西予市明浜町高山の集落の密集状態はどのように形成されたか?①
前回は、2種類の消火栓が設置されている理由について、リアス海岸の特徴と関連させて説明しました。今日は、高山の集落が形成された過程を確認していきましょう。
リアス海岸の入り江に形成された集落の特徴は、「後背地は山地で海岸に近いため平地が乏しく、住居が密集している」でしたね。
そうでしたね。住居が密集している状態を航空写真で確認しましょうか。
本当に「密集」という言葉通りですね!
Erikoさん、この密集状態はどのようにしてできたと思いますか?
それはやはり、短期間に多くの人が高山に集まったからではないでしょうか。
その通りです。高山の人口推移を表したグラフを見てください。
江戸、明治、昭和のそれぞれの時代に人口が急増していますね。
これらの人口急増には、時代ごとの背景があります。今から確認していきましょう。
はい。
① 西予市明浜町高山の沿革
まず最初に、高山の沿革を確認しましょう。明浜歴史民俗資料館には、縄文期の釣り針や弥生期の石斧をはじめ、漁労用具や船舶用具が多数展示されていますので、その頃にはすでに人々が生活をしていたようです。
【参考】「せいよじかん」一般社団法人西予市観光物産協会ホームページ
「高山地区の人口推移」のグラフでは1652年の人口が非常に少ないから、もしかしたらこの頃はもっと少なかったかもしれませんね。
おそらくそうでしょう。以後の沿革について、『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13 -西予市①-』の記述を引用しますね。
高山の沿革
「高山」は昔から高山本浦、宮野浦、田之浜の全地区を含めた地名で、高山本浦は高山村と明浜町の時代を通して村役場と町役場がそれぞれ置かれた政治と行政の中心地であり、その歴史は古い。二葉山賀茂神社は寛治4年(1090年)の勧請と伝えられ、妙光山金剛寺の東部にある「城の森」と呼ばれる場所は中世末期の高山城主である宇都宮氏が居城とした道山城の跡地である。また、天正7年(1579年)、土佐(現高知県)の長宗我部氏との戦いの際に務田(現宇和島市三間町)で討ち死にしたと伝えられる宇都宮正綱公を祀った若宮神社はそのころの創建と伝えられ、宇都宮正綱廟と明治14年(1881年)に地域の方々が奉納したカッパの狛犬がその歴史を現代に伝えている。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13 -西予市①-』 ※ 下線及び太字は引用者による
なるほど。戦国時代に城も築かれていたのですね。高山は「高山本浦、宮野浦、田之浜の全地区を含めた地名」とありますが、宮野浦や田之浜はどの辺りにあるのですか?
明浜町にある集落の名称と場所を地図で確認しましょう。入り江にあるオレンジ色が集落を表しています。
西から順番に「田之浜」「宮野浦」「高山」「狩浜」「渡江」「俵津」と六つの集落がありますね。
中でも高山と俵津が比較的規模の大きい集落で、かつては村役場が置かれた時代もあったのですよ。明浜町が成立する際には、どちらが町舎を設置するかで争ったこともあるくらいです。
そんなこともあったのですね。
では次に、『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13 -西予市①-』の記述にある二つの神社について紹介しましょう。高山の人々の信仰と暮らしの在り方がよく分かります。
賀茂神社
神社由緒
当社は元久以前、後鳥羽天皇以後に創立された。
