵字)(大師像)右 これより吉祥寺七丁/越智郡朝倉上村施主 忠左ヱ門/願主 徳右ヱ門
寸法
25×21×137
備考
宝寿寺山門入口左。25・26・27と並んで立っている

『伊予の遍路道』の記述

 宝寿寺を打ち終えると遍路道は、山門前を東に100mほど進み、JR伊予小松駅前に立つ道標に従って右折、30mほど南に進むと国道11号交差点に至る。ここを左折して国道を東に進む。また、JR伊予小松駅前を直進し、東に200mほど進むとJR伊予小松駅東踏切があり、踏切の手前線路横に円柱の利平道標【29】がある。

※ 太字及び【29】は引用者による。

【遍路道標29データ】

所在地
小松町新屋敷宝来町
主な碑文
(手印)吉祥寺(手印)一之宮道 施主 和田屋利平 文久四年甲子二月吉日
寸法
直径38 高さ109  
備考
JR伊予小松駅東踏切西線路横 

『伊予の遍路道』の記述

 道標の指示に従って右折して、60mほど進むと国道と合流し、左折して国道を600mほど進むと、西条市氷見乙竹内の三差路に至る。かつてこの地点に茂兵衛道標があったが、現在は宇和町にある愛媛県歴史文化博物館に保管展示されている。さらに200mほど進むと、「吉祥寺 一之宮 御大典記念道」と刻まれた道標【30】がある。この道標は、平成12年年末の歩道橋改修工事の際に上端から50cmくらいのところで折れ、現在は倒れている。

※ 太字及び【30】は引用者による。

Teacher

 現地を訪れてみると、遍路道標30は新しい道標に変わっていました。写真をご覧ください。

【遍路道標30データ】

所在地
西条市氷見乙竹内
主な碑文
(手印)吉祥寺一丁(手印)一之宮七丁 昭和三年十一月 御大典記念道
寸法
32×17×110
備考
 個人宅東南隅。国道11号沿い。

『伊予の遍路道』の記述

  東に150mほど進むと国道左手に石灯ろうがあり、そこで左折し、100mほど北に進むと、吉祥寺と宝寿寺を手印で示した茂兵衛道標【31】がある。ここで、右折し60mほど進むと、吉祥寺北門に至る。
 宝寿寺から吉祥寺への道としては、このほかにもJR伊予小松駅から南に進んで、讃岐街道に戻り、東に向かう道もあったと考えられるが、現在この街道上には道標等も残っておらず、遍路道は定かではない。

※ 太字及び【31】は引用者による。

Teacher

 国道左手に立つ石灯籠がこれです。国道沿いにあり、かなり目立っていました。

Teacher

 昭和18年に再建されたものでした。ここから北へ少し進むと、遍路道標31があります。

【遍路道標31データ】

所在地
西条市氷見乙寺の下
主な碑文
(手印)吉祥寺(大師像)先祖代々 當病平癒 家内安全 海上安全 施主 越後國新潟市大川前通十二番町 片桐寅吉
(手印)寶寿寺 壹百九十七度目為供養 周防國大島郡椋野村 願主 中務茂兵衛義教/明治三十六年十二月 地主 村上茂平
寸法
35×28×158
備考
個人宅西側の三つ角

遍路道標が設置されている場所〔国土地理院電子国土基本図から作成〕
Teacher

 「遍路道標探索の旅」もいよいよ最終局面です。吉祥寺にある遍路道標を紹介しましょう。

四国六十三番霊場 吉祥寺

『伊予の遍路道』の記述

  六十三番吉祥寺は国道11号沿いにあり、境内中央に本堂、その左右に大師堂と庫裏(くり)が配置されている。〔中略〕境内には5基の道標が現存している。まず、かつて寺の正門であったという北口には武田徳右衛門の道標【32】がある現在の正門である東口山門の下にも道標【33】があり、ここには「これより一丁南かち水あり」と柴井の泉への案内が刻まれている。また、自動車の出入り口となっている南口にも3基の道標が並んで立っているが、うち一番右の道標【34】は金毘羅道標としての役割も兼ねており、左の道標【36】と中央の道標【35】はいずれも明治14年(1881年)に和田屋利平(利兵衛)によって建立されたものである

