昭和18年7月23日、それは起こった 〜重信川水害の記憶④〜
前回は筒井地区の罹災状況について確認しました。今回は、新立地区で暮らしておられる方の証言を通して、別の視点から筒井地区の罹災状況を再確認しましょう。
重信川水害の記憶 Contents
この方は当時、北予中学校〔現 松山北高等学校〕に通う学生だったのですよね。
そうです。水害が発生した時、この方は学校にいたそうですよ。
④ 旧岡田村・旧松前町の罹災状況⑵
イ 新立地区で暮らしておられる方の記憶
余戸駅で汽車が止まった…
昭和18年(1943年)当時、私は旧制北予中学校(現愛媛県立松山北高等学校)に通う生徒で、徳丸地区の堤防決壊の知らせを学校で聞きました。午前10時ころに学校が放課になったので、後輩数名とともに汽車(伊予鉄道が電化されたのは昭和25年〔1950年〕のことで、当時は蒸気機関車だった。)に乗って帰宅しようとしましたが、余戸駅で汽車が止まってしまいました。とにかく歩いて帰ろうと思った時、誰かの『橋が流されてしまったぞ。』という声が聞こえたので、私たちは駅から伊予鉄の鉄橋まで行き、その上を歩いて重信川を渡りました。鉄橋を渡りきった所で目撃した岡田村の様子は今でも忘れられません。村のほとんどが流れる濁流で占められ、岡田駅は冠水していました。また、岡田駅から松前駅の間は線路下の土壌が完全に流されていて、レールが枕木ごと浮いた状態で、ゆらゆらと揺れていました。そんな光景を見たのはこの時だけです。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12 -松前町-』 ※ 下線及び太字は引用者による
学校が放課になった午前10時ころといえば、筒井地区に濁流が到達した頃ですね。だとすると、この方が重信川鉄橋を渡ったのはある程度水位が上がってしまっていた時期に当たるんじゃないでしょうか。
そうでしょう。昭和18〔1943〕年当時はまだ鎌田駅がありませんから、余戸駅から重信川鉄橋まで歩くだけでもかなり時間がかかったと思います。
【参考】伊予鉄道の歴史② 路線の延長 ※ 郡中線の歴史が記載されています。鎌田駅は昭和42〔1967〕年に設置。
先生、流された橋というのは、出合橋のことですか?
そうです。昭和18〔1943〕年当時は出合大橋も国道56号線もまだありませんでしたから。
それにしても、高い所から濁流が流れる様子を見ただなんて、想像するだけでも恐ろしいです。
郡中線の被害状況については、国土交通省ホームページに写真が掲載されています。ちょっと見てみましょうか。
えっ、これは凄すぎる。私の想像の域を超えてしまっています。
この方が重信川の堤防を下りた時、濁流の水位はまだ太腿くらいまでの深さだったので、新立地区の自宅まで歩いて帰ることを決意されたそうです。
でも濁流がどんどん押し寄せて来ていたのでしょう?危険ですよね。
それでも後輩とともに歩み続けたそうです。その後の様子について、次のように話してくださいました。
濁流に足を取られ…
玉生八幡大神社辺りまで戻って来た時、私の後輩の一人が濁流に足を取られてしまいました。今にも流されようとした時、近くにあった柳の枝につかまって何とか耐えることができていたので、私は近くで饅頭店を営んでいた方の所へ行き、救助をお願いしました。すぐに駆けつけてくれましたが、あまりの水の多さに川と道の区別がつかなかったので、一度引き返してから綱を持って戻って来てくれ、ようやく彼は助け出されました。このことも、私にとって印象深い出来事です。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12 -松前町-』 ※ 下線及び太字は引用者による
怖い!
玉生八幡大神社付近を流れる川といえば、国近川ですね。神社と川の位置を地図で確認しましょう。
岡田村のほとんどが濁流で占められていたんだから、川と水の区別がつかなくて当たり前ですよね。でも助かってよかった!
そしてこの方は大洲街道に沿って歩き、筒井地区へ入りました。この時の筒井地区の罹災状況について、次のように話してくださいました。
筒井地区の罹災状況
それから善正寺の前を通って大洲街道を南へ進みましたが、そのころには私の胸の辺りまで水位が上昇していたので、『これはいかん』と思ってかばんを頭の上に乗せ、そのままの状態で何とか自宅へたどり着きました。この時はまだ夫婦橋が押し流されていなかったので、戻ることができたのです。私の家の前の道も完全に冠水してしまっていて、午後には櫓を漕ぎながら船で避難している人々を見たことを憶えています。
『えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12 -松前町-』 ※ 下線及び太字は引用者による
夫婦橋が押し流されていなかったということは、午後2時までには新立地区の自宅まで辿り着いていたということですね。
そうなります。この方は、無事に帰宅できたことについて、次のようにも話してくださいました。
もし夫婦橋が流される時に歩いていたら、助かったかどうか分からない。
そういえば、東レのコンクリート壁が堤防のようになって筒井地区は池のようになったのでしたよね。それでよく助かりましたね。
本当に助かってよかったと本当に思います。夫婦橋が流された後、水位がどんどん下がりましたが、町は泥だらけになってしまいました。戦時中であったこともあり、地域に残っていたのは子ども、女性、老人たちです。その状況で復旧作業が始まります。これは次回紹介しましょう。
はい。
【つづく…】