知って欲しい! 水不足解消等に尽力した小野寅吉氏のこと
Erikoさん、新居浜市立高津小学校に偉人の顕彰碑が建てられていたので撮影してきましたよ。
これはどの方の顕彰碑ですか?
小野寅吉氏です。顕彰碑の碑文を分かりやすく解読してみましょう。
小野寅吉氏顕彰碑 碑文
小野寅吉氏は永年村長・縣會議員に勞資を吝〔おし〕まず、縣下の勧業教育土木等盡瘁〔じんすい。自分の労苦を顧みることなく、全力を尽くすこと。〕せられたる効績頗〔すこぶ〕る顕著なり。殊に本村の如きは、氏の努力によりて完成せる縣道・國領河堤・吉岡泉・耕地整理等人為に其恩澤を蒙ること至大なり。大正11年11月、摂政宮殿下〔のちの昭和天皇のこと〕四國御巡啓に際し、社會事業功労者として御下問の光榮に浴せらる、蓋〔けだ〕し偶然に非ざるなり。依て氏の功徳を永久に紀念せんが為に之を建つ。
大正12年1月 高津村青年團
村長や県会議員を務めながら、さまざまな社会事業に尽力した方なのですね。
その通りです。今回は小野寅吉氏の生涯とその業績について紹介します。
① 小野寅吉氏の生涯
小野寅吉氏は、慶応2〔1866〕年に新居郡沢津村の篤農家、嘉平の長男として生まれました。
慶応2年といえば、1月に薩長同盟が成立し、いよいよ倒幕に向けて薩摩藩と長州藩が動き出した頃ですね。
明治12〔1880〕年、14歳の時に泉川に遠藤石山が開いていた稽崇館〔けいすうかん〕という私塾に入学し、漢学を修めます。
遠藤石山という方はどんな人なのですか?
小松藩〔現西条市小松町〕に生まれた人物です。彼の略歴を紹介しましょう。
遠藤石山(1832〜1907)
天保3年7月13日小松藩士の家に生まれる。通称徳蔵。瑛玉とも号した。近藤篤山に学び19歳のとき江戸に出て昌平黌に入り、帰郷後は藩校養生館の教授となる。幕末、勤王の士として京阪を奔走。維新後、風早、竹原、尾道、泉川、宇和島に私塾を開いた。書画にも堪能。明治40年11月18日75歳で死去。
『愛媛県史 人物』 ※ 太字及び下線は引用者による
教育に生涯を捧げた方なのですね。
彼が生まれた小松藩は教育熱心な藩で、川之江で私塾を開いていた近藤篤山を招聘して藩校養正館の儒官にしています。近藤篤山は生涯向学心を失わず、自らの誠実な日常生活をもって人を教育したため、人々からの尊崇を集め、「徳行天下第一」と称されました。
自ら他の模範となる生き方を貫いたのですね。
そうです。西条市小松町の人々は近藤篤山の教えを今でも守り続けています。小松町で撮影した写真をいくつか紹介しましょう。
なるほど。小松藩で近藤篤山に学んだことが遠藤石山を教育の道へと進ませたのでしょうね。
そうだと思います。遠藤石山が開いた稽崇館があった場所には碑が建てられていますよ。
沢津村からはかなり距離がありますね。
そうですね。学問を修めるために一生懸命努力を続けたのでしょう。塾を卒業後、彼は政治家を目指し、昭和22〔1947〕年に亡くなるまで地域振興・社会事業に尽くしたのです。彼の業績をまとめてみましょう。
小野寅吉氏の業績
- 吉岡泉の掘削
- 西条農業学校〔現・愛媛県立西条農業高等学校〕設立
- 新居浜町と金子村との合併による市制施行を推進
- 国立新居浜高等工業学校〔現・愛媛大学工学部〕の誘致に成功 など
学校の設立にも関わられたのですね。
彼が推進した事業の中で、人々のくらしに関わる大事業といえば吉岡泉の掘削です。次に、吉岡泉の歴史について見ていきましょう。
② 吉岡泉の掘削
吉岡泉は国領川の左岸にあります。その位置を確認しましょう。
国道11号よりも南側にありますね。
この場所はもともと吉岡為造という人の所有地でしたが、明治32〔1899〕年の大洪水で埋没して荒れ地になってしまっていました。
明治32年の大洪水というのは何が原因だったのですか?
