自然災害伝承碑を訪ねて…⑧ 明治19年9月に発生した洪水の記憶・松山市北条
皆さんは上の地図記号を見たことがありますか?この地図記号は「自然災害伝承碑」といい、国土地理院が令和元年6月19日から地理院地図上に公開を始めたものです。「自然災害伝承碑」とは何か、国土地理院ホームページから引用します。
「自然災害伝承碑」について
◆ 過去に発生した津波、洪水、火山災害、土砂災害等の自然災害に係る事柄(災害の様相や被害の状況など)が記載されている石碑やモニュメント。※ これまでは、概念的に記念碑(ある出来事や人の功績などを記念して建てられた碑やモニュメント)に含まれていました。
◆ これら自然災害伝承碑は、当時の被災状況を伝えると同時に、当時の被災場所に建てられていることが多く、それらを地図を通じて伝えることは、地域住民による防災意識の向上に役立つものと期待されます。
『国土地理院ホームページ』より
この「自然災害伝承碑」の記載は国土地理院が全国の自治体と連携して進めていますが、各自治体からの申請があったものに限られています。そのため、記載されている数はほんの一部に過ぎません。そこで、取材中に撮影した自然災害伝承碑と罹災状況について、当ブログにて紹介していきたいと思います。
今回は、明治19年9月に発生した洪水の記憶を伝える自然災害伝承碑を紹介します。
明治19年9月発生、洪水の記憶 〜松山市北条探訪〜
上の写真は明治19年9月に発生した洪水の記憶を現在に伝える自然災害伝承碑を撮影したもので、「立岩川洪水碑」と名付けられています。同年9月といえば、大洲市長浜町須沢で土砂災害が発生していましたね。台風が相次いで襲来したことが災害発生の要因の一つですが、それについては「自然災害伝承碑を訪ねて…⑦」にまとめていますので、そちらをご覧ください。まずは「立岩川洪水碑」が建てられている場所を地図で確認しましょう。
【参考】「自然災害伝承碑を訪ねて…⑦」 明治19年9月24日発生、土砂災害の記憶・大洲市長浜町須沢
「立岩川洪水碑」は松山市北条の市街地から県道17号〔北条玉川線〕を東へ進んだ所にあります。本稿では、罹災状況、立岩川の特徴及び立岩川普請の歴史についてまとめていきます。それでは、始めましょう。
① 罹災状況
『北条市誌』に「明治19年水害の立岩村の被害状況」をまとめた表が掲載されています。ブログ用に再作成しましたので、ご覧ください。
「立岩川洪水碑」が建てられている才之原と猿川の被害が大きいですね。それぞれの集落の位置を地図で確認しましょう。
『四国災害アーカイブス』には、この時の被害について次のように記されています。
明治19年の9月18日の台風
明治19年(1886)9月18日、暴風雨に見舞われ、神田・波田・八反地の3村では9月22日に立岩川の高土手堤防約1,300mが決壊し、溺死者9人、家屋流失10数戸、田地流失45ha。(「愛媛県警察沿革資料」、「松山西署沿革誌」による)尾儀原村など立岩川流域各村は、9月25日、立岩川の堤防数か所が決壊し、大洪水。溺死者18人、家屋の流失74戸、半壊97戸、田畑流失294ha、溺死牛馬14頭、被災者644人。(「愛媛県誌稿」による)
『四国災害アーカイブス』 ※ 太字は引用者による
明治19年の洪水
明治19年(1886)、立岩川で洪水が起こった。明治26年(1894)に才ノ原地蔵堂の前庭に立岩川堤防修築完成を記念して「立岩川洪水碑」が建立された。その碑文には「宮ノ上部落の一酒家の主翁が倉と共におし流された」と記されている。
『四国災害アーカイブス』 ※ 太字及び下線は引用者による
明治19年の洪水
明治19年(1886)9月、洪水により、波田村のうち宮上地区20戸余がすべて流失、酒家の主人は倉を死守しようとしたが、翌朝菊間の海岸に腰に千金を縛りつけた姿で漂着したという。明治26年に碑が建立された。
『四国災害アーカイブス』 ※ 下線は引用者による
堤防約1,300mが決壊した、倉ごと流されたというのは濁流の勢いのもの凄さを想像できますね。堤防の修築まで7年も要したことからもそのことが分かります。なぜこのような甚大な被害を及ぼしたのでしょうか?
