知っていますか? 俵津公民館にある石碑の意味を
本日は、俵津公民館〔西予市明浜町〕にある石碑について紹介します。
上の写真の石碑ですか?石碑の状態から見ると、建立されてからかなり時間が経っていますね。
この石碑は「俵津製糸工場創業記念碑」といって、大正14〔1925〕年10月に建立されたものです。
大正14年!今から96年前ですね。以前吉田町の蚕糸業について学習しましたが、俵津でも盛んだったのですね。
【参考】知って欲しい! 遠山矩道氏のこと〔宇和島市吉田町における蚕糸業の興隆〕
その通りです。俵津製糸工場は生産高・品質ともに優れていたことが、当時の「神戸新聞」に記載されていますよ。
俵津製糸工場の評価
俵津製糸は海岸線中第一位の製糸場で、その生産高に於ても品質の優良なる点に於ても他製糸を凌駕している。200釜を有し、月平均4,000斤を製産している。糸は最優20円高で当地筒井商店へ全部出荷し、旭シルクへ成行約定で納めているが、一回の再検査も受けた事なく、近く洋俵にすると云う話もある。
神戸新聞1924年10月11日〜10月28日〔『製糸家訪問記』より引用〕 ※ 太字及び下線は引用者による
再検査を受けた事がないというのは凄いですね。
そうですね。俵津製糸工場は大正4〔1915〕年に創立され、昭和12〔1937〕年に閉鎖されるまで地域産業の振興に貢献しました。現在その跡地には俵津公民館が建てられています。
また、『明浜町誌』には俵津製糸工場の写真が掲載されています。引用しましょう。
規模が大きい工場ですね。
本日は、俵津製糸工場の歴史を中心に、明浜町の蚕糸業についてまとめます。
構成
- 明浜町俵津ってどんなところ?
- 明浜町における養蚕の歴史
- 地域経済を支えた俵津製糸工場
① 明浜町俵津ってどんなところ?
明浜町にはリアス海岸の入り江に6つの集落が形成されていますが、俵津は一番東側に成立した集落です。地図でその位置を確認しましょう。
宇和町からだと野福峠を越えればすぐ俵津に着きますね。
野福峠は桜の名所としても知られています。ここから見る宇和海の風景は本当に素晴らしいものです。
見事な風景ですね。
ところでTakashi君、「俵津」という地名の由来は分かりますか?
「俵」は米俵の「俵」ですよね。「津」は何だろう?
「津」には、船着場や渡し場という意味がありますし、歴史的には古代の海上交通における港を意味しています。
ということは、米俵をここから運び出したことが「俵津」という地名の由来ですか?
その通りです。古来、宇和米の積み出しが行われていたのですよ。
なるほど。そういう歴史があるのですね。
それでは、俵津の歴史と主産業について確認しましょう。
これは高山のことについて学習した時に確認しました。明浜町が成立する際、高山と俵津のどちらに役場を設置するかで対立があったのでしたね。
【参考】西予市明浜町高山の集落の密集状態はどのように形成されたか?①
そうです。次に俵津の産業ですが、明浜町の他の集落と同様、農業と漁業が中心です。
【参考】Wikipedia 俵津村
養蚕が盛んになったのは明治以降のことなんですね。
はい。それでは次に、明浜町の養蚕の歴史を見ていきましょう。
② 明浜町における養蚕の歴史
『明浜町誌』に養蚕の始まりについての記述があります。引用しましょう。
明浜町における養蚕の始まり
明浜町にあっては、狩江村渡江〔とのえ〕の佐藤関次郎が明治2年に養蚕を始めている。
『明浜町誌』 ※ 注釈及び太字は引用者による
明治2〔1869〕年といえば、諸藩による養蚕奨励が行われていた頃ですね。
ちょうどその頃ですね。佐藤関次郎という方は庄屋を務めておられた方で、明治以降は戸長も担当されたそうです。ただし、この時はうまくいかなかったようですね。
まだ技術が発達していない時代だったからでしょうね。
しかし、蚕糸業を国の産業として成長させようと国を挙げて取り組んだところ、養蚕を行う農家が次々に増えていったのです。
明治10年代に養蚕を始める人が増えています。これは吉田で遠山矩道氏が蚕糸業の振興に取り組んでいた時期と重なりますね。
そうですね。愛媛県も蚕糸業発展のための施策を次々と行ったので、質の良い生糸を作るための技術がどんどん高度なものになっていきました。
なるほど。
そして明治41〔1908〕年、宇和町に東宇和郡立農蚕学校が設立されると、養蚕の技術等を学ぶために農家の多くの子弟が入学しました〔現 宇和高等学校〕。
養蚕の技術を学ぶための学校が設立されるほど盛んだったのですね。
そうです。大正時代になると品質の良い愛媛県産の生糸は「伊予生糸〔いよいと〕」と呼称され、国内外で需要が増加したため、桑園面積も養蚕戸数もどんどん増えていったのです。
明治10年代とは比較にならないくらい増加していますね。
大正時代の蚕糸業の発展について、『明浜町誌』に記述がありますので引用します。
組合の設立
このころに至り各地ごとに、養蚕農家によって養蚕組合が設立された。組合は蚕業指導員を置いて各農家を巡回した技術指導を行い、蚕種の共同購入や、共同稚蚕飼育場等を設け、また共同販売等の活動を行うようになる。
『明浜町誌』 ※ 下線は引用者による
全てにおいて徹底していますね。
