遍路道標探索の旅Part.5 日尾八幡神社から道後温泉までのルートを巡る


「遍路道標探索の旅」の第5弾です。Part.2で日尾八幡神社(鷹子町)前の道標まで紹介しましたので、今回はその続き、道後温泉までの遍路道と道標を紹介していきます。探索ルートを図にまとめましたのでご覧ください。


西林寺から日尾八幡神社及び浄土寺までの遍路道は茶色の点線、今回の探索ルートは茶色の実線で示しました。今回は四国八十八ヶ所霊場が3寺、遍路道標が15基もあります。スタート地点である日尾八幡神社前の風景を写真で確認しましょう。


遍路道標の(手印)で示されているように、遍路道は日尾八幡神社から北へ続いていきます。まず最初に日尾八幡神社前に建てられている道標の内容の再確認から始めましょう。
1 日尾八幡神社前に建つ遍路道標〔松山市鷹子町〕
【日尾八幡神社前に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市鷹子町 |
主な碑文 |
(手印)右 遍ん路道/(手印)左 逆邊路道 嘉永七申寅歳三月吉日 村中安全/施主 浅井鐡五郎 |
寸法 |
30×30×137 |
備考 |
日尾神社前の南西角 |

ここからの遍路道について、『伊予の遍路道』は次のように記しています。
浄土寺から繁多寺へ
この道標に従って入り組んだ交差点を右に曲がって、遍路道は県道40号を北に600mほど進むと三差路に道標が立っている。この道標の向かい側の個人邸の角には、宮尾しげをが「『左御城下道、右へん口道』の大きな標石は相當古さう。」と記した道標もあったが、今は行方不明になっている。現在、そこには古い道標を模した昭和48年(1973年)設置の道標が立っている。
※ 太字は引用者による

日尾八幡神社から県道40号を北に600mほど進んだ所に遍路道標が二基建てられていました。これらの道標を「三叉路に建つ遍路道標」と「古い道標を模した遍路道標」と表記して区別しますね。まず「三叉路に建つ遍路道標」から確認しましょう。
2 三叉路に建つ遍路道標〔松山市北久米町〕

【三叉路に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市北久米町 |
主な碑文 |
(手印)左 へんろ道 |
寸法 |
20×18×48 |
備考 |
個人邸の南東角 |

この遍路道標の向かい側にあるのが「古い道標を模した遍路道標」です。遍路道標自体が大きく、傍に大きな常夜燈があるのですぐに分かります。次の写真をご覧ください。


この場所は、松山藩が整備した讃岐街道と繁多寺に向かう遍路道との分岐点でもあります。県道40号を挟んで向かい側にある大きな遍路道標に記された文字を確認しましょう。
【関連記事】「松山札辻より○里」里塚石を探索せよ!Part.1讃岐街道編
3 古い道標を模した遍路道標〔松山市北久米町〕
【古い道標を模した遍路道標データ】
所在地 |
松山市北久米町 |
主な碑文 |
右 へんろ道/左 御城下道 松山市北久米町 寄贈 仙波豊幸 世話人 石山熊太郎 昭和四十八年五月吉日 組中安全 |
寸法 |
備考 |
個人邸の南東角 |

「右 へんろ道」と記されているように、遍路道はこの道標の右側の道を進んで北野丸山墓地(久米霊園)を抜け、繁多寺に続きます。


この道標から繁多寺に向かう遍路道について、『伊予の遍路道』は次のように記述しています。
浄土寺から繁多寺へ
この道標から県道を右にそれた遍路道は北にしばらく進み、やがて久米霊園にさしかかる。霊園の西側を北に600mほど進んでさらに畑寺浄水場前の坂道を登りきると、繁多寺の山門に至る。