② 立岩川の特徴
まずは、立岩川周辺の河川の特徴から、被害が甚大となってしまう要因について知りましょう。
高縄山系に水源を有する河川の特徴
高縄山系に水源を有する立岩・河野・高山・粟井などの諸河川はいずれも急流で、しかも流路が短いため、降った雨は一気に海へ流れ出る。台風襲来ともなれば濁流は山土を下流に押し流し、河川は天井川に変貌し、遂には洪水に際して土手が切れると土砂は近辺の水田を埋没させる。
『北条市誌』 ※ 太字・赤色、下線は引用者による
「急流で流路が短い」という特徴は、かつて紹介した重信川も同様でしたね。一般社団法人日本ダム協会ホームページに愛媛県主要河川の勾配を比較した図が掲載されていますので、見てみましょう。
【参考】一般社団法人日本ダム協会ホームページ「愛媛県の河川」
【参考】昭和18年7月23日、それは起こった〜重信川水害の記憶①〜
そして、勢いのついた濁流は山土を大量に削り取って下流に押し流し、河川を天井川に変貌させてしまいます。天井川とは何でしょうか?
天井川の特徴
人は古くから洪水を防ぐため、川の両岸に堤防をつくってきました。流れを固定された川は土砂が堆積することで川底が上昇し、再び洪水の危険が高まります。そして洪水を防ぐため、さらに堤防を高くすることを繰り返すと、ついには川底が周囲の土地よりも高くなってしまいます。このような川のことを天井川と言います。
『国土地理院ホームページ』 ※ 太字・赤色は引用者による
【参考】国土地理院ホームページ 天井川 ※ 旧草津川(滋賀県)が写真付きで紹介されています。
【参考】国土地理院ホームページ 山から海へ 川が作る地形【本編】
ということは、洪水対策のために築かれた堤防も自然災害の要因となりうるということですね。それでは次に、立岩川普請の歴史を見てみましょう。
③ 立岩川普請の歴史
立岩川の歴史について、『北条市誌』に次の記載があります。
立岩川の歴史
江戸時代中期まで風早郡最大の立岩川は河道が水田より低く、流域の水田は麦作の可能な乾田であった。ところが享保6年以来水害は次第にその被害規模を拡大し、享保19年には神田・庄・波田において土手が切れ、以後洪水が起る都度被害を受けた。その後は付近の住民にとって立岩川の治水は年貢負担に並ぶ重荷となった。
『北条市誌』 ※ 下線は引用者による
『北条市誌』によれば、享保6年以後に普請が繰り返されるようになったたことが分かりますね。同書には、天明8年水害普請の件についての口上を記録した「北条高橋家文書」が掲載されています。その趣旨を引用します。
天明8年水害普請についての口上(『北条高橋家文書』より)
享保19年の洪水で土手が切れた立岩川の普請のため、多大の努力を傾けて工事を進めたが、それでも何度か土手が切れて土砂が田に入ったり、川底が場所によって田より二間も高くなった所があり、近隣の田はすべて湿田になってしまった。水抜用の井手を掘ったり、鎌投を設置したり、努力の結果がやっと現われて川底が少し下がり気味となったが、何分周辺の村々は貧困のため普請夫を十分に集める事が出来ない。そこで郡普請場所として工事費の面倒を見てほしい、と申し出たのだが、その際普請夫を従来の実績の5割増に決定してくれるよう申し入れているのである。
『北条市誌』 ※ 下線は引用者による
同書には、『北条高橋家文書』から作成した立岩川寄夫の人数表(明和7年から天明8年までの19年間)が掲載されています。ブログ用に再作成して転載します。
19年間のうち、普請が行われなかった年は6年だけだったのですね。この地区はほぼ毎年洪水に見舞われ、堤防改修を続けていたことがよく分かりました。こうして、立岩川が天井川となってしまう基盤がつくられたのですね。
では、甚大な被害を防ぐには何をすべきなのでしょうか?
私は、水深を深くするために河床の土砂を掘削する浚渫工事を定期的に行うことが必要だと考えます。これには工事費が伴いますから毎年実施することは難しいでしょう。しかし、天井川化を防ぐためには絶対に必要なのではないでしょうか。
One more thing …
それでは最後に、現地で撮影した写真をご覧いただきたいと思います。撮影順に掲載しますので、立岩川洪水碑までのルートがよく分かると思います。
今回は以上です。ここまでご覧いただき、ありがとうございました。内容についてご意見いただけるとありがたいです。