台風です。8月28日に襲来した台風による愛媛県内の死者は828人にも及びました。特に被害が大きかったのが東予地方で、その中でも甚大な被害が出たのが別子銅山でした。これは別子大水害とも呼ばれ、別子銅山の諸施設が崩壊・流失しただけでなく、旧別子と新居浜で512人が亡くなりました。水害に関する碑が新居浜各地に建てられていますよ。
本当ですね。先生、水害で荒れ地になってしまった土地を泉として掘削しようとした理由は何なのですか?
吉岡泉掘削の目的は川東地区〔国領川東側〕への農業用水の供給です。かつての川東地区の水利について、『愛媛県史』の記述を引用します。
汲井戸の利用と吉岡泉の開鑿
国領川右岸の海岸寄りの、川東四か村(郷・宇高・垣生・松神子)は、古来から著しい干損地域で、田圃の側に掘った極めて小規模な掘井戸の水を、撥釣瓶によって汲み上げて水田に注ぐ人工潅灌地域であった。掘井戸は深くて狭く、新居浜に四五、宇高四五〇、沢津に五〇〇か所あった。
夏の炎天下、水ぎわの大柱に撥木を高くとりつけ、撥木の先端に釣瓶竿を結びつける。釣瓶は五~六升入りの桶で、撥木の後端に重り石をつけ男女三~四人で操作する。苗代水から田植えに及び、五~七月の全盛期には一望の青田に昼夜間断なく作業がつづく。反当約三~四時間かかって張り水したという。
水汲み風景は、大正一〇年(一九二一)ころまで見られたが、吉岡泉開削後は昔の語り草となった。もともと、川東地区は灌漑用水乏しく、長期にわたる干天の際、高柳泉組に対し分水を懇願しても容れられず、藩政時代から高柳泉付近に新源泉の掘削を計画しても許されず、川東地区の灌漑用水の不足は極限に達した。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』
なるほど。この泉が完成することは、川東地区の人々にとって念願だったのですね。
そうです。川東地区の水源開削のため、この地に注目した最初の人物は郷村の山下市太郎という方です。明治39〔1906〕年に有志と謀り、郷・宇高両村で吉岡の荒れ地を買収して新泉の掘削を出願しましたが、残念ながら病のために亡くなります。次に県会議長を務めた大原正延という人が遺志を継いで奔走しましたが、高柳泉周辺の人々が水源保護のために掘削に反対し、これも成功しませんでした。
高柳泉はどこにあるのですか?
地図で泉の位置を確認しましょう。
吉岡泉のすぐ北側ですね。自分たちの地区の水源が失われるかもという危機感を抱いたというのは分かる気がします。
こうした対立が続く中、吉岡泉掘削に尽力したのが小野寅吉氏です。明治44〔1911〕年に県会議員に選出されると活動を開始し、高柳泉地区の人々と何度も会談して説得を続けます。両者の対立が解消したのは大正4〔1915〕年のことでした。
4年もかかってしまったのですね。
吉岡泉は大正5〔1916〕年9月9日に起工し、翌6〔1917〕年3月に竣工しました。その後の動きを年表風にまとめます。
吉岡泉完成後の動き
- 大正 8〔1919〕年2月 郷・宇高・沢津3か村耕地整理組合を結成〔溝渠の新設、畦畔の拡張、耕地区画の分合、水田化96ha〕
- 大正 9〔1920〕年 吉岡泉から水路を起工〔翌年6月1日に全水路完成〕
- 大正10〔1921〕年7月2日 初めての通水
よかった。これで川東地区も水が豊富になったのですね。
はい。耕地整理事業はその後も続き、昭和23〔1948〕年4月に完成しました。小野寅吉氏はその前年に亡くなりましたが、地域の人々は彼の業績を称えるため、国領川畔岡崎城跡の下に吉岡泉開削の許可書を手にした小野寅吉の銅像を建立したのです。
右手に持っているのが吉岡泉開削の許可書ですね。
そうです。銅像の側には頌徳碑も建てられています。
先生、小野寅吉翁之像は新居浜市のどの辺りにありますか?
新居浜駅の東側、国領川右岸の岡崎公園です。
機会を見つけて行ってみます。
ぜひ。ちなみに吉岡泉は現在、住友化学が管理していて立入禁止になっていますので気を付けてくださいね。
はい。ありがとうございます。