松山電気軌道の廃線跡をたどろう!⑥ 六角堂〜道後〔終点〕

Teacher

 前回は松山東警察署前までの廃線跡とその周辺の歴史を確認しました。今回は、警察署前から終点の道後駅までの廃線跡をたどります。

Takashi

 いよいよ最後ですね。

Teacher

 廃線跡と周辺の歴史の話を始める前に、松電の停留所の場所を再確認させてください。

Takashi

 いいですけど、どうしたのですか?

Teacher

 松電について調べていくうちに、以前紹介した停留所の場所等を変更する必要が出てきたのです。

松山電気軌道の停留所の場所【訂正】

Teacher

 下の図は、これまで提示してきた松電の路線と停留所の場所です。

松山電気軌道の路線と停留所の場所【訂正前】 ※ 国土地理院電子国土基本図から作成
Takashi

 どの部分が変わったのでしょうか?

Teacher

 以下に停留所名と変更理由をまとめますね。

  • 八股停留所「八股停留所」との記載がある戦前絵葉書が存在するため、距離が近い榎前停留所を削除して統合。
  • 裁判所前停留所 昭和20〔1945〕年まで県商品陳列所が存在したことから、「商品陳列所前停留所」に変更。
  • 六角堂停留所 … 『伊予鉄が走る街 今昔』に、大正15〔1926〕年に伊予鉄道が設置したとの記述があるため削除。
  • 農業試験場前停留所 … 『伊予鉄が走る街 今昔』に、大正15〔1926〕年に伊予鉄道が設置したとの記述があるため削除。
  • 公園前停留所    … 『伊予鉄が走る街 今昔』に、大正15〔1926〕年に伊予鉄道が設置したとの記述があるため削除。

【参考】廃線隧道【BLOG版】松山電気軌道⑤【八股〜一番町】 ※ 戦前の絵葉書を掲載

Teacher

 これらを踏まえて訂正すると、下図のようになります。

松山電気軌道の路線と停留所の場所【訂正後】 ※ 国土地理院電子国土基本図から作成
Takashi

 そうなると、一番町停留所を出発した松電の電車はどこにも停まらずに道後駅まで進んだことになりますね。

Teacher

 今回は、平成18〔2006〕年に出版された『伊予鉄が走る街 今昔』という書籍の記述をもとに変更しました。しかし、文献等によっては八股停留所と榎前停留所が同時に記載されていたり、今回削除した停留所が記載されているものもあるので、これが正解とは言い切れません。

Takashi

 約100年前に存在していた電車ですからね。停留所の新設や場所の変更などがあったかもしれませんね。

Teacher

 今日は、改訂版の地図の方を見ながら廃線跡をたどることにしましょう。

Takashi

 はい。

① 松山東警察署周辺 〜辺り一面桑畑〜

Teacher

 さて、昭和22〔1947〕年に米軍が撮影した航空写真を見てみましょう。

昭和22〔1947〕年米軍撮影の航空写真 ※ 国土地理院ホームページから引用
Takashi

 伊予鉄道が買収した道後鉄道の軌道跡がはっきり確認できますね。道路になっているところもあるとは思うけど。

Teacher

 松山東警察署周辺から話を始めましょう。警察署の場所は分かりますか?

Takashi

 はい。ここです。

昭和22〔1947〕年米軍撮影の航空写真に加工したもの ※ 国土地理院ホームページから引用
Teacher

 その通りです。松電の廃線跡は警察署前にある斜めの道でしたね。Takashi君、松電の電車が走っていた頃、松山東警察署はまだこの場所にありませんでした。当時、この場所には何があったと思いますか?

Takashi

 いいえ、分かりません。

Teacher

 当時この場所には県農業学校松山測候所があり、辺り一面が桑畑だったのです。

【参考】ブログ「EEKの紀行 春夏秋冬」松山市の路地 その1持田町 ※ 明治40年頃に道後公園山頂から撮影した写真が掲載されています。

Takashi

 昭和22年の航空写真よりも田園が広がっていますね。先生、測候所とは何ですか?

Teacher

 測候所とは、気象観測・地震観測を行う地方機関のことで、気象庁に属しています。一部では天気予報・気象警報などをの発表も行っています。現在は、松山地方気象台という名称で、北持田町にあります。

Takashi

 道後鉄道の軌道沿いですね。いつ頃からこの場所にあるのですか?