繁多寺に向かう遍路道沿いに史跡がありましたので、ご紹介します。
聖人塚〔松山市畑寺町〕

シキビが供えられていて誰かのお墓のようです。付近に解説板がなかったので帰宅後にGoogle Mapを見てみると、「聖人塚」と記されていました。

インターネットで検索したところ、「たけのしんの番外札所」というホームページに記載がありました。引用します。
聖人塚
ある干ばつの年、地下室を作り早魃祈願のため「即身成仏」になる決意をして思い切り念仏を唱えるから鉦の音が止んだらここに葬ってくれ遺言し命の限り鉦を叩いて雨乞いをしました。鉦の音が止み高僧(覚了法師といわれる)は亡くなりましたが21日目に雨が降り農民は救われました。後々にも高僧の徳をたたえここに供養塔が建てられたのです。供養塔には「当山始祖聞天応元年(781)3月15日入定」と刻まれています。 今も塔には花や線香が絶えません。(略)この前の道は遍路道になっていますが以前松山22聯隊がここを通るとき乗馬の将校はこの前では必ず馬から降りたと云われます。
【参考】たけのしんの番外札所 聖人塚

何と自らを犠牲として雨乞いをし、亡くなった高僧のお墓でした。風化が進んでいて供養塔に刻まれた文字を読むことはできませんが、781年が間違いでなければ奈良時代後期のことになります。今度図書館で調べてみよう。さて、ここからさらに北進すれば、すぐに繁多寺に到着です。
繁多寺〔松山市畑寺町〕


山門前に繁多寺の由来を記した解説板がありました。確認しましょう。


「孝謙天皇の勅願により行基が開創した」ということですから、奈良時代、しかも東大寺の盧舎那仏造立と同時期ですね。山門前に遍路道標が建てられていました。

4 繁多寺山門前に建つ遍路道標〔松山市畑寺町〕
【繁多寺山門米に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市畑寺町 |
主な碑文 |
五十番札所/慶応乙丑元季 五月祥日 施主 山岡屋七郎兵衛(他1名) (手印)石手寺二十丁 へんろみち/(手印)浄土寺十五丁遍路道 |
寸法 |
33×34×118 |
備考 |
繁多寺山門前 |

遍路道標探索の旅を続けましょう。繁多寺から次の遍路道標までのルートについて、『伊予の遍路道』は次のように記述しています。
繁多寺から石手寺へ
山門前の道標から、右手に北谷池を見て400mほど坂道を下り、桑原八幡神社前から西に坂を300mほど下ると県道40号に出合い、そこに道標がある。

県道40号に再び合流するのですね。繁多寺以降のルートを地図で再確認しましょう。


県道40号沿いには遍路道標が点々と建てられていますね。一つ一つ確認していきましょう。
5 県道40号との合流地点に建つ遍路道標〔松山市畑寺2丁目〕

【県道40号との合流地点に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市畑寺2丁目 |
主な碑文 |
(手印)此方 へんろみち |
寸法 |
30〜50×20〜30×50〜60 |
備考 |
個人邸前 |

この道標から県道40号を北進すると、松山東雲女子大学・短期大学付近の交差点に次の遍路道標が建てられていました。
6 松山東雲女子大学・短期大学付近の交差点に建つ遍路道標〔松山市桑原3丁目〕
【松山東雲女子大学・短期大学付近の交差点に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市桑原3丁目 |
主な碑文 |
(手印)右 へんろ道 文政九戌七月日 |
寸法 |
26×16×105 |
備考 |
松山東雲女子大学南三叉路 |

なお、この道標の南向かい側に伊藤博文の名が記された石碑も建てられていました。


「淡路ヶ峠」とは、松山市桑原の東方にある小高い山のことです。Google Mapで位置を確認しましょう。

繁多寺の北東に位置していますね。「桑原地区まちづくり協議会」ホームページによれば、明治42(1909)年3月、伊藤博文が松山を訪れた際、道後からはるばる桑原の方を指さし、淡路ヶ峠を仰ぎ見て合掌したそうです。この年、伊藤博文はハルビンで暗殺されます。「桑原地区まちづくり協議会」のホームページをリンクさせておきますので、詳細はそちらをご一読ください。