寿永治承元暦の頃、源義経が功に依り伊予国を所領としたが、「社伝宇和日記」に「此の時佐藤一家予州の奉行を蒙る」とあり、「此国に向う時、京賀茂川を渡るに賀茂大明神矢筈に乗給うを勧請し奉る也」とあって、佐藤一家がその守護神である賀茂大明神を勧請したのに始まる。」
『愛媛県神社庁』ホームページ
後鳥羽天皇というのは、承久の乱を起こした後鳥羽上皇のことですね。源義経の名前があるということは、平安時代の終わり頃の創建ということですね。
その通りです。秋の大祭・宵祭りの日には、数十名の若者たちが海で身を清める「潮垢離〔しおごり〕」の行事が今に引き継がれています。
すごい行事ですね。
この行事の本当の凄さは写真だけでは伝わりません。毎年10月の第4土・日曜日に開催されますから、ぜひ高山へ行ってみてください。YouTubeにもいくつか動画がありますから、見てくださいね。
はい。
それから、鳥居の前に常夜燈が二基あります。これも高山の人々と賀茂神社とのつながりを示すものです。
賀茂神社の常夜燈
ここの二基の常夜燈は、高山本浦の若者組が明治9(1876)8月に賀茂神社に奉献したものである。
建立後、毎夜の燈火をつける役は若者が交代で当り、若者宿がなくなるまで続いたと言われる。
南側〔県道沿〕の一基には奉献者 竹原長太朗ら12人の氏名が刻まれてあり、高山5か所の宿の24歳までの年長者連中である。
北側〔忠魂碑裏〕の一基には『奉献宇都宮惣左衛門内吉田彦六他若者中』とあるので宇都宮家を宿とする者全員の寄進と考えられる。
昭和62年10月1日指定 西予市教育委員会 ※ 数字は、もとは漢数字である。
なるほど。これも若者たちの役割だったのですね。
どの地域もそうですが、年齢集団ごとに役割を設けて次の世代へ方法等を伝え続けることで、伝統行事を継承しているのです。さて、賀茂神社で撮影した写真がありますので、見てください。
犬養毅の揮毫!高山で犬養毅の名前を見るとは思いませんでした。
そうでしょう。地域を学ぶと色々な発見がありますよね。さて、次は若宮神社です。
若宮神社
若宮神社は、賀茂神社から北東へ約150m離れたところにあります。
本当だ。近い場所にありますね。
若宮神社の由来を確認しましょう。
若宮神社由緒
正綱公は高山城主宇都宮長雲の子で、社伝宇和旧記によれば「此正綱三間岡本城へ土州長曾我部責寄合戦ノ時討死ノ由追討の詩アリ」と記して「高山修理太夫正綱公豫土防戦の砌三間岡本城に籠居焉戦軍動天地鳴呼悲哉正綱公勿戦死矣」(詩略)公の戦死は天正12年2月で、その後、間もなく創祀された。
天保13年に再建し、明治13年に改築された。
『愛媛県神社庁』ホームページ ※ 宇都宮正綱公の戦死は天正7年のこと
戦死した宇都宮正綱公を祀っているのですね。
長宗我部氏の伊予国侵攻は各地にさまざまな爪痕を残していますから、調べてみると面白いですよ。さて、下の写真は若宮神社の拝殿を撮影したものです。
拝殿の左右に向かい合っている像があります。これは何ですか?
はい。「カッパの狛犬」です。
カッパの狛犬?これも宇都宮正綱と関係があるのですか?
その通りです。こんなお話が、高山に伝わっています。
高山の河童伝説
今から400年前の戦国時代の話、高山城主の宇都宮修理太夫正綱公(若宮様)にいたずらをして捕まった河童がいたそうです。本来ならそれなりの罰をあたえるところを、可哀そうなので悪さをしないようによく言い聞かせ逃がしてやったそうです。その後毎日、河童が助けてもらったお礼として、若宮様に鯛を献上したという恩返し伝説から、かっぱの狛犬が作られました。
『ほっとde西伊予』ホームページ ※ 下線部は原本では「江戸時代」と記載。引用者が訂正
左の狛犬は鯛を抱えている!