Teacher

 昭和3〔1928〕年からです。松山地方気象台のホームページに沿革が記載されているので、引用しましょう。

  • 明治23〔1890〕年 愛媛県立松山一等測候所として設置〔愛媛県温泉郡持田村〕。
  • 大正 8〔1919〕年 等級制廃止により、愛媛県立松山測候所に改称。
  • 昭和 3〔1928〕年 現在地〔松山市北持田町102番地〕へ庁舎移転。 以下略

【参考】松山地方気象台ホームページ 気象台の歴史

Takashi

 ホームページには松山第一測候所時代の写真が掲載されていますね。

Teacher

 はい。移転した理由は、大正14〔1925〕年に勝山町通りが拡張〔農道程度から幅約20mへ〕され、翌年に線路の複線化が実現すると、測候所前を頻繁に電車が走るため、地震観測などに都合が悪くなったためだといわれています。

Takashi

 なるほど。昭和22年の航空写真からもその道幅が確認できますね。

Teacher

 続いて、県立農業学校がこの地に設立された経緯です。『愛媛県史 社会経済1 農林水産』の記述を引用しましょう。

農学校の設立と持田町への移転

 民部省勧農局(明治二年八月設置 同四年八月大蔵省、同六年内務省に移管)は、欧米の大農法・西洋農具・外国産穀類蔬菜類などの試験研究機関として、明治四年に霞か関試験場(馬耕機・洋菜類の試験)と駒場試験場(牧畜試験)、明治五年に内藤新宿試験場(牧畜・種芸の試験)、同七年に三田植物試験地、同八年に下総牧羊場、などを相次いで設立するが、これらの官設中央試験場にならい、地方でも明治七年前後から各種各様の試験場が続々と設置されるようになり、本県では明治七年に温泉郡松山堀内町(現在の松山市堀ノ内)に愛媛県種芸試験所が設置された。(のち「種芸試験場」と呼ばれた)

 種芸試験所は、二、八〇〇歩の土地をもち内外の種苗の栽培試験、西洋農具の実験などを実施していたが、明治一一年三月に温泉郡持田村(現在の松山市持田町)に一町四反二畝弱の民有地を購入し、これに五反歩余の土地を購入追加して二町五歩とし、勧業試験場と改称して移転した。

 勧業試験場は、植物(主として桑)の栽培法と肥料の効力試験を行うかたわら各種の優良種苗を繁殖し有志に分賦していたが、実態は桑の栽培試験を主体とした養蚕試験場であり、明治二一年から養蚕伝習所と改名された。

 養蚕伝習所は、試験研究のほか、養蚕農家の子弟の教育を行い、多くの人材を養成(通算二二五名)していたが、明治三三年(生徒入学は三四年四月)に本県最初の農学校―愛媛県農学校(大正七年四月松山農学校と改称)の設立にあたり、圃場・施設のすべてを同校に移譲して廃止された。(廃止決定は明治三一年の県会)

 その松山農学校は、昭和四年四月に温泉郡桑原村樽味(昭和一五年八月松山市に合併)に移転、昭和二〇年四月から県立農林専門学校となり、同二四年四月に県立松山農科大学に昇格し、同二九年四月、国立に移管し、愛媛大学農学部と改称された。

『愛媛県史 社会経済1 農林水産』 ※ 下線及び太字は引用者による
Takashi

 なるほど。養蚕に関する研究や教育が主体だったから、辺り一面が桑畑だったわけですね。

Teacher

 その通りです。桑畑が広がる風景を右に見ながら、松電の電車は道後に向かって進んでいったのです。

② 東一万町付近 〜カーブと跨線橋〜

Teacher

 東一万町は、上一万駅を出発した伊予鉄道の電車が南町駅に向かう線路の南側一帯の地域をいいます。

Takashi

東一万町ってこんなに細長いのですね。

Teacher

 Takashi君、伊予鉄松山市駅線の南側に線路と同じようにカーブしている道があるのが分かりますか?そこが松電の廃線跡です。

Takashi

この辺りを通った時、なぜこんな形になっているのだろうと不思議でした。

Teacher

 現況を写真で確認しましょう。

勝山町通り東側から撮影。軽トラック付近の歩道と道路がカーブしている。
勝山町通り西側から撮影。原付付近の道路と歩道に注目。
Takashi

このカーブが松電の廃線跡なのですね。

Teacher

 そうです。このあと、松電と伊予鉄道の路線がクロスするため、松電の電車は跨線橋の上を走って伊予鉄道の路線を跨ぎ越し、道後駅へ向かったのです。昭和22〔1947〕年の航空写真でその位置を確認しましょう。

