伊予鉄バス転落事故の記憶 -大洲市長浜町櫛生-

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 皆さんは、県道378号沿いに建てられているこの慰霊碑を見たことがありますか?碑が建てられている場所を地図で確認しましょう。

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 ここは、大洲市長浜町櫛生から出海集落方面へ300mほど進んだ地点。昭和31〔1956〕年1月28日(土)に伊予鉄バスが転落し、運転士1名・車掌1名・乗客7名全員が亡くなるという傷ましい事故の現場です。本稿では、『長浜町誌』『伊予鉄道百年史』の記述をもとに、この事故についてまとめます。

Part.1 事故現場付近の今、昔

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 まず、慰霊碑付近の現況を確認するところから始めましょう。下の写真は、慰霊碑の場所から櫛生方面を撮影したものです。

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 この道路は国道378号で、海面から高く離れた場所にあって道幅も広いですね。しかし、昭和31年当時の道路〔県道〕は、今とは全く違っていました。

昭和31年当時の県道

 同現場は、カーブが多くて見通しが悪く、昭和4〔1929〕年に開通されたもので、地盤のもろさと沈下のため、26〔1951〕年ごろ高さ一間をかさ上げしてしていたものだが、台風ごとに道路が倒壊して半年間は不通となるという。

『長浜町誌』 ※ 太字は引用者による
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 「一間」は約1.82mです。かさ上げしても台風ごとに道路が倒壊して半年間は不通となるという状況ですから、当時は悪路として知られていたのでしょうね。なお、当時の道幅について、wikipediaに次のような記載がありました。

昭和31年当時の道幅

 現在でこそ海岸線沿いの道路は海面から高く離れた場所を、余裕のある道幅で通っているが、事故当時は海が荒れた際には波が路面を洗うほど低い位置に走っていて、幅も4.5メートルと決して広いものではなかった

wikipedia 長浜町バス転落事故 ※ 太字は引用者による
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 そういえば、国道378号の伊予灘側には古い道路が各所に残されていますね。写真をご覧ください。

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 この古い道路が当時の県道と同じものだとすると、かなり急カーブであったことが想像できます。これは相当慎重に運転をしないと危険ですね。比較対象として、昭和23〔1948〕年と昭和39〔1964〕年に米軍が撮影した航空写真に地名を記載しましたのでご覧ください。

【参考①】昭和23〔1948〕年の事故現場付近

国土地理院の航空写真から作成

【参考②】昭和39〔1964〕年の事故現場付近

国土地理院の航空写真から作成

Part.2 事故当日の天候

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 この日は北海道付近を進む低気圧の影響で極めて強い風が吹き、各地の海上及び沿岸で風害が発生したそうです。『長浜町誌』には次のように記載されています。

昭和31年1月28日の天候

 たまたま同時刻ごろは、八号目の満潮で、強風警報下の突風に、どとうが道路をこえて東側の山すそを洗うほどの状態で、自動車ボディーのかすり跡のある遭難箇所と見られるところが、ちょうど風波も最も激しいところで、このため、ハンドルの自由を奪われてこのまま波とともに海中に転落したものと見られる。(中略)県道カーブにぶちあたった激浪は15mをこえ、昨年夏の台風15号よりも激しかったと地元の人はいう。

『長浜町誌』 ※ 太字及び赤字は引用者による
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 これは非常に危険な状況ですね。ちなみに、この日の風速が『三瓶町誌 上巻〔昭和58年刊〕』に記されていました。なんと・・・

風速28.4m/秒 ‼️

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 なお、先述のwikipediaよれば、「同日23時ごろの宇和島測候所では、大正11〔1922〕年の開設以来の平均、瞬間最大風速を記録している(『愛媛新聞』昭和31年1月30日朝刊から引用)」とのこと。運転するにはかなり危険な状態であったことが分かりますね。

Part.3 事故の発覚

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 当時の伊予鉄バスの運行ダイヤは次の通りです。

19:40 磯崎停留所 発 出海 → 櫛生 → 須沢 → 20:30 長浜停留所 着

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 長浜到着後は車庫へ入庫し、翌朝7時20分に長浜を出発して磯崎へ向かう予定でした。それでは、この事故がどのような経緯で発覚したのでしょうか。発覚までの警察の動きと伊予鉄道の動きをそれぞれ確認していきましょう。