この像は、明治14〔1881〕年に寄進されたものです。さて、若宮神社で撮影した写真を見てみましょう。
歴史的に価値があるものがたくさんありますね。
そうですね。地域調査をする際には、地元の神社や寺院を必ず訪れてくださいね。
高山の沿革まとめ
それでは、西予市が成立するまでの経緯をまとめます。
- 藩政時代 … 俵津・渡江・狩浜:はじめ宇和島藩領、のち吉田藩領。
- 〃 … 高山・宮野浦・田之浜:宇和島藩領。
- 明治22年 … 町村制施行により、俵津村・狩江村・高山村が成立。
- 昭和30年 … 俵津村と狩江村が合併して豊海村が成立。
- 昭和33年 … 豊海村と高山村が合併して明浜町が成立。
- 平成16年 … 東宇和郡4町〔宇和町、野村町、城川町、明浜町〕と西宇和郡1町〔三瓶町〕が合併して西予市が成立。
明浜町の成立後、町舎は高山に置かれたのですよね。
そうです。西予市成立以後は「西予市明浜支所」と改称されています。Erikoさん、高山の沿革はここまでにして、江戸時代における高山の人口増加について確認しましょう。
はい。
② 高山の人口増加とその背景 〜江戸時代〜
さて、高山地区の人口推移のグラフをもう一度見てみましょう。Erikoさん、江戸時代に人口が増加した理由を考えてみてください。
高山は宇和島藩領だったわけですから、やはり宇和島藩の政策と関わっているのではないですか?
その通りです。寛文11年(1671年)の新浦田之浜の発足や土地開発の奨励などが藩の働きかけのもとで進められると、多くの者が移り住んだのです。
宇和島藩はなぜ、土地開発を奨励したのでしょうか?
それについては、江戸時代の社会の変化が原因です。下の図をみてください。
そうか!武士は石高に見合った米を幕府や藩から支給されていただけだから、物を買うには貨幣を手に入れなければならなくなったのですね。
そういうことです。幕府や諸藩は商人から借金をしながら諸政策を行いましたが、その返済は貨幣でなければなりませんでした。また、貨幣経済が浸透すると、物価の変動が頻繁に起こりましたので、それにも対応する必要がありました。ですから、財政難克服と経済発展を目的として新田開発等の産業奨励策を次々と行ったのです。
なるほど。
そして、そのような藩の政策は、武士だけでなく庶民たちにも影響を与えます。高山で暮らしている方は、江戸時代の人口増加の背景について、次のように話してくださいました。
漁業との関わり
江戸時代に高山の人口が急増していますが、これには漁業が深く関わっていると私は思います。宇和海の中でも最高の漁場が大崎鼻で、宇和島の三浦の漁師たちが高山の庄屋へ漁業権を願い出て漁をしに来ていたと聞いたことがありますし、田之浜に水産補習学校が創設されていたのも同じ理由からでした。また、高山から出世した人には先祖が三浦出身という方が多いですし、庄屋を務めた方も三浦から来た方です。やはり漁業という繋がりの中で三浦から高山へ移り住む人が増えたというのが、人口が増加した要因だと思います。」
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業13 -西予市①-』 ※ 下線及び太字は引用者による
そうか。リアス海岸の特徴として、入り江は天然の良港を形成したのでしたね。
その通りです。
先生、宇和島の三浦と大崎鼻の位置を教えてください。
下の地図を見てください。赤丸が大崎鼻、背景が薄い青色の円の範囲が概ね三浦半島の位置です。
背景が薄い青色の円の中に水荷浦鼻とあるのは、遊子水荷浦の段畑があるところですか?
その通りです。その段畑ですよ。
大崎鼻周辺で漁をするには、三浦半島の方からわざわざ船を出すよりも、高山から船を出した方が距離的にも近いですよね。どんな魚が獲れたんだろう?
当時、漁獲量の中心だったのはこの魚です。
イワシだ!
こうして、藩の産業奨励政策によって、高山への集住が始まったのです。現在でも漁業を生業とされておられる方が高山には多数いらっしゃいますよ。
そうなのですね。
そして明治時代に入ると、高山の人口はさらに急増します。その理由は次回説明しますね。
はい。楽しみにしています。