自然災害伝承碑を訪ねて…14 享保の飢饉の犠牲者を祀る供養塔を巡る〔東温市編〕
皆さんは上の地図記号を見たことがありますか?この地図記号は「自然災害伝承碑」といい、国土地理院が令和元年6月19日から地理院地図上に公開を始めたものです。「自然災害伝承碑」とは何か、国土地理院ホームページから引用します。
「自然災害伝承碑」について
◆ 過去に発生した津波、洪水、火山災害、土砂災害等の自然災害に係る事柄(災害の様相や被害の状況など)が記載されている石碑やモニュメント。※ これまでは、概念的に記念碑(ある出来事や人の功績などを記念して建てられた碑やモニュメント)に含まれていました。
◆ これら自然災害伝承碑は、当時の被災状況を伝えると同時に、当時の被災場所に建てられていることが多く、それらを地図を通じて伝えることは、地域住民による防災意識の向上に役立つものと期待されます。
『国土地理院ホームページ』より
この「自然災害伝承碑」の記載は国土地理院が全国の自治体と連携して進めていますが、各自治体からの申請があったものに限られています。そのため、記載されている数はほんの一部に過ぎません。そこで、取材中に撮影した自然災害伝承碑と罹災状況について、当ブログにて紹介していきたいと思います。
今回は、東温市内にある享保の飢饉の犠牲者を祀る供養塔を紹介します。
餓死萬霊供養塔〔東温市下林別府〕
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東温市下林別府に建立されている「餓死萬霊供養塔」は県道23号から拝志大橋方面へ左折してすぐのところにあり、次の文字が刻まれています。
この碑文からも分かるように、この供養塔は享保の大飢饉による死没者の五十回忌を村中で行って建立したものです。まず最初に享保の飢饉について確認しておきましょう。
享保の飢饉とは?
1732年(享保17)秋から翌年春にわたる大飢饉。32年夏、瀬戸内海沿岸を中心にバッタの大群が発生し、とくに九州東部、中国および四国の西部を中心に、畿内以西の稲作は大損害を受けた。損害が過半に及んだ藩は46藩、過去5年平均の年貢収入の4分の3近くを失い、その他の藩や幕領も甚だしい減収となり、被災民265万人、餓死者1万2000人に達したという。凶作の影響はこの年の暮れから翌春にかけて大都市にも波及し、連年低落を続けてきた米価が数倍に暴騰し、大坂、京、江戸の住民の生活を脅かし、不安の空気を生じた。33年正月25日には、幕府の御用米商高間伝兵衛(たかまでんべえ)が大量の米を隠匿しているとの噂に怒った江戸の窮民約1700人が伝兵衛宅を破却した。大都市最初の打毀(うちこわし)である。混乱は次の麦の収穫期から鎮静に向かったが、享保の改革の緊縮・府庫充実政策を一頓挫させた事件であった。
『日本大百科全書(ニッポニカ)』 ※ 下線及び太字は引用者による。
【参考】ブログ「To KAZUSA」享保の打ちこわしに遭った高間伝兵衛
ちなみに、松山藩士伊藤充之がひろく文献を渉猟して編年体に編集した『垂憲録』によれば、松山藩内における餓死者数は3,589人にも及んでいます〔享保17年11月29日幕府へ届出〕。その内訳は次の通りです。
- 餓死人 男 2,313人、女 1,276人
- 斃馬 1,403頭
- 斃牛 1,694頭
この供養塔がある場所は旧重信町にあたります。この辺りではどのような惨状であったのか、『重信町誌』に記載されている史料を引用しながらまとめてみます。どうぞご覧ください。
① 道音寺〔東温市牛渕〕の記録
享保17年5月20日より天候不順となりて霖雨続き、重信川氾濫し、7月上旬に至るも天晴れず、雨尚降り続く。6月初より浮塵子〔うんか〕と云ふ虫繁殖し、稲の下茎より稲葉の末まですきまなくつき、青き色なく、更に雑草に及ぶ。百万遍念仏、七ヶ寺、三十三ヶ寺詣り並に神仏へ御祈祷をなす。松明にて防除もせしが其効なく、秋に至ると虫に羽根ができておびただしき限り云々。
『重信町誌』 ※ 原本は、数字は漢数字、ひらがなはカタカナで表記されている。
ウンカの大量発生による被害がものすごいですね。「秋に至ると虫に羽根ができて」ということは、ウンカが栄養を得て成長したということですか!