※ 太字及び【32】【33】【34】【35】【36】は引用者による。

Teacher

 金毘羅道標としての役割を兼ねているという遍路道標34は境内にはありませんでしたので、データのみ記載します。それでは遍路道標をご覧ください。

遍路道標32

【遍路道標32データ】

所在地
西条市氷見乙寺の下
主な碑文
(梵字)(大師像)吉祥寺 これより前神寺へ廿丁/願主 徳右ヱ門/越智郡中村 施主 九兵衛
寸法
24×20.5×128
備考
吉祥寺北口

【遍路道標33データ】

所在地
西条市氷見乙寺の下
主な碑文
四国第六十三番吉祥寺/安永九子天 三月吉日/これより一丁かち水あり 施主 山道講中/右へんろ道これより前神寺へ廿丁
寸法
24×24×130
備考
吉祥寺東ぐちの境内山門下。以前は山門の外にあった

【遍路道標34データ】

所在地
西条市氷見乙寺の下
主な碑文
(手印)右へんろ道/前神寺迄二十丁 三角寺迄十里半 金毘羅大門迄十九里八丁
寸法
36.5×35×155
備考
現存せず

【遍路道標35データ】

所在地
西条市氷見乙寺の下
主な碑文
(手印)石土神社 へんろ道/明治十四年巳五月吉日 願主 和田屋利平
寸法
28×16×98
備考
吉祥寺境内南口。移設されたものである。

【遍路道標36データ】

所在地
西条市氷見乙寺の下
主な碑文
(手印)吉祥寺道(手印)宝寿寺道 明治十四年巳五月吉日 願主 和田屋利平
寸法
28×16×98
備考
吉祥寺境内南口の円柱形の道標。移設されたものである。

『伊予の遍路道』の記述

  吉祥寺を出て国道11号を横切り、住宅街の中の細い道を南に行くと、歯科医院の敷地の角に円柱形の道標【37】が立っている。遍路道はここで、松山から東進してきた讃岐街道(金毘羅街道)と合流し、伊予三島市中之庄町の「へんろわかれ」に至るまで讃岐街道と一致して進むことになる。

※ 太字及び【37】は引用者による。

【遍路道標37データ】

所在地
西条市氷見乙下町
主な碑文
(手印)逆へんろ道 安政五年戊午 (手印)左 へんろ道
寸法
直径42  高さ102
備考
歯科医院駐車場の隅にある円柱形の道標

Teacher

 この遍路道標は讃岐街道沿いにあります。ここで、讃岐街道の現況を見ておきましょう。

Teacher

 ここから東へ進み、遍路道標探索の旅を終えました。それでは最後の遍路道標です。どうぞ!

『伊予の遍路道』の記述

  さて、讃岐街道と合流した遍路道は東に向かう。静かな住宅地の間を行くと、新御堂児童公園の前に道標【38】がある

※ 太字及び【38】は引用者による。

【遍路道標38データ】

所在地
西条市氷見新御堂
主な碑文
(手印)右遍んろ道 願主 細束 十亀万/左西條道
寸法
22×17×102
備考
新御堂のお旅所前


Teacher

 本稿は以上で終わります。かなり長くなってしまいましたが、ここまでお読みいただき、ありがとうございました。他の地域の遍路道標については、機会を見つけて探索し、記事にまとめたいと思います。

【関連記事】「松山札辻より○里」里塚石を探索せよ!讃岐街道編

 ※ 松山藩が街道上に設置した里塚石をまとめたものです。街道中に建てられている遍路道標や常夜燈もあります。合わせてご一読ください。

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