松山東雲女子大学・短期大学付近の交差点に建つ遍路道標から県道40号をさらに500mほど北進すると、県道の左側、少し低くなった所に次の道標がありました。
7 県道40号沿いの三叉路に建つ遍路道標〔松山市桑原3丁目〕
【県道40号沿いの三叉路に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市桑原3丁目 |
主な碑文 |
(手印)へんろ(以下不明) (手印)へんろ(以下不明)/丑ノ年男 |
寸法 |
23×22×65 |
備考 |
バス停畑寺住宅前から30mほど石手寺寄り |

この遍路道標は非常に分かりにくい場所にあります。県道40号の左側をよく見てくださいね。次の遍路道標は東野6丁目の信号機の下に建てられていました。
8 信号機下に建つ遍路道標〔松山市東野6丁目〕


道標に記された文字を確認しましょう。
【信号機下に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市東野6丁目 |
主な碑文 |
石手寺 へんろ道/昭和十二年一月建之 澤田音次郎/(手印) |
寸法 |
18×15×125 |
備考 |
墓地北西角の三叉路 |

ここから県道40号をさらに北進すると、右側に次の遍路道標が建てられていました。
9 美容室手前の三叉路に建つ遍路道標〔松山市正円寺3丁目〕
【美容室手前の三叉路に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市正円寺3丁目 |
主な碑文 |
(手印)へんろみち/淡州山添村 廣田惟始 嘉永七年寅三月 村 嘉右エ門(他1名) |
寸法 |
32×21×70 |
備考 |
正円寺口バス停向かい |

遍路道はここで二手に分かれます。地図をもう一度ご覧ください。


県道40号をそのまま北進するルートと、この遍路道標がある交差点を左折して次の道標があるところを右折するルートがありますね。次の遍路道標をご覧ください。
10 県道40号から西へ進んだ所に建つ遍路道標〔松山市正円寺2丁目〕
【県道40号から西へ進んだ所に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市正円寺2丁目 |
主な碑文 |
(不明)ろみち/(不明)組金蔵 |
寸法 |
18×16×55 |
備考 |
個人邸南西角。上部は折損して紛失している。 |

残念ながら上部が欠けていて、途中からしか文字を読むことができませんでした。この道標から真っ直ぐ北進すると、再び県道40号に合流します。そしてしばらく北に進み、石手川に架けられた遍路橋を渡ると石手寺はすぐ目の前です。


遍路橋を渡ると、県道40号と国道317号とが交わる遍路橋北交差点があります。柳原極堂の回想によれば、交差点付近にはかつて石手寺の一の門があったそう。なお、明治28年9月20日に正岡子規が柳原極堂を伴って石手寺へ吟行を行った際、石手川の堤防上を歩きながら次の句を詠んでいます。
二の門は 二町奥なり 稲の花

「二の門」というのは、現在国宝に指定されている石手寺仁王門のことだとされています。


「一の門」はどのような門だったのでしょうか?見てみたいですね。明治28年9月20日の吟行については、当ブログの記事にまとめていますので、そちらをご覧ください。

遍路道標探索の旅を続けましょう。石手寺前に延命地蔵尊が祀られていて、御堂の傍に遍路道標が建てられています。確認しましょう。
11 延命地蔵尊傍に建つ遍路道標〔松山市石手3丁目〕
【延命地蔵尊傍に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市石手3丁目 |
主な碑文 |
(手印)遍ん路道/當城下/新屋竹次 |
寸法 |
28×24×149 |
備考 |
平成8年、地蔵堂とともに石手寺前から移動 |

『伊予の遍路道』によれば道路拡張の際にこの場所に移され、元の位置にこの道標を模したものが平成4年に建てられているそうです。訪れてみると本当にありました。
12 石手寺門前の向かい側に建つ遍路道標〔松山市石手3丁目〕