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なお、道音寺墓地にも餓死者の霊を弔う慰霊碑がありました。
一番右側の慰霊碑に刻まれた文字をよく見てみると、「享保十七壬子□」の文字が確認できました。
この慰霊碑群には建立年が刻まれているものとないものがあります。これは地域の方々が慰霊祭を継続して行っていたという意味でしょうか?右から順番に慰霊碑に刻まれた文字を見てみましょう。
- 享保17年=西暦1732年=干支は壬子
- 明和 7年=西暦1770年=干支は庚寅
- 明治 7年=西暦1874年=干支は甲戊
松山市安城寺町の安祥寺門前にある一字一石供養塔のような法則性はないように思われます。これらは全て享保の飢饉の犠牲者を祀るものなのでしょうか?疑問が残ります。
【参考】自然災害伝承碑を訪ねて…13 享保の飢饉の犠牲者を祀る供養塔を巡る〔松山市編〕
② 百姓源次郎〔浮穴郡高井村〕の覚書
三月頃より雨度々降り申し、麦くさりいつもの年の三分作と相成り、五月中旬より又々雨降りつづき、そのはては蝗〔注:いなご〕と申す虫つき村々にては諸人集まって虫の祈祷をなすといえども、そのしるしさらになし。
『重信町誌』
こちらではウンカではなく、イナゴが発生したと記録されていますね。祈祷を行っても効果がなかったというのは、道音寺の記録と同じです。
③ 浮穴郡代官が藩へ注進した「領内覚書」(7月15日の条)
南北濃田村麦作皆無、稲大痛、餓死一人出、
高井村麦作二分、稲大痛、餓死三人出る。
上野村麦作皆無、稲大痛、餓死人五人出る。
東方村麦作皆無、稲作大痛皆無、死人三人出る。
『重信町誌』 ※ 村ごとに段落に分けて表記した。太字は引用者による
それぞれの村名を現在の地名に置き換えると、次のようになるでしょうか。
- 南北濃田村 = 東温市北野田及び南野田
- 高井村 = 松山市南高井町
- 上野村 = 松山市上野町
- 東片村 = 松山市東方町
【上記各村付近の現状】
重信川北側に位置するのが南北濃田村と高井村、南側に位置するのが上野村と東方村ですね。高井村は麦作二分ですが、その他の村は「皆無」ということで、こちらでも作物の被害が物凄いことになっています。
④ 大安寺〔東温市下林〕過去帳
『重信町誌』には当時の死亡者数をまとめた表が掲載されています。ブログ用に作成し直し、貼付しますのでご覧ください。
これによると、享保17年の秋以後、12月をピークに翌年3月までの5ヶ月間は死亡者が増大していることが分かります。『重信町誌』によれば、下林村における享保飢饉前後の10年ないし20年間の年間死亡平均が5、6人であるのに対して、4倍にも及ぶそうです。飢饉における被害が甚大であったことがこの記録からも分かりますね。
終わりに…
最初に述べたように、この供養塔は享保の大飢饉による死没者の五十回忌を村中で行って建立したものです。現在を生きる私たちは、そこに供養塔がある意味を知らなければなりませんね。「知っておく」ということが大事です。
One more thing…
実はこの供養塔がある場所は、「別府の石造物群」として平成9(1997)年4月1日に重信町の有形文化財に指定されています。供養塔以外にはどのような石造物があるのか、現地に設置された解説板を見てみましょう。
それでは、一つずつ写真で確認しましょう。
【文化10(1813)年の金毘羅道石柱道標】
【石積台座 常夜灯(年代不詳)】
【昭和18、20、21年の大水害による死者の供養と復興祈念の地蔵尊】
なお、昭和18年の大水害については当ブログでも紹介しています。リンクを添付しますので、ご一読ください。
昭和18年7月23日、それは起こった 〜重信川水害の記憶〜
自然災害伝承碑を訪ねて…
今回は以上です。ここまでご覧いただき、ありがとうございました。内容についてご意見いただけるとありがたいです。