「松山札辻より◯里」里塚石を探索せよ! Part.3 -土佐街道編①-
- 一里 … 久米郡尼山村 (現松山市天山)
- 二里 … 浮穴郡森松村 (現松山市森松町)
- 三里 … 浮穴郡荏原村 (現松山市恵原町)
- 四里 … 久万山馬次九谷村(現松山市久谷町)
- 五里 … 同窪野村之桜休場(現松山市窪野町)
- 六里 … 同東明神村 (現久万高原町東明神)
- 七里 … 同久万町村 (現久万高原町入野)
- 八里 … 同菅生村 (現久万高原町菅生)
- 九里 … 同有枝村 (現久万高原町有枝)
- 十里 … 同七鳥村 (現久万高原町七鳥)
- 十一里 … 同東川村 (現久万高原町東川)
- 十二里 … 同縮川村 (現久万高原町黒藤川)
「松山札辻より一里」里塚石
(尼山)場所は現在の上吉木橋あたりと推定されるが、標石が紛失して見当たらない。『松府古志談』に「宝暦三癸酉年、久米郡尼山、天山ト改度旨村方ノ願ニテ御免」の記事がある。小野川の堤防の上吉木橋の北西の袂に、現在弘化四年未二月十五日に建てた「一字一石塔」(大きさ幅30cm、奥行20cm、高さ115cm)がある。横に「天下泰平・当橋永久・五穀成就・往来安全」と刻まれている。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』 ※ 下線及び太字は引用者による
残念ながら、「一里」里塚石は紛失してしまっており、私も発見できていません。ただし、記載されている「一字一石塔」は今も同じ場所にありますので撮影してきました。ご覧ください。
この「一字一石塔」が建てられている場所を地図で確認しましょう。ショッピングモール「ジョー・プラ」の南側、上吉木橋の袂です。
それでは次に、松山札の辻からここまでの土佐街道のルートを確認します。地図を作成しましたので、ご覧ください。
地図中の青線が土佐街道です。立花橋から「一字一石塔」の場所まで自転車で走ってみましたが、その途中には地域の歴史を現在に伝える史跡がいくつかありました。それらを紹介しながら、土佐街道の旅を続けましょう。
【注意!】『土佐街道を歩く』によれば、札の辻から松山市街地の南出口である立花までは、どのコースが土佐街道であったかは不明だそうです。
立花橋の歴史と尭音
写真は現在の立花橋。昭和3〔1928〕年に架設した古い橋ですが、これが最初の架設ではありません。最初の立花橋の架設は文政2〔1819〕年。尭音(ぎょうおん)という僧侶の尽力によるものでした。尭音の生涯について、『愛媛県史 人物』の記述を引用します。
享保17年~文政3年(1732~1820)生まれは浮穴郡浄瑠璃寺村(現松山市)庄屋の井口家の出。幼少より仏門に入り修業、宝暦11年30歳のとき、第46番札所浄瑠璃寺中興(慶安~)第11世住職となる。以後30年間務め、寛政4年60歳で浮穴郡拝志村法蓮寺(現重信町上林)に移る。仁慈の志が深く、常々社会のために奉仕することを信条としていた。当時商業の発達、八十八ケ所巡礼の普及で交通量が増大した。彼は岩屋寺から松山に至る間の架橋を決意し、寺務を後嗣に託し、托鉢僧となって各地を遍歴して浄財を集め、久万川・久谷川・石手川に8か所の架橋を実現した。なかでも立花橋の架橋には心血を注いた。藩主に願い出ること数度に及び、藩はその信念に打たれ、資財を若干賜った。「橘口尭音橋出来周防岩国算盤橋の写なり」(松山叢論)として、中央部に橋脚を築造しない橋台が上部に湾曲した橋に設計された。文化14年2月に着工し2年後の文政2年5月15日完成した。幅3間、長さ15間(27メートル)欄干のある立派なものであった。尭音は悲願の成就した翌年、文政3年12月26日88歳で逝去した。橋のたもとには、尭音の墓碑と供養塔が建立され、その徳を今に伝え、開通した5月15日には毎年頌徳法会を営んでいる。
『愛媛県史 人物』 ※ 下線、太字及びマークは引用者による
『松山叢論』に記載されている周防岩国算盤橋とは錦帯橋のこと。写真をご覧ください。
【参考】岩国市公式ホームページ〔錦帯橋〕
現在の立花橋とはまた違った趣のある橋だったことが想像できます。なお、立花橋は明治時代に木鉄混合のトラス橋に架け替えられました。『愛媛県史 人物』の記述にある尭音の墓碑と供養塔とともに、この時の親柱が橋の近くに保存されています。撮影していますので、写真をご覧ください。
【参考】「知恵の輪」尭音の供養塔
土佐街道の入り口
立花橋を越えてすぐの所に、旧国道33号から分岐する細道があり、これが土佐街道です。現地の風景を撮影しましたので、写真をご覧ください。
この場所を出発点として、土佐街道を自転車で走ってみました。動画を撮影しましたので、ご覧ください〔1分55秒〕。