新屋竹次のところが「中組」に変わっているだけで、他の文字は道標11と同じですね。さて、次の道標は石手寺にあります。『伊予の遍路道』の記述を確認しましょう。
石手寺から道後温泉へ
境内に入って、「此寺は境内の入口に幡居せる松の巨木及び、同所にある源頼義の供養塔が、既に参拝者をして尋常の寺にあらざる事を思はしめる。」と昭和16年(1941年)に遍路した橋本徹馬は記しているが、この名物「亀の松」は枯れて今はなく、巨大な五輪塔も北側にある寺の駐車場に移されている。かつては巨松の下に立ち、今は参道中央にある武田徳右衛門の道標が「是より太山寺迄弐里」を示している。
※ 太字は引用者による

何と徳右衛門道標が石手寺にありました。見てみましょう。
13 石手寺参道中央に建つ遍路道標〔松山市石手2丁目〕
【石手寺参道中央に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市石手2丁目 |
主な碑文 |
(梵字)(大師像)是より太山寺迄 弍里 施主 當松山城下北組 坂右エ門 鹿治 願主 越智郡朝倉上村 徳右衛門 |
寸法 |
25×22×144 |
備考 |
石手寺参道口の中央 |

風化が進んでしまって、文字が非常に読みにくくなっていますね。ちなみに「石手寺」という名称は、四国遍路の祖とされる衛門三郎の伝説に基づいています。参道入口に衛門三郎像がありますので、ぜひ石手寺を訪れてみてください。

【参考】四国おへんろ.net 衛門三郎伝説〜四国遍路の開祖〜

石手寺を離れ、道後温泉に向かいましょう。石手寺の門前から寺井川に沿って道後方面へ続く県道187号が遍路道です。県道沿いには句碑や常夜燈があり、観光客の目を楽しませてくれます。一つずつ紹介しますね。
正岡子規句碑

正岡子規 句碑
漱石の愚陀仏庵に滞在中、松山近辺に再三吟行した明治28年9月20日、柳原極堂と石手方面に俳句取材にでかけた。砂土手に満開の蕎麦の花が西日を浴びていた。子規はふるさとの風情を満喫したのである。〔解説板に記載〕

「砂土手」とは、松山城を築城した加藤嘉明が、豊臣方の勢力から城を守るために城の東方に造営した土塁のことです。当ブログの記事にまとめていますので、どうぞご覧ください。
【参考】「砂土手」跡を探訪しよう!
夏目漱石句碑

夏目漱石 句碑
漱石が子規へ送った送別の句である。ご出発ですか、ご出発なさいませ。お祝いに新酒をふるまい、菊の花を活けましょう。漱石は52日間生活をともにした子規を感無量の思いで見送ったのである。〔解説板に記載〕
高浜虚子句碑

高浜虚子 句碑
高浜虚子は、子規の門下、河東碧梧桐とならぶ高弟。子規から俳誌「ホトトギス」を託され今日の俳句隆盛の礎となった。句は明治36年9月20日、子規旧居における子規一周忌追善句会においての詠である。〔解説板に記載〕
種田山頭火句碑

種田山頭火 句碑
山頭火はこの句の前書に「解くすべもない惑いを背負い行乞の旅に出た」とある。青は緑という意味である。自らの迷いの深さを山々の緑の深さに重ねた句である。〔解説板に記載〕