昭和22〔1947〕年米軍撮影の航空写真 ※ 国土地理院ホームページから引用
Takashi

交差しているのがよく分かりますね。

Teacher

 廃線隧道【BLOG版】に松電の跨線橋の写真が掲載されています。見てみましょうか。

【参考】廃線隧道【BLOG版】松山電気軌道⑦【上一万〜公園前】

Takashi

古町駅付近に残る橋脚跡と同じですね。

Teacher

 伊予鉄道が松電を吸収合併したのちに取り壊されたそうですから、その痕跡は全く残されていません。松電の跨線橋があった場所は、現在こんな風景になっていますよ。

南から北方面を撮影。南北に走る道路が道後鉄道〔のち伊予鉄道〕の廃線跡。左の建物が矢野産婦人科。
北から南方面を撮影。現在の伊予鉄道の路線は、もともと松電の路線であった。

【参考】正岡子規『散策集』吟行の道をたどろう!道後湯之町へ① ※ 道後鉄道の廃線跡と現況についてはこちらで確認!

Takashi

本当に痕跡一つありませんね。

Teacher

 この場所から少し東へ進んだところに、松電が営業していた時代に存在していたものの痕跡があります。

Takashi

ここから東といえば県民文化会館ですか?

Teacher

 県民文化会館の竣工は昭和61〔1986〕年のことで、これから説明する“痕跡”の跡地につくられました。その痕跡を写真で撮影してきましたので、見てみましょう。

「愛媛県農業試験場」跡
Takashi

農業試験場がこの場所にあったのですね。

Teacher

 そうです。敷地内には、こんな石碑がありました。

「興農以徳樹」と刻まれた碑
Takashi

明治45〔1912〕年1月に道後村に移転ということは、松山電気軌道が開業して半年後のことですね。

Teacher

 農業試験場設立の経緯について、『愛媛県史 社会経済1 農林水産』には次のように記述されています。

農業試験場の設立について

 明治三一年の県会で農学校の開設と同時に養蚕伝習所の廃止が決議された翌明治三二年に、府県農事試験場国庫補助法(六月七日 法律第百二号)が制定され、府県の農事試験場の事業を奨励するため、国庫で年間一五万円の費用が補助されることになった。

 養蚕伝習所の廃止は、国のこの方針と時流に逆行するものとして、県農会は総会の議決を経て知事に対して次の建議を行うと同時に、県会議員ほか各方面の有志を対象にして農事試験場設立の活発な運動を展開した

   農事試験場の設置に付建議

 明治三〇年通常会以来 県設農事試験場規模拡張の建議案を可決して再度建議せり 然るに反て客年通常県会に於て農事試験場費を全廃するの非運に遭遇し、遂に中絶したることは県下農業の為め最も痛歎すへき事柄に属す 思うに県会決議の趣旨は農事試験場 其のものを否認したるものにあらすして 恐くは既設事業の挙らさるを慨し寧ろ他に建路を需めんとするに由りしなるへし 而して本年六月法律第百二号を以て府県農事試験場国庫補助法発布せられ 應に設置の義務を明にし大に設立の便益を啓かる 依て明治三三年度を期し再び之か設置あらんことを

     右本会の決議を経て建議候也

        明治三二年一一月二六日     県農会長 有友正親

      愛媛県知事 大庭寛一殿

 組織の総力を傾けた猛運動が奏功し、県会の議決を覆す異例の成果を収め、農事試験場の再建が決定した。(明治三三年二月二六日 設立認可、同年三月三一日 県告示第九七号)

 初年度予算二、六〇四円八〇銭を以て明治三三年四月一日に発足し、当初は温泉郡余土村(現在の伊予鉄郡中線余戸駅の東南地)に本場を置き、周桑郡小松村に東予分場、北宇和郡八幡村(現在の宇和島市)に南予分場が設置された。

 東予分場は明治三八年に養蚕部を新設したが、翌三九年に両分場とも廃止され、業務は総て本場に統合された。その本場も研究課題の増加によって狭隘となり、明治四三年に温泉郡道後村大字道後に敷地圃場、合わせて四町九反歩を求めて移転した。(移転準備は四四年秋に始まり、四五年夏に移転完了)