事故の発覚Ⅰ『長浜町誌』より

 29日午前11時40分頃、大洲署櫛生巡査駐在所に長浜町出海中学校長板倉孝行氏から、同校の武智信教諭が「昨夜自宅にいないが調べてほしい」という電話がかかり、同署鈴村巡査は伊予鉄バスを調べたところ、同バスは、28日午後7時55分出海停留所を出たままで、櫛生についていないことがわかったので同巡査は、直ちに大洲署に交通事故として速報、同署では、全署員を現場に急派して捜索したところ、県道磯崎-長浜線の通称三ツ石海岸、櫛生から出海部落に約300mほどよった海中にみじんにくだけたバスのシャーシーが波に見えかくれ、また、その他の部品が荒波に岸辺に押しよせられているのを確認、バスもろとも乗客9名が遭難したことがわかった。

『長浜町誌』 ※ 太字は引用者による
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 なお、このバスが磯崎停留所を定時の午後7時40分に出発したことも確認されています。では次に、伊予鉄道の動きを確認しましょう。

事故の発覚Ⅱ『伊予鉄道百年史』より

 翌29日7時、長浜発大洲行きの乗務員が該車両が前夜長浜に帰っていないことに気付き、大洲到着後営業所長に連絡、営業所長は直ちに原因調査に着手したが、事故と推定されたのは10時、事故の大体の模様及び墜落現場発見は正午過ぎとなった。

『伊予鉄道百年史』 ※ 太字は引用者による
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 事故の発覚は翌日の正午過ぎということですね。発覚が遅れてしまった要因について、当時の『愛媛新聞(昭和31年1月30日夕刊)』の記事を引用したwikipediaの記述があります。列挙してみましょう。

【要因1】運転士が運休の判断を下した場合、大洲営業所に届けることになっていたが、28日夜に運休の連絡がなかったため、通常通り運行したものと理解していた。

【要因2】終業報告のような仕組みが存在しなかったため、大洲営業所では28日夜の時点では当該バスの長浜未着を把握できなかった。

【要因3】運行終了後、運転士は大洲営業所に運行日報を届けることになっていたが、夜間の磯崎発長浜行きの日報は長浜到着後に同地の車庫に置き、翌日1番の長浜発大洲行きのバスが届ける段取りとなっていた。しかし、車庫に前夜のバスの日報が置かれていなかったため、大洲行きのバスの運転士は前夜の磯崎からのバスのは運休したものと捉えた。

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 このような状況なら、運転士も車掌も遭難してしまったのですから、発覚が遅れるはずですよね。なお、長浜発大洲行きの一番バスが大洲営業所に到着した時、磯崎発長浜行きのバスは運行されたと認識していた大洲営業所と、当該バスは運休したものと認識していた一番バスの運転士との間で矛盾が露呈し、ここで初めて有事が疑われたそうです。

【参考】wikipedia 長浜町バス転落事故

Part.4 慰霊碑の建立へ

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 29日以降遭難者の捜索活動が続けられ、8名の遺体が発見・収容されましたが、車掌のみ発見されないまま2月5日に捜索が打ち切られました。伊予鉄道の宮脇社長(当時)らも事故調査に現場へ急行すると共に、犠牲となられた各遺族に深くお詫びをされたそうです。そして長浜商工団体の会員33名を中心に慰霊碑建立運動が開始されるとともに、2月28日には櫛生小学校で合同葬が行われました。

-慰霊碑除幕式 昭和31年5月8日-

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 工事は捜索活動にも携わった地元の松栄建設が行い、上部には久松定武愛媛県知事(当時)の筆による「慰霊碑」の3字、下部には9名善犠牲者の氏名が刻まれました。また、裏面には世話人の方々の名が刻まれています。そして伊予鉄道では事故の絶滅を誓うとともに、毎年1月28日には慰霊碑に香華を手向け続けています。

【参考】『町のたより(昭和31年6月号)』慰霊碑建立に對する御禮


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 以上で、本稿を終わります。普段自動車で国道378号を走る時には通り過ぎるだけですが、この慰霊碑には忘れてはならない事故の記憶があります。本稿の記事が事故の記憶を後世の人々が知る一助となる事を願っています。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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