これらは全て生糸の質を高めるための工夫であり、努力です。そして養蚕の発展は製糸業の発展にもつながりました。こうした状況の中設立されたのが、俵津製糸工場です。
③ 地域経済を支えた俵津製糸工場
合資会社俵津製糸工場の創立は大正4〔1915〕年のことです。
ヨーロッパで第一次世界大戦が始まり、日本が大戦景気に沸いている頃ですね。
創業者は中村重太郎〔1861〜1935〕という人で、俵津公民館に建てられている耕地整理記念碑には委員長として名前が刻まれています。
この方も俵津の発展に尽力した方なのですね。
そうです。ただし、製糸工場創立に際してはかなり苦労されたようです。その経緯が俵津製糸工場創業記念碑に刻まれています。
俵津製糸工場創業記念碑 碑文〔部分〕
それ生糸は吾国産物の第一位なり。輸出に於て亦一位にして、斯業の国家に裨益するところ甚大なり。中村重太郎氏、夙に此れを視る所有り。大正4年2月、2、3の有志と結託し、製糸業を起さんと欲し、釜100器械万端を据え、ここに同年6月に到り殆ど整頓す。
既にしてここに新繭購買期に際し、股肱と頼む2、3の有志者豹変し、約束に齟齬して省りみず。是氏の致命の如く困危を来たす基因なり。今それを追想するに、事実に於て此事業を為すに多大の資金を要す。容易に企図し得べからざるものなり。〔後略〕
大金が必要な時期に仲間が去っていったのですね。これは辛いなあ。
この時の中村重太郎氏の状況について、碑文には次の言葉が刻まれています。
是所謂塞翁の馬にして…
「塞翁が馬」。人生の禍福は転々として予測できないという意味ですね。
その通りです。中村氏は、菅徳三郎氏・高岡岩太郎氏ほか3人の有志と相談し、資金援助を得て、ようやく製糸工場設立に至ります。
- 社 長:菅徳三郎氏
- 資本金:12,000円
- 釜 数:100釜
協力者が現れてよかったですね。
その後、蚕糸業の発展に伴い、俵津製糸工場の経営が軌道に乗りました。
- 大正8〔1919〕年 資本金24万円に増資、216釜に増加。
- 昭和9〔1934〕年 釜数510釜、従業員:男子27人、女子402人
女性従業員が非常に多いですね。地元の方の就職先ともなったのでしょうね。
その通りです。俵津製糸工場の成功は、他の集落にも影響を与えました。『明浜町誌』の記述を引用します。
製糸工場の創業が続く
その後、渡江、狩浜、高山、宮野浦、田之浜と相ついで製糸工場が創業するに至り、養蚕は時運に乗って発展の一途をたどった。
『明浜町誌』
本当に全ての集落に製糸工場が設立されていますね。でも昭和10年代にほとんどの製糸工場が廃業してしまっています。これは何が理由だったのですか?
はい。第一次世界大戦終結後に続いた経済恐慌です。慢性的な不況が続く中で経営難に陥った製糸工場は廃業へと追い込まれてしまいました。
本当に経済恐慌が続いていますね。繭の金額も大正14〔1925〕年を境に暴落しています。
昭和5〔1930〕年の繭価大暴落時の状況について、昭和13〔1938〕年に作成された『狩江村経済更生計画書』に次のような記載があります。
昭和5年、繭価大暴落時の状況
養蚕不況により、村全体の負債額は344,407円で、一戸平均が861円である。返済困難となっているところは160戸に及び、その一戸平均の負債額は1,640円となり、「前途ニ光明ヲ失ヒ、家業疎トナリ、信義ヲ重ゼズ、勤労精神ニ欠ケルトコロ多シ」という状態であった。
『狩江村経済更生計画書』
養蚕農家の方々が勤労意欲を失ってしまったのですね。
こうした状況が続く中、俵津製糸工場は昭和12〔1937〕年に閉鎖されてしまいます。創業から22年目のことでした。
終わりに…その後の蚕糸業
蚕糸業衰退後の状況について、『明浜町誌』は次のように記述しています。
養蚕からの転換
ここに至り町内の養蚕農家も、蚕を断念して柑橘栽培に転換していった。
『明浜町誌』 ※ 太字は引用者による。
なるほど。それで明浜町でも柑橘栽培が中心になっていったのですね。
はい。段々畑等につくられた桑園も全てミカン等柑橘の樹木に変えられていったのです。そして日本は戦争の時代に突入していきました。
戦後、明浜町の蚕糸業はどうなったのですか?
『明浜町誌』の記述を引用しますね。
昭和44〔1969〕年、廃業
終戦によって耕作物の自由化により、農家の副業として町内の一部の農家に養蚕が復活した。繭はほぼ野村製糸に出荷されていたが、桑園が柑橘との副業に適せず、飼育農家も次第に減少して、遂に昭和44年、高山の養蚕農家が春繭74kgを出荷して、これを最後に養蚕を廃業した。
『明浜町誌』 ※ 太字及び下線は引用者による。
確かに柑橘栽培と養蚕は同時に行うことは難しいですよね。
さらに戦後、化学繊維の普及や外国産の安価な生糸の流入、日本人の生活様式の変化も重なって、日本の蚕糸業自体が衰退してしまったことも廃業に至った要因です。
残念です。
昭和60〔1985〕年、地域の方々が製糸工場跡地に「俵津製糸工場跡地顕彰碑」を建立しました。この碑と「俵津製糸工場創業記念碑」が往時の俵津の繁栄を今に伝えてくれています。
One more thing…
「俵津製糸工場創業記念碑」の碑文全文をまとめました。必要な方がいらっしゃいましたら、ご活用ください。