『愛媛県史 社会経済1 農林水産』 ※ 下線及び太字は引用者による
Takashi

この頃は養蚕や製糸業が盛んな時期ですから、議会においても再建に必死であった様子が伝わってきます。

Teacher

 そうですね。松電の存在を通して、明治から大正時代にかけての愛媛県の産業のことまで分かるというのは面白いですね。

Takashi

はい。勉強になります。

Teacher

 農業試験場前を通過した電車は、道後公園前を経由して終点の道後駅へ向かいました。

③ 道後駅、終点

Teacher

 下の写真は、現在の道後温泉駅を撮影したものです。

現在の道後温泉駅
Teacher

 当時は、松電の道後駅と伊予鉄道の道後温泉駅が隣接していました。左側にある1階建ての建物の部分が、松電の道後駅があった場所です。

【参考】廃線隧道【BLOG版】松山電気軌道⑧【公園前〜道後】

Takashi

本当だ!一番町駅と同じですね。

Teacher

 松電の道後駅は、伊予鉄道による吸収合併後に取り壊されてしまいましたので今は松電の痕跡といえば線路しかありません。

Takashi

ここまで確認を続けてきましたけど、松電を通して松山市の歴史の一端を知ることができてよかったです。

Teacher

ありがとう。それでは、伊予鉄道による吸収合併後の松電の路線についてまとめて終わりにしましょう。

松山電気軌道の路線と停留所の場所【訂正後】 ※ 国土地理院電子国土基本図から作成
  • 大正12〔1923〕年 江ノ口-道後間の軌間を1,435mmから1,067mmに改軌。
  • 大正15〔1926〕年 一番町-勝山町を経路変更し複線化、勝山町-道後間が複線化される。
  • 昭和 2〔1927〕年 高浜線に並行している三津街道上の軌道〔江ノ口-萱町間〕を廃止。古町と上一万の跨線橋を撤去。
  • 昭和 4〔1929〕年 萱町停留所から古町駅への引き込み線竣工により、古町-萱町間開業。
  • 昭和11〔1936〕年 西堀端-商品陳列所前間複線化。
  • 昭和21〔1946〕年 西堀端-本町-萱町-古町間休止認可。
  • 昭和23〔1948〕年 西堀端-本町三丁目〔現 本町四丁目〕間が本町線として開業。本町-古町間は廃止。
Takashi

この経緯を見ると、昭和22年の航空写真で松電の廃線跡がはっきりと確認できたことが分かるような気がします。

Teacher

そうですね。他の地域でも古写真と現況を比較しながら各地の歴史を確認していきましょう。

Takashi

はい。ありがとうございました。

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松山電気軌道の廃線跡をたどろう!⑥ 六角堂〜道後〔終点〕” に対して2件のコメントがあります。

  1. 正岡 英記 より:

    とてもすばらしい分析に感心しています。ただ、

    https://takeikenji2.com/%e6%9d%be%e5%b1%b1%e9%9b%bb%e6%b0%97%e8%bb%8c%e9%81%93%e3%81%ae%e5%bb%83%e7%b7%9a%e8%b7%a1%e3%82%92%e3%81%9f%e3%81%a9%e3%82%8d%e3%81%86%ef%bc%81%e2%91%a5-%e5%85%ad%e8%a7%92%e5%a0%82%e3%80%9c%e9%81%93/

    のページについて。ページ中段に、

    「Takashi君、伊予鉄松山市駅線の南側に線路と同じようにカーブしている道があるのが分かりますか?そこが松電の廃線跡です。」

    とありますが、東一万町の真北の細い道は、平成3年頃まで、伊予鉄道の市内電車が通っていました。

    当時は、南町側と平和通りが直線でつながっていなくて、上一万交差点でクランクのようになっていました。

    つまり、松電の廃線跡ではなくて、昭和~平成初期の伊予鉄道の廃線跡なのです。

    現在の線路に付け替えられたのがいつなのかはわかりません。1990年~2000年の間だと思います。

    1. takeikenji2@me.com より:

       ご指摘ありがとうございました。『伊予鉄が走る街 今昔』のP.42〜43に掲載されているコラム「上一万の線路分岐の変遷」によると、家屋の撤去後に道路の拡幅が行われ、平成8(1996)年9月に分岐位置が北側に移動して現在の路線になったようです。また、前掲書P.53掲載の市内線路線変遷図を見てみると、松山電気軌道の軌道と大正11〔1922〕年吸収合併後の伊予鉄道の路線とが全く変わっておりません。ですので、「松電の廃線跡」と記載させていただきました。ただ、断定したのは行き過ぎだったかもしれません。もう少し松山電気軌道のことを調査した後、変更すべき箇所は変えていこうと思います。ありがとうございました。

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