道が微妙にカーブしていたり、所々に旧家や祠があったりして、旧街道らしい雰囲気を感じることができました。動画に映っていた史跡を二つ紹介します。
お地蔵様と小祠
伊予鉄道横河原線の線路手前にあります。お地蔵様の基部には「元文三年三月」と設置年が記されていて、この年は西暦1738年に当たります。元文という元号の前は享保ですから、このお地蔵様と小祠は享保の飢饉で亡くなった方の霊を弔うために設置されたのではないでしょうか。
赤煉瓦の建物
伊予鉄道横河原線の線路を過ぎてすぐのところにあります。ノコギリ型の屋根がと赤煉瓦が印象的なこの建物、実は東洋染業という会社が大正時代に製油所として建設したものだそうです。現在は重松倉庫株式会社の所有になっています。「廃線隧道【BLOG版】」に戦前の絵葉書が掲載されていましたのでリンクを添付しておきます。こちらもご覧ください。
ちなみに、この倉庫の煉瓦は長手だけの段、小口だけの段と一段おきに積まれているので、イギリス式ですね。これと同じ方式で積まれた煉瓦建造物が松山市内にありますよ。これです。
この煉瓦橋は、松山市駅を出て石手川の土手に差しかかる際に軌道で道路を遮らないよう煉瓦暗渠として明治25〔1892〕年に築造されました。軌道と車道が斜行しているため、煉瓦の積み方でねじれを修正するという工夫がなされています。
なお、建設年が判断できる暗渠、隧道の中では県内最古であることから、この煉瓦橋は平成15〔2003〕年に松山市の景観形成重要建造物に、平成24〔2012〕年に土木学会選奨土木遺産にそれぞれ指定されています。伊予鉄道横河原線の歴史については、以前当ブログでも紹介していますので、こちらもご一読ください。
【参考】「愛媛ぶらぶらある記」正岡子規『散策集』吟行の道をたどろう!石手川堤へ③
さあ、土佐街道の旅を続けましょう。赤煉瓦倉庫からしばらく進むと松山環状線と交差します。
この道を真っ直ぐ進むと小野川の土手に突き当たり、直進することができません。
ですので、この手前で左折してショッピングモール「ジョー・プラ」の西側の道に出て、そこからさらに南進して「一字一石塔」へと進みました。もしかしたら「一里」里塚石はこの辺りに設置されていたのかもしれませんね。
土佐街道は、ここからさらに南へ続きます。
「松山札辻より弍里」里塚石
「弐里」里塚石について、『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』は次のように記載しています。
松山市森松町下河原560番地武田忠好宅の前に、「さぬきみち」の道標があり、その五m東に「松山札の辻より弐里」の里程石が建っている。道標の石は花崗岩で、幅、奥行とも30cm、高さ地表部分が167cm。文字は正面がさぬきみち川上江三里・右に大洲宇和島道郡中江百町・左に村中安全、世話人は夫婦泉を掘った吉良彦九郎ら六人の名があり、石工は松前の中矢又吉である。郡中江二里とせず百丁としたのは、当時大洲藩では五十丁が一里、松山藩では三十六丁を一里としたためであろう。建立は明治4年(1871)である。さて、二里の里程石は前幅19cm、奥行16cm、高さ175cmで、石は角閃安山岩である。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』
『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』が編纂されたのは昭和59〔1984〕年のこと。この時は遍路道標と「弐里」里塚石とは5m程離れていたようですが、現在は二基並んで建てられています。遍路道標に刻まれた文字を見てみましょう。
「一字一石塔」から「弐里」里塚石までのルートですが、平成26〔2014〕年に松山外環状道路が建設されたこともあり土佐街道が分断される形になってしまっています。まず「一字一石塔」から松山外環状線までのルートを見てみましょう。
上吉木橋を渡った所で左折し、松山市立石井小学校と松山市役所石井支所の間の道を南進すると椿神社の赤鳥居がある所に出ます。そこから斜めに180mほど進んでから右折し、南へ直進すれば松山外環状線に至ります。このルートを車で走って動画を撮影してみましたので、ご覧ください〔3分11秒〕。
この区間に三つの史跡を見つけましたので紹介します。
西石井之塚供養塔
土佐街道右手に見える地蔵堂の敷地内にあります。昭和62〔1987〕年9月に西石井町の人々によって建立されたもののようで、塔の裏面には建立までの経緯が記されていました。
西石井町内に点在する十数ヶ所の塚は、祭る者も無く其の形態も失われつつ有り、よってこれら諸霊を供養する為、町内の心有る方々の浄財によりこの塔を造ったものである。
昭和62年9月吉日 建立