これら4つの句碑の向かいに大きな常夜燈が建てられています。
県道187号沿いに建つ常夜燈

この常夜燈のすぐ近くに遍路道標が建てられています。遍路道標探索ルートの地図を再確認しましょう。


遍路道標は県道187号と旧道との分岐点にあります。現地の写真をご覧ください。


この旧道について、『伊予の遍路道』は次のように記述しています。
石手寺から道後温泉へ
石手寺の門前から寺井川(湯の川)に沿った遍路道は、県道六軒屋石手線(187号)を道後方面に向かう。約500m行くと、左手の下石手バス停留所前に中務茂兵衛の道標がある。これより道は二手に分岐する。道標の指示で、直進は道後へ向かい、「左松山」とは道後には寄らず湯築(ゆづき)城跡を経て松山城下へ至る道を案内している。松山城下へ向かった場合、まもなく寺井川に架かる道後上市(かみいち)橋に至るが、その橋のたもとにはかつて茂兵衛道標が立っていた。この道標はいろいろと移動したあと、現在は松山市堀之内にある愛媛県立歴史民俗資料館に保管されている。これを見ると、右は太山寺へ67丁余と刻して道後へ向かう道を指し、左は松山城下への道を示しているようである。
※ 太字は引用者による

この遍路道標は中務茂兵衛が建立したものでした。道標に記された内容を確認しましょう。
14 県道187号と旧道との分岐点に建つ遍路道標〔松山市石手5丁目〕
【県道187号と弓道との分岐点に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市石手5丁目 |
主な碑文 |
(手印)道後 壹百十七度目為供養建之 周防國大島郡椋野産 施主 中務茂兵衛義教 左石手寺 伊豫國道後湯月町 施主 玉井大三郎(他3名) 左松山 為二十三度目供養 大阪市南區難波村 施主 芋熊 田中利兵エ(他1名)/明治二十四年二月吉辰 |
寸法 |
31×31×156 |
備考 |
下石手バス停留所の側。松山市内にある茂兵衛道標の中で最大のもの。 |

この道標から県道187号を道後方面へ進むと、日切大師と薬師如来像がありました。
日切大師と薬師如来像

ここから県道187号を道後方面へ進むと、右手に義安寺が見えてきます。そこにも遍路道標がありました。『伊予の遍路道』の記述を確認しましょう。
石手寺から道後温泉へ
再び道後方面への県道187号を行く遍路道に戻る。道は、「おろくぶさま」として親しまれ、戦前まではホタルの名所で知られていた義安寺の前を通る。西参道口に立つ標石2基のうち、1基が遍路道標である。文政4年(1821年)建立で仏像を浮き彫りにし、先祖や「おきよ」の菩提(ぼだい)を弔う供養塔の意味を持つようである。
※ 太字は引用者による
15 義安寺の西参道口に建つ遍路道標〔松山市道後姫塚〕
【義安寺の西参道口に建つ遍路道標データ】
所在地 |
松山市道後姫塚 |
主な碑文 |
(仏立像)(手印)此方へんろ道 為先祖代々菩提 為俗名おきよ菩提 文政四巳六月吉日/施主 土佐屋 井筒屋 |
寸法 |
33×19×113 |
備考 |
義安寺西参道口 |

遍路道はこのあと義安寺の先にある地蔵堂を右折し、伊佐爾波神社前で二手に分かれます。『伊予の遍路道』の記述を確認しましょう。
石手寺から道後温泉へ
県道を行く遍路道は、義安寺前から100m余進んだ所にある地蔵堂で右折し、神社石段下に至る。そこで道は分岐し、その一つは左折して参道の坂を西へ向かって下る遍路道で、右手冠山の湯神社前を通過し、御手洗橋を渡って右折し、道後温泉本館前に出る。なお、御手洗橋を渡って100mほど西進すると伊予鉄道市内電車の道後温泉駅に至る。もう一方が県道を行く遍路道で、神社石段下を横切って北進、右手に旧廓(くるわ)街の松ヶ枝町や突き当たり奥にある一遍上人生誕の地として知られる宝厳寺を見て、冠山の裾(すそ)を巡って坂を下り、神社石段下から約200mほどで道後温泉本館裏に至る。
※ 太字は引用者による

お遍路さんたちはどちらかの道を進んで道後温泉本館に至り、旅の疲れを癒したのでしょうね。


今回は以上です。道後温泉入湯後、お遍路さんは現在の道後商店街を通過して次の札所である太山寺へ向かいました。調査終了後に記事にまとめますので、暫くお待ちください。ここまでご覧いただき、ありがとうございました。