西石井之塚供養塔 碑文
居相之塚供養塔
松山市立石井小学校を過ぎてすぐの所にあります。昭和41〔1966〕年4月に居相の人々によって建立されたもののようで、塔の側面には建立までの経緯が記されていました。
居相部落は塚の多い所である。三十餘ケ所八十餘柱もあるが、其の約半分は跡形もない。其の諸霊を慰めるため有志の強力で供養塔を作ったものである。
昭和41年4月吉日 静雨謹書
居相之塚供養塔 碑文
この供養塔を過ぎてすぐの所が、土佐街道と椿神社の表参道との交差点です。
そして、松山外環状線近くに常夜燈が立てられていました。
常夜燈
北井門町にあります。文化13〔1816〕年8月に建てられたもので、今年で建立206年目に当たります。刻まれている「明石金天」という文字ですが、ブログ「お気楽アルプ日記vol.2」によると次のような意味だそうです。
- 明 = 神明神社?〔総本社が伊勢神宮〕
- 石 = 石鉄山 =石鎚権現
- 金 = 金毘羅 =讃岐金毘羅権現
- 天 = 天満宮
これらの文字一つ一つにちゃんとした意味があるのですね。常夜燈は、当時の人々の信仰心の厚さを現在に伝えてくれる大事な史跡であることを実感しました。
【参考】ブログ「お気楽アルプ日記vol.2」明石金天 常夜燈
それでは次に、松山外環状線から「弐里」里塚石までのルートを見てみましょう。昌福寺という曹洞宗の寺院が土佐街道のルートを確認する基準となります。
下の写真は昌福寺付近で撮影したもので、自動車の向こうに松山外環状線が見えます。自動車が走っている道が土佐街道で、昌福寺前を左折して「弐里」里塚石へと向かいます。
この区間に三つの史跡を見つけましたので紹介します。
昌福寺
昌福寺は曹洞宗の寺院です。寛文元〔1661〕年頃、精峰釈存和尚によって開基されました。境内に「橘嘉各右衛門出碑」と刻まれた石碑があったのですが、この人物はどのようなことをしたのだろう?もしご存知の方がいらっしゃいましたらコメント欄にてお知らせください。よろしくお願いいたします。
豊島家住宅
豊島家住宅は宝暦8〔1758〕年の建築で、藩政時代に庄屋を務めていたそうです。屋根の形が特徴的ですね。昭和45〔1970〕年6月17日に松山市重要文化財(建造物)に指定されましたが、個人宅のため一般公開しておりません。詳細は、松山市ホームページのリンクを添付しますので、そちらをご覧ください。
常夜燈
豊島家住宅のすぐ近くにあります。建設年は慶応2〔1866〕年でいいでしょうか?この常夜燈には「金」と「天」の文字が刻まれていますね。先程紹介した北井門町の常夜燈もそうですが、刻まれている文字を調査するのも面白いかも。さて、ここからしばらく進むと、「弐里」里塚石に到着です。
「松山札辻より弍里」里塚石から広瀬の渡しまで
「弐里」里塚石と遍路道標左側の細道を進んで松山市浮穴支所北側の道を進み、県道194号に出る道が土佐街道です。そして、県道を渡って約1km程東進すると遍路道標が建っている場所に至ります。おそらくこの辺りが「広瀬の渡し」と呼ばれた渡し場があった所ではないかと思います。このルートを地図で見てみましょう。
このルートを自転車で走りながら動画を撮影してみました。どうぞご覧ください〔2分47秒〕。
『愛媛県ー近世以前の土木・産業遺産』によると、動画の最後に映っていた遍路道標は移設されているようです。撮影してきましたので、道標に刻まれた文字を確認しましょう。
先述の『愛媛県ー近世以前の土木・産業遺産』によると、設置年は文化10〔1813〕年で「上 こん飛良道」と記されているようです。移設されてしまったのは残念ですが、この遍路道標が金毘羅さんへ向かう道と土佐街道との分岐点であったようです。重信川以南の土佐街道について、『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』に次のように記されています。
土佐街道は森松から重信川の堤防に沿って約1㎞上り、尾海武応宅の前から、重信川を横切って広瀬を通って恵原に向かった。広瀬が重信川の左岸(南)でありながら、旧浮穴村高井分であったのは、重信川の旧河道が村界を示すものである。森松の重信川橋が架かったのは、明治36年(1903)で、昭和25年生まれの故宮脇先は、橋が架かるまでは、広瀬の渡しを小舟で渡っていたと話してくれた。
『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』 ※ 下線は引用者による
それでは最後に、広瀬の渡し付近の現況を確認し、本稿を終えましょう。
広瀬の渡し付近の風景
重信川を渡った後、土佐街道は三坂峠へと続きました。次回は「三里」里塚石から「五里」里塚石までのルートを紹介しますので、ご期待ください。